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序章



 ロマールの街のはずれ、住民たちの小さな家がひしめきあう通りから少し離れた場所に、探していたものを見つけたエイナスは、足を止めた。
「酷い有様ですね」
 エイナスの数歩後ろに控えるリュクセルは、廃墟と化した建物を前にし、開口一番そう言ったが、エイナスは答える事をせず、ただ、目の前にあるものを眺める。
 エイナスの寝室と比較しても狭いだろう家は、屋根や壁のあちこちに焦げ目があり、半ば崩れかけていて、とても人が住めそうにない。それでも、外観はまだましな方なのだろう。窓そのものは燃え尽きたのか吹き飛んだのか失われており、残っている窓枠から見える内装は、煤けたか焼けたかで、黒ばかりが広がっていた。エイナスの立ち位置から見える黒くないものは、箪笥の一角や椅子の背もたれくらいしかない。
 呆れてため息を吐いたエイナスは、力強い足取りでまばらに生える草を踏み潰しながら、家に近付く。近付いても、見えるものは大して変わらず、もう一度ため息を吐くはめになるだけだった。
「お気を付けください。何が出るか判りません」
「生き物が潜んでいるようには見えんが」
「生きていないものが潜んでいるかもしれません。無念の死が、人を魔物に変える事もございます」
 エイナスは一瞬だけ間を開けた後、鼻で笑った。
「死した後も蘇るほどのものを抱えながら、生きているうちには死ぬ事しかできなかったのだとすれば、くだらん一生だな」
 辛らつな言葉は、リュクセルを黙らせるに充分だった。
 本当にくだらない。そう、エイナスは思う。二年ほど前、隣国から逃げてきた女と子供が命を落とした場所を、眺めながら。
 エイナスは報告を聞いたのみで、詳しい事は判らないが、アヴァディーンの妻であるリュシカ・ローゼンタールは、ここで母国からやってきた追っ手と向き合うと、声高に夫の無実を訴えた後、家に火をつけたらしい。火の回る早さから、あらかじめ準備していたのだろうとも聞いている。そして焼け跡からは、リュシカと思われる女性と、ふたりの子供と思わしき焼死体が発見されたそうだ。
 エイナスが知るリュシカは、消え入りそうな色の髪や瞳を持つ、繊細で柔らかな容貌そのままの、おとなしい女だった。それは世間が評価するリュシカの印象とほとんど同じで、ゆえに彼女の叫びと子供たちまでも巻き添えにした死に様は、多くの者に衝撃を与え、悲痛な叫びに魂や心をゆすぶられた者も少なからずいた。実際、当時の事は近隣住民の記憶に強く焼きついているようで、今でも畏敬の念を持って語られている。二年が経過しても、誰もこの焼け跡に近付かないほどに。
 それでも、アヴァディーンの汚名をそそぐほどの力は無かった。当然、ファンドリアで何かが変わる事も無かった。
 せいぜいが、本国で処刑される予定を狂わせただけの、あるいはリュシカ本人の誇りを守るだけの、意味の無い死。
「これが、お前の取った行動の結果だ、アヴァディーン」
 アヴァディーンが家族と共に逃げていても、結果はほとんど変わらず、ここで焼け死んだ人間の数が、三人から四人に増えるだけかもしれない。
 それでも、罵ってやりたかった。二度と会えない友を。彼の愚かさの象徴とも言える場所で。
「やはりお前は負けたんだ」

 歩いて数日程度の距離しかないはずだが、ロマールの街に流れる空気は、ファンドリアに流れるそれと少し違う気がした。
 賑やかで、明るい。それはきっと、ロマールの空気が良いと言うよりは、ファンドリアの空気が陰湿すぎるのだろう。だが、その陰湿さの方が、エイナスには心地よいものだった。生まれ育った故郷に、体の芯から毒されているのもあるだろうが、気分が沈んでいるのが、一番の理由かもしれない。あちらこちらから聞こえる子供たちの笑い声が、疎ましかった。
 もっと鬱陶しいのは、エイナスに集まる視線の方だ。庶民――よりも低い程度の生活しかできない民かもしれないが、エイナスには違いが判らなかった――たちの中に紛れるには、エイナスの容姿や服や佇まいは異質すぎ、馬車も通れないような狭い道を颯爽と歩く姿は、半端な見世物よりも珍しいようだった。
