一章
3
ガーフェルートの食卓に、エイナスが居る事はほとんどない。エルローはいつも、空いている上席を横目に、母や妹と食事をしていた。
父がいつ食事を摂っているのか少し気になったが、誰かに質問する気にはなれなかった。父が、家族と共に食事をするとか、家族と会話するとか、そう言った事に欠片も意味を見出していない事実を、思い知りたくなかったのかもしれない。
思えば、それは父だけでなく、母も同じだった。母はエルローの事を大切にしてくれていたが、それは「ガーフェルート家の跡継ぎを産んだ女」と言う地位を守るためでしかなく、エルロー個人に対して向ける感情は、愛情ではなく多少の憎しみや苛立ちのほうだった。彼女はエルローを産むと共に二度と子供を産めない体となった事が原因で、エイナスの興味が自分に向かなくなった事に、ひどく傷付いていたのだ。
エルローに対してもそうなのだから、愛人の子であるアーシェリナに向ける憎悪が計り知れないほど苛烈なのは、当然なのだろう。それでも母は直接的にアーシェリナをいじめる事はなかった――少なくともエルローの目に入る所では――のだが、幼いがゆえの敏感さで自分に向けられる感情に気付いていたアーシェリナは、常にエルローの母に怯えていた。
父が居たからと言ってなごやかな雰囲気になる事はまずないが、三人で食事をする時に流れる緊迫した空気は、酷いものだった。沈黙のまま終わるのが常で、緊張のあまり味が判らない事もしょっちゅうだ。
だからエルローは、何らかの理由で母が出かけている日が大好きだった。その日だけは気楽に、アーシェリナと語り合いながら、楽しくおいしく食事をする事ができるからだ。
昨晩両親が出かけたと聞いた時から、どれほど朝が来るのを楽しみにしていたか!
それなのにエルローは今、たったひとりで、食卓に着いている。はじめはアーシェリナが寝坊しているのかと思ったが、そうではないらしい。はじめから彼女の席が用意されていないのだ。
「アーシェリナは?」
真っ先に給仕役に訊いてみたが、「さぁ……」と曖昧な返事が来るのみで、妹が居ない理由は判らなかった。
「ねぇ、アーシェリナは!?」
今度は大声で叫んでみた。声は食堂の中だけでなく、外の通路にまで届いたはずだが、やはり誰も答えを教えてくれなかった。
腹が鳴るほど空腹だったので、エルローは仕方なくひとりきりで食事に口を付けはじめる。けれどいつもとは違う静けさが、妙に気分を逆撫でして、ふた口程度飲み込んだだけで、手を止めた。
「いかがなさいました、エルロー様。お口に合いませんでしたか?」
給仕役が心配そうにエルローの顔を覗き込む。
そう、確かに、まずかった。けれどそれは、料理人の腕が悪いせいではなく、自分の気分が悪いせいだと知っていた。
エルローは無言で皿をひっくり返した。皿が割れる音と、数人の侍女たちの小さな悲鳴が、静かな食堂内に響き渡ると、少しだけ気分が晴れた気がしたが、やはり怒りは治まらなかった。無言で席を立ち、食堂を飛び出した。
「アーシェリナ!」
広い屋敷の中を駆け回った。制止の声や、部屋の中に居る者たちの都合などお構いなしに、目に付く扉を片っ端から開けていった。けれどもアーシェリナの姿はどこにも見つからず、焦燥感がつのる一方だった。
「エルロー様」
落ち着いたリュクセルの声がエルローの名を呼んだのは、屋敷内の半分ほど見て回った頃だろうか。
リュクセルはエルローのそばに寄ると、跪き、頭を垂れる。そうすると、エルローがリュクセルを見下ろす形になった。
「何かお探しでしたら、ご自身でならさず、どうぞ私どもにご命令ください」
エルローは体ごとリュクセルに向き直った。
「探してくれなくてもいい。教えてくれれば。アーシェリナは、どこに居る?」
何のひねりもない、真っ直ぐな言葉で問い詰める。しかしリュクセルは無言のまま、何も返そうとはしなかった。
やっぱりだ。
