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一章



 信じられないものを見た。
 そこから世界が崩れていくような気がした。

 あまりの衝撃にエルロー・ガーフェルートは、隣に座る父エイナスの横顔を見上げた状態で固まった。
 それからエイナスが紅茶を全て飲み干すだけの時間、エルローは微動だにできなかったのだが、エイナスは息子の視線にも異変にも全く気付く様子がない。その事実が衝撃で受けた胸の痛みを抉り、エルローは泣きたい気持ちになった。
「どうかしたのか?」
 やがて父とは違う人物から自分を気遣う声がかかり、エルローの体はいくらか自由を取り戻す。「なんでもないです」と気のない返事をして、紅茶に口を付けた。受け取った時には熱いくらいだった紅茶は、とっくに温くなっていた。
 一気に紅茶を飲み干して、エルローは立ち上がる。脈絡のない行動に、大人たちの視線が自分に集中するのが判った。
 先程エルローに声をかけてくれたアヴァディーン・ローゼンタールは驚いた顔で、アヴァディーンの妻であるリュシカは心配そうな顔で、それぞれエルローを見上げる。しかし父エイナスは、特に何も感じていないのか、冷たい無表情をエルローに向けるだけだった。
「あの……庭、見てきていいですか。花とか植木とか、すごく綺麗なので」
 少しでも早くこの場から抜け出したかったエルローは、周囲に広がるローゼンタールの庭園に興味を持ったふりをした。
 本当はあまり興味がない。ローゼンタールの庭は賑やかだが、どことなく庶民的に感じる。普段見慣れているガーフェルート洗練された庭と比べると、格段に劣って見えるのだ。
 だがそれでもエルローは、父たちと共に居るよりましな気がしていた。
「構わないよ。好きに見て回ってくれ。質素な庭だけれど……それがかえって物珍しくて、楽しめるかもしれないね」
「ありがとうございます」
 アヴァディーンが快諾してくれたのをいい事に、エルローは父に許可を求める事をせず、それどころか振り返る事すらせずに、茶会の席を抜け、走り出した。
 茶会を楽しめるとは、元々思っていなかった。父もアヴァディーンもリュシカも大人だ。まだ十歳のエルローが、彼らの話についていけるわけがない。それでもエルローは喜んで父に着いてきて、エルローのために用意された席に座った。父が、個人的な用事で出かける場所にエルローを連れて行ってくれる事が、珍しくて嬉しかったからだ。
 エルローにとってエイナスは、およそ父らしい人間ではなかった。容姿が良く似ている事から、血のつながりを疑った事はなかったが、愛情や優しさを与えてもらった事は、過去に一度もない。
 それを気にした事はなかった。忘れてしまうほど以前には、悲しいと思っていた気がするが、エイナスは誰にでも同じなのだと――エルローの母にも、妹にも、妹の母親にも、側近や使用人たちにも、等しく冷たい態度を取るのだと理解した頃から、「そう言う人なのだ」と諦めばかりが先行し、悲しいとは思わなくなっていた。
 だが今は、途方もなく悲しい。叫びだしたくなるほどに。
 エルローは走りながら振り返った。咲き誇る花々の向こうに見える父たちの人影は、だいぶ小さくなっていたが、まだ表情が見える距離にあった。
 更に走ったエルローは、やや背の高い植木を見つけると、その後ろに回り、座り込む。もう一度振り返った。今度は植木が邪魔をして、父たちの姿は見えなくなっていた。
 ゆっくりとした呼吸を繰り返し、走る事で乱れた息を整える。左手で膝を抱え、右手は自身の左胸に添えた。心臓がどくんどくんと高鳴っている。だがこれはきっと、走ったせいだけではない。
「どうして」
 抱えた膝に顔を埋めたエルローは、本当は父に言いたい言葉、けれど言えない言葉を、ひとり呟いた。
 誰にでもじゃ、なかった。
 父上は、誰も愛せない訳じゃはない。誰にも優しくできないわけじゃない。
 だって父上は、さっき、とても優しく笑ってた。僕や、母上や、アーシェリナや――他の人にはけして見せない笑顔を、見せていた。
 なんで。
 なんでなんでなんでなんで。
「なんで」
 父に愛されなくても仕方がないと納得するための理由が根底から覆されると、今までエルローの幼い心を支えていた強固な柱が、砂塵のように脆く崩れはじめた。
 腕から力が抜けていき、膝を抱える力を失う。足を乱暴に放り出すと、上体も倒し、花の中に寝転んだ。
 抑えきれない衝動が、腹の奥から湧き上がってきた。本来ならば父エイナスに叩きつけるべきものだったのかもしれないが、それを理解できるほど気持ちの整理がつけられなかったエルローは、目の前にあるものにぶつけた。
 腕を乱暴に振り回し、周囲に生える花を痛めつける。花びらが散り、ちぎれた葉や草が舞った。そうして緑の匂いが強まると、胸の痛みは余計に増した。