「エイナス様、お気を付けください」
「今度は何だ。生者の欲望も人を魔物に変えるのか」
「魔物には変わらないでしょうが、身を脅かす存在にはなりえます」
 言ってリュクセルは、素早く腕を振る。腕の動きが止まった時、リュクセルの手は、小さな人影を掴んでいた。
「――このように」
 武器の類を持っている様子はないので、エイナスの命ではなく金目のものを狙って近付いてきたのだろうが、不愉快である事に変わりはなく、エイナスは鋭い眼差しをリュクセルの手元に向けた。
「はなせよ!」
 高い声は、幼い子供のものだった。
 もっとも、声を聞かずとも、子供である事は明らかだった。薄汚いマントでほぼ全身を覆い、フードを被って顔を隠しても、幼さを隠しきれないほど小柄だ。リュクセルの手から逃れようと、必死になって暴れているが、大人の中でも大柄なリュクセルの腕を振り解けるだけの力など当然あるわけもなく、間抜けな様相を晒し続けるだけだった。
「その手のものを排除する事が、お前の役目だろう」
「ごもっともです」
 リュクセルはやや乱暴に、子供の体を突き放した。
 力の流れに逆らえず、子供はよろけながら数歩後退し、近くの家の壁に背中と後頭部を打ち付ける。強い痛みが走ったか、小さな手で頭を抑えると、ふわりとフードが揺れた。
 隙間から覗いて見えたものは、今にも消え入りそうな、白銀。
「捕らえろ」
 反射的に、エイナスはそう言っていた。
 エイナスの指示に気付いた子供は、慌ててその場から逃げ出そうとしたが、リュクセルの動きの方が速い。二歩も動かないうちに、再びリュクセルの手の中に戻っていた。
「顔を見せろ」
 再度短く指示をすると、リュクセルは子供が被るフードを下ろした。そうして現れた短い髪が、天から届く光を反射する様を見つけると、エイナスも、リュクセルも、息を呑む。
 リュクセルは子供の体を壁に押し付け、力ずくで上を向かせた。
「エイナス様、この子は……」
 エイナスは無言で頷き、子供の前に立つ。
 少年の髪の色は、雪の輝きを思わせる白銀。瞳は、氷のように色素の薄い青。透明感のあるそれらの色合いは珍しいもので、滅多にお目にかかれるものではない。
 だが、その色を持つ人物を、エイナスは他にも知っていた。
 よく見てみれば、同じなのは色だけではない。大きな瞳も、柔らかな顔立ちも、よく似ている。今は亡き、リュシカ・ローゼンタールに。
「なぜ、私を狙った」
 問いかけると、氷色の眼差しは、炎のように熱く鋭く、エイナスを見上げる。
 その眼差しは少しだけ、友のものに似ているように思え、エイナスは僅かに目を細めた。
「か……かね、もってそうだったから」
「金が必要なのか」
「じゃなきゃ、ねらわない」
 エイナスはしばし沈黙を挟んでから続けた。
「なぜ、生きている」
 唐突に話題を変えると、何事か理解できないのか、子供はただエイナスを見上げ、まばたきをくりかえすばかりだった。
「お前は二年前、死んだはずではないのか?」
 質問を変えると、ようやくエイナスの真意に気付いたらしく、子供の顔は瞬時に青ざめた。敵うわけがないと言うのに、それでもどうにかしてリュクセルの手から逃れようと、もがきはじめる。
 その態度こそが、エイナスに確信を抱かせた。
 やはり、そうなのだ。この子供は――アヴァディーンの。
「年齢からしてお前は下の子供だな。上の……フィアナと言う名の娘はどうした。それにリュシカは。ふたりも、生きているのか?」
 具体名を上げたエイナスの質問に、子供は観念したようで、急におとなしくなる。エイナスが合図をし、リュクセルが片手を放して首から上だけを自由にしてやると、子供は首を振った。
「お……おれだけ」
 嘘を言っているのか、エイナスたちに怯えているのか、声は震えていた。
 炎の中からどうやって逃げ出したのか、焼け跡に残っていた焼死体が誰のものであったのか、気になる点はいくつかあったが、この子供に聞いても真相は判らないだろう。エイナスの記憶が確かならば、彼は二年前、まだ五歳にもなっていなかったはずだ。難しい事を理解できる年齢ではない。