訊く前から判ってたんだ。こうなるのは。
「ほら、やっぱり教えてくれないじゃないか。知ってるくせに。だから僕は、自分で探すん」
「アーシェリナ様は、この屋敷内にはおられません」
エルローの言葉に被せる形で、リュクセルは言った。頭を下げたままなので表情は見えなかったが、多少掠れた声音から、言い辛かったのだろうと感じた――だからと言ってエルローは、リュクセルの心を労わるつもりなどないのだが。
「いつ戻ってくる」
「戻られません」
「どうして」
「エイナス様のご命令だからです」
予想外の名が登場し、エルローは言葉を詰まらせた。
エイナスはエルロー以上にアーシェリナを気に止めてなかった。エルローが跡継ぎと言う駒であるのと同様に、アーシェリナは政略結婚のための駒でしかないからだ。
それがなぜ、今更。
「昨日までは居たんだ。そんなに遠くへ行ってないんだろう? 会わせてくれ」
「いけません」
「どうして」
「エイナス様のご命令だからです」
先程と同じ問答を繰り返すだけで、エルローは絶望的な気持ちになった。
エイナスの命令は絶対だ。リュクセルにとってはもちろん、エルローにとっても。けして逆らえない、どんな魔法よりも強い言葉。
「じゃあ、僕はもう、アーシェリナに会えないのか」
「はい」
「それを、お前が言うのか」
ぴくりと、リュクセルの肩がわずかに震える様子を目の当たりにすると、エルローは続けようとした言葉を飲み込むしかなかった。
「もう、いい」
リュクセルを置き去りに、エルローは走り出す。今度は、アーシェリナを探すためではなかった。ひとりきりになれる場所に向かうためだった。
かつん、かつんと、音が響く。エルローが歩くたびに、石畳とかかとがぶつかって鳴るのだ。
自身の心の乱れを現すかのような、安定しない無様な音の並びに苛々して、エルローは足を止める。それから顔を上げた。腹が立つほど晴れやかな空の下で、数多の色が揺れていた。
ガーフェルートに仕える庭師が、あらゆる色の花を育て、見る者の目に鮮やかに映るように植え直し、整えた庭園だ。赤から桃色に、桃色から紫に、紫から青にと、自然にはけしてできないだろう、流れるような色の移り変わりが、ずっと遠くまで続いていた。
その中にひとりで居ると、思い出す。会いたくなる。他愛ない約束を交わしただけの少女に。
『寂しいの?』
色鮮やかな花畑に眼差しを向ける少女にそう問われ、「寂しいだけじゃない」と返したのは、たった二ヶ月前の事。
それはあの時のエルローにとって、嘘でも強がりでもない、ただひとつの真実だった。
けれどもう、あの時とは状況が違う。あどけない笑顔でエルローを見上げるアーシェリナは、エルローのそばに居ないのだ。どこに居るかすら判らない。調べれば判るかもしれないし、教えてくれる者もいくらか居るかもしれないが、会えなければ何の意味もない気がした。
「寂しいよ」
記憶の中の少女に向けて、二ヶ月前とは違う答えを口にする。
「寂しい。もう、誰も僕を見てくれないんだ」
もしあの時エルローがそう答えていたならば、フィアナランツァはどんな反応をしただろう。やはり変わらず、優しく温かな眼差しで、エルローの感情を受け止めてくれたのだろうか。
今、ここに居てくれれば――そうすれば、誰の目にも止まらない僕を、君だけは見つけてくれるだろうか。名前を呼んで、微笑んで、見つめてくれたのだろうか。
「フィアナランツァ」
双眸から許されないものが溢れ、こぼれ落ちそうになるのを感じたエルローは、少女の名を呼ぶ。優しい響きと、脳裏に蘇る儚げな立ち姿は、エルローの心を癒すだけでなく、鼓動に力を与えた。
『約束、忘れないでね』
忘れるものか。絶対に。
僕に残されたものは、それだけなのだから。
ここで君と再会する事だけが、支えなのだから――
Copyright(C) 2009 Nao Katsuragi.