一章
2
アルシラはひとりで書庫に来ていた。リュクセルが昨日までに読み終えた書物を、元通り片付けるためである。
その数は十三冊。十日前にも同じように片付けた記憶があるので、また随分読んだなぁ、と感心する。しかもリュクセルは、ここ十日間のうちの半分ほど、エイナスやエルローに着いて外出していたのだ。これだけの冊数を持ち出した上に読み終えるだけの時間が、一体どこにあったのだろう。
リュクセルはアルシラにとって、六歳の頃からすでに八年仕える主なのだが、未だ判らない部分の多い人だった。勉強家である事はけして悪い事ではないのだし、質も量も優れたガーフェルート家の蔵書への興味が尽きないのはアルシラ自身も同じであったので、あまり気にしない事にしているが。
積み上げた本をいったん机に置いてから、アルシラは立ち並ぶ本棚を見回した。いつも書庫番が内容や作者や言語や年代別に整然と並べてくれるため、本を元の場所に戻すのは、そう難しい作業ではない。ぽっかり一冊分の隙間が空いているところを見つけ、十三冊の中からその棚に合った本を探し、片付ければいいのである。
そうして少しずつ、順調に、机の上から本が減っていった。だが、なぜか最後に二冊残ってしまった。
「おかしいなあ」とひとり言を口にしながら、アルシラは再度本棚を見て回る。ふと気が付いて、今までよりも目線を高い位置に固定すると、ようやく隙間を見つかった。
特定の本を探すためにくまなく見るでもしない限り、アルシラの視界には入らないような、高い位置だった。「リュクセル様は背が高いからなあ」と、やはりひとりで呟いて、アルシラは精一杯背伸びし、腕を伸ばした。
それでも、手が届かない。踏み台でも持ってくるか、と諦めた頃、背後から差し伸べられた大きな手が、アルシラの手から本を優しく奪った。
「リュクセル様」
隻眼の青年は、やすやすと本を片付ける。
「すまないな。お前ではここまで手が届かない事を忘れていた」
「踏み台を使えば何とかなりますから、大丈夫でしたのに」
「踏み台なら、昨日書庫番が壊していたぞ。まだ修理していないようだ。彼は大工仕事には不向きだから」
言われてすぐにアルシラは、踏み台置き場に目をやる。そこにはリュクセルの言った通り、最上段が踏み抜かれて痛々しい姿の踏み台があった。
アルシラは頭を下げながら、最後に残った一冊をリュクセルに差し出す。
「申し訳ありません。こちらも、お願いします」
軽く微笑んで本を受け取ったリュクセルは、迷いなく別の本棚へと近付くと、高い段へと手を伸ばした。
アルシラは苦笑しながら、片付けが終わるのを見守る。リュクセルがわざわざ自分を気遣って来てくれた事は少し嬉しかったが、この程度の仕事もひとりで終わらせられなかった事実は、それ以上に心苦しかった。
「ところで、アルシラ。訊いておきたい事があるのだが」
「なんでしょう」
「近頃のエルロー様の事で、何か気付いた事はないか?」
それはアルシラにとって唐突な質問で、咄嗟に答えを出せなかったので、しばし考え込む。考えたところで、リュクセルほどエルローのそばに居る機会がない事も手伝って、特に思い浮かばなかった。
「いいえ、特には」
短く答えてから、続けて訊ねる。
「エルロー様がどうかなさったのですか?」
リュクセルは腕を組み、考え込んだ。
「おかしい、と言うほどでもないのだが……このところ、話しかけても上の空な事が多い気がしてな」
「なんだ、その事ですか」
それはアルシラも気付いていたが、わざわざ報告するまでもないと、はじめから除外していた事だった。
だが、驚いた顔をして素早く振り返る様子を見るに、リュクセルにとっては違ったらしい。
「心当たりがあるのか?」
「もちろんですよ。『ローゼンタール侯爵はいつ訪ねてくるんだ』とも、よくおっしゃってますよね?」
リュクセルは僅かに首を動かし、アルシラから目を反らして俯きぎみになる。どうやら思い出そうとしているようだ。
「言われてみればそうだな。関係があるのか?」
「はい」
アルシラは自信を持って強く頷いた。
「エルロー様は恋をなさっているんです」
こちらも自信を持って言い切ると、リュクセルは一瞬だけ呆気に取られたが、すぐに何かに気付いたようで、「もしかして」と呟きながら顔を上げた。
「相手はフィアナランツァ様か?」
「疑問を挟む余地はありませんよ。先日ローゼンタール家を訪ねた時から、少しご様子が変わられましたし……あの日見た、花が咲き乱れる庭の中でフィアナランツァ様の隣に立つエルロー様は、普段のエルロー様からは考えられないほど紳士的で、可愛らしく、私の目に映りました。見ている私の方がどきどきしてしまうくらい」
「そうか……」
リュクセルの反応はどうも中途半端だった。どうやら、アルシラの意見にいまいち納得していないらしい。この様子では、「相手はフィアナランツァ」と言う正解に辿りついたのも、単なる消去法でしかなさそうだ。
アルシラは首を傾げながら問いかけた。
「何か不自然な点でも?」
「不自然と言うか……エルロー様はまだ十歳だろう」
「恋をするには充分な年齢だと思いますけど」
「そうなのか?」
真顔で問いかけてくる主を見上げたアルシラは、またも自信を持って返した。
少しだけ頬を染め、微笑みながら。
「そうですよ」
エルローの恋は、きっといい結末を迎えないのだろう。はじめからアルシラは、それをおぼろげに理解していた。
仮にフィアナランツァがエルローの事を想ってくれていたとしても、ふたりの恋はふたりだけのものではない。エイナスがローゼンタールと縁戚関係を結ぶ事を望まなければ、それだけで終わってしまうのだ。
けれどアルシラは、想うだけでも幸せになれる事を知っていた。想うだけでも意味があるのだと、信じたかった。暗く狭い世界で生き、本当の意味で心を開く事を知らない少年の心に、少しでも優しい光が灯ればいいと――だから、黙って見守ろうと思っていたのだ。
それが、間違っていたのだろうか。
だって知らなかった。
「ローゼンタール候は討たれ、残された家族はロマールへと逃亡したようだ」
こんな形で、こんなに悲しい、終わりが来るなんて。
Copyright(C) 2009 Nao Katsuragi.