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一章



 今年もまた、花が咲く。庭中に、春の色がひしめく。
 目的の場所まで早足で急ぎながら、ふと目に止まった花の盛りが美しく、アルシラは一度足を止めた。今日は天気が悪く、強い雨に打たれる花たちの姿は少し痛々しかったが、輝く水滴をちりばめた花も悪くない。晴れた空の下で揺れる花とは、違った美しさがある――無意識に微笑んだ直後、ゆっくりしている余裕はなかったのだと思い出したアルシラは、再度早足で歩き出した。
 アルシラが目指す部屋は、長い廊下の先、館の最奥とも言えるところにある。
 到着すると、ひと呼吸だけ置いてから、二度扉を叩いた。返事はない。だがいつもの事なのであまり気にせず、アルシラは取っ手に手をかけ、ためらいもせずに扉を開けた。
「失礼します」
 一歩踏み入れると同時に、部屋の中を見回した。そこに広がるのは、いつも通りの光景だ。部屋の主であるエルローは、ソファに深く腰掛けて優雅に足を組み、じっと窓の外を眺めている。この時のエルローは意識がどこかに飛んでいるのか、それとも深い考え事をしているのか、部屋の外から声をかけた程度では絶対に気が付かないのだ。
 どこを見ているのだろうと、アルシラはいつも気になっていた。窓の向こうに見えるものは、広大なガーフェルートの庭だけだ。たいへん美しく、ただ眺めるだけでも価値あるものだが、花や緑の美しさに酔うなどと、あまりエルローらしくない、とアルシラは思っていた。
 ずいぶん前には、小さな貴婦人の姿を探しているのかもしれないと思った事もあった。エルローがそうして窓の外を見るようになったのは、九年前、ローゼンタール邸でフィアナランツァに出会った後の事だったからだ。
 だがエルローはとっくに知っている。フィアナランツァがロマールで焼死した事実を。その頃のエルローはひどく落ち込んでいて、アルシラもリュクセルも隠し通せなかった事を後悔したものだが、もう九年と言う長い時が過ぎている。エルローは、理解し、受け入れたはずだ。フィアナランツァはもう居ないのだと――二年前に決まった、ゼフィール伯爵令嬢ルリアとの婚約をためらわずに受け入れた事実が、その証だとアルシラは思っていた。
「エルロー様」
 アルシラは部屋の入り口でもう一度声をかけてみた。やはり、反応は無かった。
「エルロー様!」
 次はエルローのそばに歩み寄り、少し強めに名を呼ぶ。するとようやく気付いたのか、エルローはアルシラを見上げた。
「なんだ、いつの間に」
「すでに二度、お声をおかけしておりますので、お許しください。それより、もうすぐルリア様がいらっしゃる時間ですよ」
「ああ、そうか。判った」
 思考をはっきりさせるためか、エルローは頭を左右に振ってから立ち上がった。
 その瞬間、風が吹く。完全に閉めきっていても、風が窓を叩き付ける音が部屋の中に響くほどの強い風。窓の向こうでは、散った花びらが高く浮き上がっていた。水に濡れて重みを増しても、逆らえないほどの風なのだ。
「すごい風だな」
「本当ですね。嵐でも来るのでしょうか」
「かもしれないな」
「こんな悪天候の中足を運んでくださるルリア様を、お待たせするわけにはいきませんね」
 言い終えると同時に、アルシラはエルローを先導するために歩きはじめた。
 しかし、エルローの足音がついてこない。アルシラはエルローに気付かれないよう、小さくため息を吐いてから、振り返った。エルローがまた窓の外に視線を奪われ、呆けてしまったのかと思ったのだ。
 予想通り、エルローはじっと窓の外を見つめていた。だがその様子は、いつもと違っていた。
「エルロー様?」