「やめて」
 静止を求める静かな声が耳に届くと、誰かが近付いてきている事にまったく気付いていなかったエルローは驚き、すぐに体を起こす。
 色素の薄い青の双眸が、エルローを見下ろしていた。腰まで真っ直ぐに伸びた白銀の髪が、緩やかな風の中で揺れていた。
 声と同じ、静かな印象の少女だ。エルローより、ひとつかふたつ年上だろうか。穏やかで愛らしい顔立ちに、必死に怒りを貼り付けている。
「僕に命令するつもりか」
「ええ、そうよ」
「僕を誰だと思っている」
「知らない」
「ガーフェルート伯エイナスの息子、エルロー・ガーフェルートだぞ」
 エルローは堂々と名乗った。多少年上で、多少美しい程度の少女に、命令されるいわれはないのだと訴えるために。
 名を聞いて、脅え、へりくだる少女の姿を想像して楽しくなったエルローは、強気を表に現す笑みを浮かべる。しかし少女は、エルローの予想に反し、怒りを治める事はなかった。
「私はローゼンタール候アヴァディーンの娘、フィアナランツァ・ローゼンタール」
 フィアナランツァと名乗った少女は、両手を腰にあて、胸を張った。
「この庭は貴方のものじゃなく、私たちのもの。判ったなら、それ以上花をいじめないでくれるわね?」
 反論はできなかった。しかし素直に認める事もできなかったエルローは、おとなしく座り直すだけにとどめた。
 それだけでも、フィアナランツァは満足したようだ。表情から怒りを消し、嬉しそうに微笑みながら、軽やかな足取りでエルローとの距離を詰める。そして、エルローの隣に腰を下ろした。
「はじめまして」
「ああ」
「簡単な挨拶もできないの?」
「……はじめまして」
 操られているようで気分を損ねたエルローは、フィアナランツァをきつく睨みつける。
 フィアナランツァの瞳は、色の冷たさからは考えられないほど優しく、エルローの視線を受け止めた。
「何をそんなに荒れていたの?」
「君には関係ない」
「人の家のものを傷付けておいて、よくそんな口きけるわね」
「いいだろ、別に。こんな、適当に種蒔いて、適当に育てたような、雑な庭。ほっとけばすぐに元通りになるさ」
 フィアナランツァは目を見開いて、ついでに口も少し開いたままで、エルローを見つめた。
「何だよ」
「エイナスおじさまと見た目はそっくりだけど、中身はずいぶん違うのね。エイナスおじさまがここに来るのは年に数回だし、来ても直接お話する事はほとんどないから、おじさまの事をよく知っているわけじゃないけど……貴方みたいに癇癪持ちじゃない事は判るわ」
「うるさいな!」
 エルローは可能な限りの鋭い声でどなりつけた。
「どうせ僕は何も知らないよ。父上がそんなに頻繁にローゼンタールを訪ねていた事も、父上があんなに優しく笑える人だって事も、知らなかったよ! そんな僕が、父上に似るわけないじゃないか! 父上とお話したのは、今日が何ヶ月ぶりかだよ。お会いしたのだって、十日ぶりくらいだ。今日ここに連れてきてくれたのだってどうせ、単なる気まぐれか、君の親に連れてこいって言われたかのどちらかで、僕を連れてきたかったからじゃないんだよ!」
 言いたい事を言いたいだけ並べ終えてから、息継ぎする事を忘れていたと気付いたエルローは、それまでを取り戻すかのように、肩を上下させながら必死に呼吸を繰り返した。
 フィアナランツァはエルローが落ち着くまで、黙って見守っていてくれた。その瞳があまりに穏やかだったので、片っ端から本音をぶちまけてしまった事が、急に恥ずかしくなった。見た目からして年の差は大してないはずなのに、自分があまりに幼すぎる気がして。
 しかし後悔はしてなかった。胸の中にたまっていた重くて不愉快な何かが、すっと晴れたからだ。
「ごめん。その……花、散らして」
 沈黙が辛く
 フィアナランツァは小さく首を振った。
「私に謝っても」
 フィアナランツァは立ち上がり、エルローに手を伸ばす。
「立って。で、庭師のおじさんに謝りに行こう。おじさん、けっこう頑張って、花とか育ててるんだから」
「腕が悪いんじゃないか。その辺の野原と大して変わらないじゃないか」
「そうよ。そうするために苦労してるのよ。庭なんてあくまで人工物でしょ。それを自然に近付けるのが、どれほど大変か」
「どうせ人工物なんだから、人工物としてどれだけ綺麗に作れるかって方向に努力した方が正解じゃないか。うちの庭はそうだ。それで、こんな田舎臭い庭よりずっと綺麗だ」
「綺麗に整いすぎて、味気ないんでしょう」
「見てもないくせに文句言うな」
 エルローはフィアナランツァの手を借りず、ひとりで立ち上がると、体中をはたき、まとわりついた花や草や土を落とす。わざとらしいくらい大きなフィアナランツァのため息が耳に届いたが、無視をした。
