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序章



 毎朝鏡を見て、己の瞳の色を確認する事が、二年と半前からアーシェリナの日課となっていた。
 やはり、紫だ。生まれた時に持っていた色と、少しも変わらない。
 けれどアーシェリナの父エイナスは、アーシェリナの瞳を赤いと言う。血のような色だと。今は亡きアーシェリナの祖母、レミーラと同じ色だと。
 どう考えても間違っているのは父の方だとアーシェリナは思うのだが、ガーフェルート伯爵家において、エイナスの言葉は絶対だった。エイナスが娘の瞳は赤だと言えば、アーシェリナの瞳は赤い事になるし、エイナスが娘を疎めば、皆がアーシェリナを疎む。エイナスがアーシェリナの顔を見たくないと言えば、広い裏庭の隅に別館を建て、そこにアーシェリナを押し込むのだ。
 アーシェリナは四歳の頃から、早朝にかろうじて陽を浴びる小さな館で育ち、そこから一歩も出ない日々を送っていた。暗く、狭い――まるで軟禁だが、アーシェリナを外に出してくれる者はひとりも居なかった。
 外に出してくれるどころか、会話をしてくれる者すら居なかった。貴族の令嬢として恥ずかしくないようにと、毎日決まった時間に教育係がやってくる。毎日の身の回りの世話をするために、侍女たちがいくらか出入りする。だが彼女たちは、アーシェリナに対して事務的に語るだけで、心も言葉も交わしてはくれないのだ。哀れな令嬢への同情より、エイナスの不興を買う恐怖の方が、遥かに勝るのだろう。もしくは、そんな状況でもあらゆる事をそつなくこなすアーシェリナに対し、同情など抱けないのだろう。
 アーシェリナはひとりだった。
 数年前までは、冷たく近寄りがたい父が居て、常に父に怯え機嫌を伺っていた母が居て、それなりに可愛がってくれる兄が居て、アーシェリナを大切にしてくれる使用人たちが大勢居た。
 けれど今、アーシェリナはひとりだった。
 ひとりである事が悲しい事だと忘れてしまうほどに、ひとりであった。
 ため息で曇らせた鏡から離れたアーシェリナは、ゆっくりとした足取りで窓際に向かう。子供の軽い足音が響き渡るほどの静けさは、アーシェリナの孤独をより強調したが、アーシェリナの心はもう、その程度の事では傷付かなかった。
 窓の外にはしんしんと雪が降りそそいでおり、無垢な白が辺りを埋め尽くしていた。明るい、けれど、一色だけの世界。この時ばかりは、外も中も等しく静かで寂しいものな気がして、アーシェリナは嬉しかった。雪はとても優しいものなのだと感じていた。
 椅子を窓際に引きずって座ると、長い間、窓の外を眺めた。顔を窓に寄せると、吐く息で窓が白く曇るので、何度も何度も手で拭った。手は冷たくなったが、それでも飽きる事なく、ずっと雪を見ていた。
 アーシェリナが部屋の中に視線を戻したのは、部屋の中に冷気が吹き込み、髪が小さく揺れた時だった。扉が開いただろう事はすぐに判ったが、なぜ扉が開いたのかが判らない。この深い雪のせいか教育係は休みのようだし、朝の支度を終えた侍女たちが次に現れるのは食事の時間のはずで、他にこの別館に足を踏み入れる人物に、心当たりはなかった。
 肩を抱きしめて暖を取りながら、アーシェリナは扉を見つめる。
 風が止まった。再び閉められた扉の前には、ひとりの子供が立っていた。 
「だあれ?」
 アーシェリナは訊ねる。
 乾いた音とともに、子供が雪避けのために被っていたフードが肩に落ちた。頭や肩に積もっていた雪がどさりとすべり落ち、暖炉で暖められた部屋の空気で、少しずつ溶けはじめる。
「ダ……」
 名乗る子供は、一度言葉を飲み込んだ。
「セインです」
 窓の外に降り積もる雪によく似た、白銀の髪と氷色の瞳が印象的な少年を見つめ、アーシェリナが思い出したのは、何年か前に読んだ絵本だった。
 世界のあらゆるところに漂う精霊たちの物語が書かれた絵本には、数多くの精霊たちが、色鮮やかに描かれていた。けれどなぜか、ただひとつだけ描かれなかったものに、アーシェリナは強く惹かれた。氷の精霊――氷の上位精霊、フェンリル。
 どんなに奇麗な色をしているのだろうと、想像し憧れを馳せてきたフェンリルは、きっとこの少年のような容姿をしているのではないだろうか。
 いやもしかすると、彼自身がフェンリルなのではないだろうか。彼が抜け出してしまったから、あの絵本には氷の精霊が居なかったのでは?
 考える内に、アーシェリナの胸は期待に沸き、目の前の少年に触れたくてたまらなくなった。彼が真実フェンリルであるならば、触れただけで凍え死んでしまうかもしれないのだが、それでも触ってみたかった。
 立ち上がったアーシェリナは、そっとセインに歩み寄り、頬に手を伸ばす。
 冷たかった。
 だがかすかに、人間としての温もりを感じる事ができた。冷たいのは、この雪の中、長時間外にいて、体の芯から冷えただけなのだろう。
 少年は、氷の精霊ではなかったのだ。
「おれ」
 触れ合う手と頬の温もりが、等しくなるだけの時間が過ぎてから、セインと名乗った少年は口を開く。
 氷色の瞳が、少し下方から、アーシェリナを見つめる。柔らかく愛らしい顔立ちと正反対の冷たい色の瞳にこもる感情は、あまりに複雑すぎて、アーシェリナには読めなかった。
「あなたにおつかえするために、かわれてきたんです」
 その言葉の意味、人が人を買い、従える事の意味を、この時アーシェリナは理解できなかった。
「じゃあ、ずっとわたしのそばにいてくれるの?」
 理解したのは、それだけ。
「わたしはもう、ひとりじゃないのね?」
 それは、フェンリルに会える事よりも、ずっとずっと素敵な事で、素晴らしい事だ。
 胸の奥からじわじわと湧き出すものが、あまりにも温かくてくすぐったくて、アーシェリナは笑う。顔をくしゃくしゃにして、涙までにじませて。
 父に捨てられた日を境に忘れかけていた、久方ぶりに浮かべた、笑顔だった。

 ごめんなさい、セイン。貴方の事情も気持ちも、何ひとつ知らずに。
 ただ、嬉しかったの。貴方がそばに居てくれる事が。

 私のすべては、貴方が与えてくれたものだから。


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Copyright(C) 2009 Nao Katsuragi.