序章
3
「ローゼンタール候が国王に刃を向け、近衛騎士の剣によって命を絶たれた」と、エイナスが報告を受けたのは、アヴァディーンとの最後の対面から二日後、長く患っていた病で命を落とした――として扱った――母の葬儀を終えてすぐの事だった。
「ありえん」
まず、そう吐き捨てた。
自分の身が守れるかどうかもあやしいと言う状況下でも王の身を案じた男が、王に刃を向けるなど、ありえない。報告された内容は、エイナスにとって到底信じられるものではなかった。
だが同時に、アヴァディーンの敵にあたる者たちが、何の意味もなく突然予定を変更する事も、エイナスには信じられなかった。「ローゼンタール候が乱心した」よりも、「ローゼンタール候が暗殺者を差し向けた」のほうが、よほど簡単に事件を捏造できるし、現実味があるように思えるからだ。
「敵」は、予定を変更せざるを得なかったのだろうか。アヴァディーンが暗殺者を差し向けたとは思い難い状況に追い詰められたのか。
「まさか」
もしかするとアヴァディーンは昨晩、国王のそばに居たのではないだろうか。エイナスの忠告を聞き入れる事無く、この国に残って。
一体、何のために――
「ローゼンタール家の他の者はどうした」
「一昨日の夜から昨日の未明の間に密かに逃亡し、隣国ロマールへ保護を求めているようです。故に、アヴァディーン・ローゼンタールの狼藉は計画的なものだったのだろうと予測されています」
「陛下は」
「お怪我はないそうです。しかし、臣下の突然の反逆に驚き心を痛め、臥せっておられるとか」
アヴァディーンが何を考え、何を望んでいたのか、少しだけ判った気がして、エイナスは一瞬だけ言葉と思考を詰まらせる。
彼はきっと、見捨てられなかったのだ。誰かを陥れるためだけに奪われていく命を。
だから自らの手で王を守ろうとしたのだろう。実際に、守ったのかもしれない。守る代わりに彼は、敵に直接命を奪われ――残った遺体を悪用された?
「判った。もう下がれ」
「失礼いたします」
足音が遠ざかり、周囲から人物の気配が消えるのを確認してから、エイナスは椅子に深く腰掛け、俯く。
馬鹿が。
友を罵る言葉は、音にならなかった。エイナスの胸の内で、ぐるぐる、ぐるぐると、回り続けるだけで。
私は言ったはずだ。逃げろと。
分の悪い勝負はするなと。
「ああ、そうか」
たとえ命を奪われ、その死を不名誉で汚されたとしても。
この先、彼の家族や、王が、生きていくのならば。
「お前は、分の悪い勝負に挑み、勝ったのかもしれないな」
だが、アヴァディーン。
私が、守ろうとしたものは――
エイナスは固く目を伏せた。それでも訪れる闇はまだ薄く、片手で目元を覆った。
視界が黒一色に染まる。すると、胸の中にも同色の静けさが下りてきた。エイナスはしばらく、心地よい冷たさに酔っていた。
ぱたぱたと鳴る小さな足音が、耳に届くまで。
「とうさま?」
たどたどしい、幼子の声。
その声で自分を父と呼ぶ存在を、エイナスはひとりしか知らなかった。アーシェリナだ。アーシェリナ・ガーフェルート。レミーラの容貌をそのまま受け継いだと評価されるエイナスに、よく似た娘。エイナスと同じ、波打つ黒髪と、輝く紫色の瞳と、雪のように白く滑らかな肌を持った彼女は、きっと美しい娘に育つだろうと、将来が楽しみだと、多くの者に称えられていた。
エイナスがアーシェリナについて知っているのは、それだけだ。
四年前に生まれていた気がするが、具体的にいつ生まれたかは判らない。故に、今アーシェリナが何歳なのか、はっきりとは判らなかった。何を好み、何を感じ、何を考えて日々生きているかなど、当然、知るはずもない。
それでもまだましなのだろう。アーシェリナの母親など、名前も思い出せないのだから。正妻は長男であるエルローを産んだが最後子供を持てなくなったから、代わりに持った愛人の誰かなのだろうが――
エイナスは軽く唇を噛んだ。
家族や、近しい距離にある者に対してすらその程度の執着しか持てない事を改めて自覚すると、失ったものの大きさを思い知らされた気がした。その現実は確かに、エイナスの胸に痛みを突きつけた。
「とうさま、どこかいたいの?」
おぼつかない足取りで近寄ってきたアーシェリナは、小さな手を、エイナスの膝に乗せる。
アーシェリナは、エイナスよりもずっと体温が高いのだろうか。触れたところから、温もりが伝わってきた。けれどその温もりは、エイナスを癒す事はなかった。