 目的を失ったフィアナランツァの手が、エルローの頭に伸びる。まさか殴るつもりじゃないだろうなとエルローは身構えたが、フィアナランツァの手は優しく、エルローの髪に絡んだ花びらを取ってくれた。
「そうね。見てもないのに悪く言うのは、良くない。ごめんなさい」
 素直に謝られると、余計に自分が子供に思えて、エルローは羞恥に頬を染める。気分的にフィアナランツァを直視できなくなり、顔を反らした。
「いや、別に……」
「今度お父様にお願いするわ。ガーフェルートの屋敷に行く時は私も連れていってって。そしたら、貴方の庭で、会いましょう」
「べ、別にいいぞ」
「ありがと」
 微笑んだフィアナランツァは、半ば強引にエルローの手を取った。
「じゃあ今日は、私がここを案内してあげる。まずは庭師のおじさんのところに行って、それからじっくりとね」
 別にそんな事頼んでないし、嬉しくもないし。
 言おうとして、けれどなぜか言えなくて、エルローはフィアナランツァに引かれるまま、歩いた。
 ガーフェルートの庭は、最も庭が美しく見えるよう計算された見学用の道があり、そこには綺麗に石が敷き詰められていて歩きやすくなっているのだが、ローゼンタールの庭は違う。植物を余計に踏み荒らさないよう小道があるにはあるのだが、整備されているとはお世辞にも言えないし、伸びに伸びた草花がはみ出てきていて、歩きにくい。そのくせ無駄に広い庭なので、庭師が居る、手入れのための道具が納めてある小屋へと歩くだけで、疲れてしまった。
 エルローが庭師に謝ると、それがふてぶてしい態度でも、フィアナランツァは満足したようだった。エルローの手を引き、今度は走り出した。
 やっぱり田舎臭い庭だ。フィアナランツァに連れられるまま、色んな角度から庭を眺めながら、エルローは心底そう思う。だが、はじめて踏み入れた時ほど、悪い印象は受けなかった。懸命に育つ無数の色が、輝いて美しく見えたのだ。
 違って見えるのは、ひとりではないからだろうか。
 隣に、フィアナランツァが居てくれるからだろうか。
「ねえ」
 フィアナランツァはふいに足を止める。目の前の光景を見つめて、けしてエルローには振り返らず、口を開いた。
「貴方は、寂しいの?」
 短い言葉は、真っ直ぐにエルローの心を貫いた。
 そう。寂しかった。父の愛情が、自分に向かない事が。はじめから愛情なんてない人だと思えば耐えられたのに、そうではないと知ってしまったから。
 けれど。
「寂しいだけじゃない」
 エルロー自身が驚くほど自然に、素直な気持ちが口から飛び出した。
「父上も母上も、僕の事をガーフェルートの跡取りとしか思ってない。必要な駒のひとつくらいにしか。他の人たちも……僕を僕として見てくれる人は、もう居ないと思う。それは多分、寂しいんだ。だけど、僕にはアーシェリナが居る。まだ四歳で、小さくて、『にいさま』なんて言いながら、あどけない顔で僕に着いてくる、妹が。それに」
「エルロー様!」
 遠くから名を呼ばれたエルローは、言葉を遮り振り返る。一呼吸遅れて、フィアナランツァも。
「誰?」
「あれはアルシラだ。リュクセルの部下の」
「リュクセルって?」
「ラシードって小さな家の男で……ガーフェルートに仕えてるんだ。強くてさ、父上や僕の護衛したり。今日も来て――あ、ほら、あっちの、背が高い……眼帯の」
 エルローはアルシラの後ろに現れた、大柄な男を指差した。
 ふたりは道を探すのに苦労しながら、エルローたちの元へ駆け寄ってくる。どうやら、少し急いでいるようだ。
「どうしたんだ、リュクセル」
「エイナス様がそろそろお戻りになられるとの事でしたので、エルロー様をお迎えに」
「もう、そんな時間か」
 エルローはそう呟いたきり俯いたまま、一歩も動かなかった。動こうと思っても、まるで土の精霊に捕らわれたかのように、足が動かないのだ。
 もちろん、エルローを引き止めるものは、土の精霊ではない。名残惜しいと思う、エルロー自身の心だった。
 まだ空は明るい。せめて陽が沈むくらいまでは、ここに居てもいいんじゃないか? 次があるかどうかも判らないのだから、少しでも、長く――
「エルロー」
 透き通る少女の声に名を呼ばれ、エルローが振り返ると、そこにはエルローを受け入れるための、温かな眼差しが待っていた。
 エルローは再度、自身の胸の上に手を置く。
 走ってもいない。傷付いてもいない。なのに胸の奥にある心臓は、確かに高く鳴っていた。
「約束。忘れないでね」
 言って微笑んだフィアナランツァは、小さく手を振る。
 軽く交わした約束は、戯れではなかったのか。
 また、会えるのか――君に。冷たい色の優しい瞳に、僕が映る日がまた来るのか。
「ああ」
 隠し切れない喜びが、微笑みとなってあふれ出る。
「今度は、ガーフェルートの庭で」


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