 いつもならば心ここにあらずと言った様子なのだが、今のエルローの眼差しには、意志が強く宿っている。何か特別なものに視線を奪われ、魅入られたような表情をしている。
「やっと」
 エルローはゆっくりと歩き出したが、それは部屋の外に出るためではなく、窓に近寄るためだった。窓に手を付け、顔を寄せ――窓がなければ、そのまま庭に飛び込みそうな勢いで。
「来てくれた」
 まさか。
 アルシラは窓に駆け寄り、外を見下ろす。
 多くの者が外出をためらうほどの強い雨と風が吹き荒れている。それなのに庭の隅には、ほっそりとした人影が有った。それは厚い雨雲に覆われた空からおりる弱々しい光の中でも、白銀にきらめいていた。
 一番小さく慎ましい花に手を伸ばし、嬉しそうに微笑んでいる。穏やかで温かみのある顔立ちと、瞳の色の冷たさが、相反しながらも共存する容貌は、ひどく目を引く――エルローが九年前に恋した侯爵令嬢の面影を、そのまま残しているから、だろうか。
 エルローが突然、力任せに両手を窓に叩きつけた。硝子が割れる、派手な音が響く。
 影の主は、音と、きらきら輝く破片が地上へ落ちていく様子に気付き、振り返った。視線を上げ、エルローとアルシラの姿を見つけると、驚いたような表情を浮かべ、ばしゃばしゃと水をはね上げながら、走り去ってしまう。
「はは……」
 エルローは少しずつ崩れ落ち、床に膝を着く。傷付いた手を胸に抱え、低い笑い声をもらした。
 アルシラはエルローの傍らに跪き、沢山の切り傷から血をにじませる手に手を伸ばす。
「エルロー様、お手を。すぐに治療をいたします」
 エルローは血まみれの手でアルシラを軽く払いのけた。
「見たか、アルシラ」
「エルロー様」
「約束が叶った。来てくれたぞ。フィアナランツァが」
 歓喜に輝く紫の瞳。震える声。
 エルローの態度の急変ぶりに、恐怖すら覚えたアルシラは、少しでもエルローとの距離を開けるため、立ち上がった。
 今日この時が来るまで、アルシラは思い込んでいた。長い月日の中で、エルローはフィアナランツァの事を忘れてしまったのだと。エルローはフィアナランツァの死を知った日から一度として、侯爵令嬢の事を口にしなかったから。一度しか会った事がない人物を忘れるのに、充分な時間が過ぎているから。
 だが違っていたのだと、アルシラは思い知った。エルローはフィアナランツァの事を、一時も忘れていなかったのだ。侯爵令嬢への想いを、誰も気付かないようなところに、ずっと押し込めていただけなのだ。 
「ち……違います、違います、エルロー様!」
 アルシラは叫んだ。
「あの少年はフィアナランツァ様ではありません。フィアナランツァ様はロマールで亡くなったのです。あの少年に、フィアナランツァ様の面影を追うのは、おやめください!」
 あの影の主は少年だと、アルシラは知っていた。
 成長しきっていない年齢である事に、中性的な容姿が手伝って、少女に見える事は否定しない。当時のフィアナランツァと同じ年齢で、よく似ている事も否定しない。だが、フィアナランツァではない。それは明らかなのだ。
「フィアナランツァ……」
 アルシラの言葉はエルローに届かなかった。
 目の前の青年をこれほど恐ろしく感じたのは、はじめてだった。彼は年齢を重ねるにつれ、徐々に権力者特有の迫力を持つようになっていたが、それとは全く違う威圧感。そばに居るだけで、悪寒が走る。
 どう考えても、あの少年と侯爵令嬢は別人でしかありえないのに。仮にフィアナランツァが生きていて、エルローに会いに来たとして、当時のまま成長していないわけがないのだから。
 狂っている。
 そう、アルシラは思った。
 常識で考えればすぐに判るような答えを見落とすほどの、狂気。エルローはいつの間に、これほど歪んでいたのだろう。
 ずっと前からなのだろうか――フィアナランツァを失った日から?