 ただひとつ判るのは、静かにアヴァディーンに寄り添っていた儚げなリュシカが、意外にたくましい女であった事だ。壮絶な死に飛び込みながら、最期まで夫を信じる事と、子を守る事だけは、忘れなかったのだから。
「ファンドリアからきたのか。おれ……をつかまえて、ころすために」
「お前に質問する権利はない」
 エイナスは冷たくいなすと、質問を続けた。
「なぜ、金が必要だ」
 子供は悔しそうに歯を食いしばったが、それも一時的な事で、すぐに素直にしゃべりはじめた。これまでの事で、抵抗しても無駄だと悟ったのだろう。子供にしては、理解が早い。
「わかんない。でも、たくさんないと、どっかにつれてかれて、ひどいめにあうって」
「お前が?」
 子供は激しく首を振った。
「ねえさん……みたいなひと」
 苦々しく発せられる言葉を受けて、リュクセルがエイナスに振り返る。
「借金のかたか何かで売られるのでしょうね」
「そうだろうな」と軽く返したエイナスは、不安に陰る氷の瞳を見下ろした。
 貧しい階級の者たちの間では珍しくもない不幸話などに、エイナスの心は動かない。幼い子供が目の前で悲しそうな顔をしていても、同じだ。勝手に売られ、勝手に泣けばいいと思う。
 だが、興味はあった。エイナスが生涯でただひとり、情を持って接する事ができた男の血が流れる生き物に。その生き物に、こうして出会った偶然に。
 それを人は、単なる気まぐれと言うのかもしれない。
「助けたいのか」
 問うと、子供は強い瞳で頷いた。それまで戸惑いや緊張や怯えばかりを見せていたと言うのに、この時だけは、一分の迷いも見せなかった。
 エイナスは己の手に触れ、大きな紅玉がはまる指輪を抜く。目の高さまで掲げると、太陽の光を反射し、赤い光が辺りに散らばった。
「金がほしいなら、私がお前を買ってやってもいい」
 エイナスの声に、子供も、リュクセルも、身を強張らせる。
「エイナス様!」
「奴隷をひとり持ったところで、珍しくも何ともなかろう」
「ですが、彼をファンドリアに連れて行くのは危険ではありませんか? ローゼンタール夫人はほとんど公の場に出られない方でしたが、それでも知っている者はいくらかいるでしょうし、知っている者が見れば、血縁関係を疑われる可能性が高いでしょう」
「人目につかない所に置けばいい。無防備に晒される事になるここより、あるいは安全かもしれんぞ」
 リュクセルはまだ何か言いたそうな顔をしていたが、それきり押し黙り、俯いた。
「さあ、どうする。お前が決めろ」
 真っ直ぐにエイナスを見上げる視線は、もう答えを出しているように見えた。それでも、返答を口にする事に、ためらいがあるようだ。元貴族で、まだ幼いとは言え、こんなところで二年も生きてきた彼は、答えた先にあるものが現状よりも下である事が、少しは見えているのだろう。あるいは、エイナスを信用しておらず、ファンドリアに連れ戻された後、ローゼンタールの末裔として処刑されると、疑っているのかもしれない。
 長い沈黙だった。それでもエイナスはただ、待つ。
 やがて小さな手がゆっくりと、エイナスの前に伸びた。
「いく……ううん、いき、ます」
 幼い声が紡ぐ返事を聞くと、エイナスの唇は、徐々に歪んだ笑みを浮かべる。
「名は、何と言う」
「ダリュスセイン・ローゼンタール……です」
「その名は忘れろ」
「えっ」
 小さな体が、一度だけびくりと大きく揺れた。
「惨めだろう? 奴隷に落ちてもまだかつての地位に縋るなどと。それに、亡きローゼンタール候を貶める事にもなる」
 エイナスの命令や言葉に抵抗があるのか、何かに耐えるような表情を浮かべていたが、自分の立場を理解している彼は逆らう事をせず、すぐに頷いた。
 エイナスは指輪を手放す。
 重さに引かれて落ちた指輪は、小さな手のひらの上におさまると、煌びやかに輝いた。


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Copyright(C) 2009 Nao Katsuragi.