「ないてるの?」
唐突なアーシェリナの言葉に、エイナスは鼻で笑った。
泣く? 私が? 馬鹿な事を。
「いや」
エイナスは短い言葉で否定する。泣いてなどいない、涙を流してなどいないのだから。
だがきっと人は、今現在胸中を占領しているものの事を、泣きたくなるような感情と言うのだろう。そして自分はもう二度と、こんな想いをする事はないのだろう。その事実だけは、素直に受け入れた。
「大丈夫だ」
目元を覆っていた手を下ろしてから、エイナスは目を開ける。辺りを見回し、明るさを確かめてから、足元にまとわりつくアーシェリナを見下ろした。
そして、凍りついた。
エイナスを見上げる、無邪気な赤い双眸に、目を奪われて。
「ほんとだ。ないてないね」
アーシェリナは精一杯背伸びして、エイナスの顔を覗き込み、涙の跡が無い事を確かめてから、笑う。
何も知らない子供特有の、純粋で、無垢な笑みだ。整った容姿を持つ事も手伝って、愛らしいと表現されるべきものなのだろう。
しかしエイナスが抱いたものは、吐き気をもよおすほどの強い嫌悪で、反射的に腕を振り、自らの膝に触れる小さな手を払った。
アーシェリナの小さな体は、突然振り払われた衝撃と驚きに抗う術もなく、よろけ、床の上に尻から倒れ込んだ。しばらくは呆けて固まっていたが、やがて痛みを思い出したのか、大きな瞳から大粒の涙を溢れさせ、声を上げて泣きはじめる。
「まあまあ、アーシェリナ様、いかがなさりました」
泣き声に呼ばれて現れた侍女はまず、アーシェリナのそばにエイナスが居る事に驚いたようだった。エイナスが子供たちと顔を合わせる事は稀であったし、ふたりきりになった事など過去に一度も無かったので、当然かもしれない。
次に侍女は、怯える様子を見せた。強張った顔でアーシェリナを睨み続けるエイナスが、恐ろしかったのかもしれない。僅かに震える姿が、あまりに異質だったからかもしれない。
「――せろ」
「何と?」
「失せろ、と言った。私に見せるな、その女を」
「は、はい。失礼いたしました」
慌てて頭を深く下げた侍女は、泣き続けるアーシェリナを胸に抱くと、駆け足でエイナスのそばを離れていった。
アーシェリナの姿が見えなくなり、声が聞こえなくなると、エイナスはゆっくり息を吐く。同じだけゆっくりと、体から力が抜けた。アーシェリナだけに向けていた意識が他にも向くようになると、指先がひどく冷えていた事と、冷たい汗をかいていた事に気が付いた。
ぎこちない動きで、前髪をかき上げ、汗でへばりついていた髪を払う。
「今のは――」
私は今、何を見た?
エイナスは自分自身に問いかけた。
アーシェリナの瞳はエイナス自身と同じ深い紫色であったはずだ。アーシェリナの顔をゆっくり眺めようと思った事などなかったが、幾度か見かけた事はあり、その時は間違いなく紫だった。それに、周囲の者たちも言っていた。「エイナス様と同じ色の瞳ですよ」と。
なら、あれは何だ。あの、禍々しい――
『無駄ですよ』
脳裏に蘇る声。
同時に蘇る光景は、邪神に祈るための地下室で、黒く波打つ艶やかな髪の奥、輝いていた赤い瞳。
『私を殺したところで』
あの時、あの女は、最期に、何をしていた?
女の細腕からは考えられないほど強い力でエイナスの足を掴み、エイナスの知らない言葉で、何かを呟いて――あれは、邪神に力を借りるための呪文か?
エイナスは拳を握り締め、傍らにあるテーブルに叩き付ける。かすかな痺れは感じたが、痛みは感じなかった。
まだ生きているのだろうか、あの女は。
レミーラとの名を持つ女の体を失っても、魂はどこかで――同じ容姿をもつ孫娘の中で? だから、殺しても無駄だと言ったのか?
アヴァディーンは、死んでしまったのに。
静かな部屋の中に、カタカタと、何かが震える音が響いた。小さく首を動かして見てみると、テーブルに押し付けたままの左手が、小刻みに震えていた。振動はテーブルに伝わり、テーブルの上にある花瓶に伝わり、生けられた花々までもが震えていた。
その震えははじめ、自身が母に対して抱く恐怖の象徴として、エイナスの瞳に映った。あまりに不愉快で、消してしまおうと考えた直後、エイナスは気付く。
違う。
これは恐怖ではない。怒りの象徴だ。
Copyright(C) 2009 Nao Katsuragi.