「エルロー様……?」
 エルローは割れた窓越しに、少年が立ち去った跡へ、うっとりと酔いしれるような視線を投げていたが、やがて立ち上がり、出口へ向かって歩き出した。
「エルロー様!」
 アルシラは手を伸ばし、エルローの腕を掴んだ。嫌な予感がして、むりやりにでも引き止めねばならないと、力を入れて引いた。
 だがエルローの方が力が強いし、体格もいい。逆に引きずられる形になる。
「離せ、アルシラ。邪魔だ」
「ど、どこに行かれるおつもりです?」
「決まっているだろう。フィアナランツァの所だ。九年も引き裂かれていた僕たちが、ようやく会えたんだぞ?」
「ですが……ルリア様がもうすぐいらっしゃいます!」
 アルシラがどなると、エルローは一瞬足を止める。
 いくらなんでも、片恋の相手と家同士の結束を高める婚約のどちらが重要かを判断できないほどになってはいまい。この期に及んでまだ、アルシラは心のどこかでエルローを信じていた。
「もう必要無いだろう。僕にはフィアナランツァが居るんだ」
 だが、エルローからの返事は、アルシラの信頼を粉々に打ち砕くものだった。
 アルシラの混乱はますます深まり、「どうしよう」と、その言葉ばかりが頭の中の駆け巡る。エルローに引きずられながら、まず落ち着こうと深呼吸をし、ようやく少しの冷静さを取り戻すと、エルローから手を放した。
 代わりに、エルローの前に立ちはだかり、両腕を広げる。
「邪魔だ、と言ったのが聞こえなかったか」
 冷徹な眼差しと言葉が、容赦なくアルシラに向けられたが、アルシラはひるまなかった。
「エルロー様のお邪魔をするつもりはありません。名案を思いつきました。私がフィアナランツァ様を捜す、と言うのはどうでしょう」
「それのどの辺りが名案なんだ」
「先ほどフィアナランツァ様は、エルロー様のお姿を見つけると、逃げられてしまいました。生まれついでの貴婦人ですから、恥ずかしがって隠れてしまったのだと思います。そうなりますと、エルロー様自ら探されても、逆効果かと。代わりに、私が。同性のほうが心を開きやすいと思いますし、フィアナランツァ様のお顔を拝見した事がある女は、この館内に私しかおりません」
 よくもまあこれほど、心にも思っていない言い訳を並べられるものだと、アルシラは自分に呆れかけた。頷いたエルローがそれなりに納得している様子を見て、思い直したが。
「頼もうか」
「はい。必ずお連れしますから、お待ちになってください。あ、お部屋はいけません。すぐに割れた硝子の片付けが入りますし、今日は雨風が強いですから、窓のない部屋ではお体が冷えてしまいます。別の部屋で治療とお茶の準備をさせますね」
 アルシラは次々とまくしたて、エルローの背中を押し、何とか客間まで連れて行く事に成功する。
 エルローを迎えに行くと言う任務は、これで終わりだ。あとの、傷の治療やルリアとの対面については、他の者たちに任せる事にした。
 エルローの元を離れたアルシラは、早足どころか駆け足で、報告すべき主の元へと向かった。

「エルロー様の事が、よく判らなくなりました」
 事のあらましを説明し、最後に強い想いを伝えたアルシラは、胸の前で手を組み、懇願するような瞳でリュクセルを見上げる。
 とりあえずエルローを納得させるために捜すなどと言ってみたが、当然捜す気などない。捜しても居るはずが無いのだ。フィアナランツァはずいぶん前に死んでいるのだから。
 だからアルシラたちは、フィアナランツァがもう居ない事を、どうやってエルローに納得させるか、納得させる事ができないならばどうごまかすか、それを急いで考えなければならなかった。
「わがままな部分は以前からあると思っていましたが、それとは違うのです。今日のエルロー様からは……狂気と言えばいいのでしょうか。とにかく、鬼気迫るような何かを感じました」
「狂気、か」
 リュクセルは呟き、天井を仰ぐ。けれど天井ではないどこか遠くを見つめている眼差しは、奥に苦痛か何かを秘めているようだった。
「そうだな。今日のエルロー様の言動は、通常では考えられないものだろう」
「はい」
「だがどうやら私は、エルロー様の変化に、さほど驚いていないようだ」
「え?」
 アルシラは、目を見開く。リュクセルが語った言葉の意味が、理解できなかったのか、理解する事を本能的に拒否しているのか、頭の中に入ってこないのだ。
 戸惑うアルシラに気付いているのかいないのか、リュクセルは言葉を続けた。
「エルロー様が抱くフィアナランツァ様への想いはとても深い。お前や、もしかしたら私が思うものより、ずっと」
「執着している、と言うですか? だからって……」
 リュクセルは静かに、けれど深く長く、息を吐く。それはアルシラの反論を防ごうとしたものに思えたので、アルシラは口をつぐんだ。
「私にも、お前にも、理解できないのだろう。きっとな」


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Copyright(C) 2009 Nao Katsuragi.