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序章



 半ば狂気に支配されていたレミーラも、表面上を装う程度の常識と知能は残していたらしい。レミーラの館は、寝室に隠された地下への階段を下りる事さえしなければ、普通の邸宅と変わらない様相だった。
 だからだろうか。階段を上りきったエイナスが、眩しさを感じてしまったのは。寝室は外から入る光を完全に遮断しており、蝋燭を一本ともしているだけで、あらゆる明かりが点いていた地下の方が、物理的には遥かに明るかったはずなのだが――淀む空気に潜む闇からの解放は、それほど清々しいと言う事か。
「エイナス様」
 寝室内唯一の光源である燭台を手にして待ち構えていた、片目を眼帯で覆った青年は、落ち着いた声でエイナスの名を呼んだ。
「静かだな」
「元より人の出入りが少ない屋敷です。数少ない使用人も、今は全員……眠っております」
「そうか」
 数多くいる側近の中から、この男を選んで連れてきた意味はあったと言う事か。納得したエイナスは、ひとり頷いた。隣で、緊張を表情に現す青年の様子に、気付く事もなく。
「エイナス様、レミーラ様、は……」
「リュクセル」
 エイナスは青年の名を呼ぶ事で、彼が喉の奥から搾り出した声を遮った。
「後始末をしておけ」
 その短い言葉が、遮られた問いの答えである事に気付いたのだろう。リュクセルは瞬きの間に、表情を固く引き締めた。
「了解いたしました」
 返事は良い。だが、一歩も動こうとしなかった。
 エイナスはリュクセルの横顔に目を向け、紅茶色の目を睨みつける。リュクセルはエイナスの意図を理解できないほど愚鈍ではないはずだし、理解したならば迅速に行動できる男のはずで、その彼が未だエイナスの傍らに残っている意味を、探らねばならなかった。
「先ほど……」
 鋭い視線の気配に追いたてられたか、リュクセルはしぶしぶと言った様子で語りはじめた。
「エイナス様のご指示通り、屋敷内の捜索を行っていた時に、こちらを発見いたしました」
 言ってリュクセルは、燭台を持つとは逆の手に掴んでいた数枚の羊皮紙を、エイナスに差し出した。
 リュクセルにとって、エイナスの命令を遂行する事よりも優先すべき事など、ほとんどないはずだ。それほど重要な事が書いてあると言うのか。
 エイナスは奪うように羊皮紙を手に取り、即座に目を通す。
 ある程度の覚悟をして読みはじめたエイナスだが、記されていた内容は覚悟していたよりも重大で、一枚目を読み終わる頃には、食い入るように一文字一文字を追っていた。
『私はこれまで、貴方の出世を邪魔するものを、貴方に仇なすものを、沢山排除してきました。これからもです』
 もう二度と耳にする事なき母の声が、エイナスの脳裏に蘇り、響き渡る。
 かつてレミーラが持っていた武器は容色だけだった。だからエイナスは、加齢と共にそれを半ば失った彼女にできるのは、邪神信仰と引き換えに得たいくらかの暗黒魔法を使う事だけだと思っていたし、それも大した力ではないだろうと見下していた。
 だが、甘く見すぎていたようだ。どうやらレミーラは、邪教団の中でもそれなりの地位に居たらしい。地位にふさわしいだけの魔力と、組織の力を動かして、彼女なりにガーフェルートのために暗躍していたようだ。しょせんは名前も知られていないような神の弱小教団だが、何人かの命を奪う程度の事ならば可能で、それが微塵もガーフェルートのためにならなかったと言い切る事は、エイナスにはできそうにない――だとしても、レミーラに感謝する気など微塵も起こらなかったが。
『その次は』
 あの、女。
 湧きあがる怒りを押さえ込みながらエイナスは、地下へ続く階段を睨みつける。
『すぐに後悔する事になるわよ』
 つい先ほど、軽く流してしまった母の言葉を、エイナスは今になって噛みしめた。まさに母の言う通り、殺した事を後悔しながら。
 あんなにも易々と、楽に、殺してやるのではなかった。いや、それ以上に――生かして、利用してやればよかった。
 エイナスは一度、意図的に、深い呼吸をした。そうして、気を取り直す。
 やってしまった事を後悔してもどうにもならないし、意味もない。これからどうするかを考えなければ。
「いかがいたしましょう」
「お前は予定通りに後始末をしろ」
「しかし」
「私は、一度ここを出る。夜明けまでには戻る。それまでに全て終わらせておけ」
「エイナス様?」
 それ以上の問いを許さず、エイナスはリュクセルを置き去りにして、今は主を失った館を飛び出す。
 人目を避けるように繋いだ馬を解放し、その背に跨ったエイナスは、一刻も早く目的の場所へ辿りつくよう、鞭を振るって馬を走らせた。

 ふた月ぶりに会った友人は、再会の挨拶や歓迎の言葉を口にするよりも早く、驚いた表情を見せる。
 当然だろうとエイナスは思った。知人の邸宅とは言え夜中に、たったひとりで訪れるなど、あまりにもエイナス・ガーフェルートらしくない行動だ。魔法や化粧で変装した別人だと疑われても、仕方がないかもしれない。
 だがアヴァディーン・ローゼンタールは、突然現れたエイナスをエイナスだと信じてくれたようだった。信じた上で、エイナスがエイナスらしくない行動をとるほどの事があったのだと理解し、人を掃い、目立たないよう客間ではなく自室に通してくれた。
「何があった」
 扉を閉めてすぐ、椅子に座る間も惜しんで、アヴァディーンが言う。
 エイナスは素早く、ふところに収めていた羊皮紙を取り出し、アヴァディーンに差し出した。
「何だ、これは」
「時間がない、アヴァディーン。一刻も早く、一族の者を連れて亡命する事を進める」
 アヴァディーンは数瞬、羊皮紙とエイナスの間で視線を泳がせた後、羊皮紙に視線を落とす。
「ここにはローゼンタール一族を落とし入れるための計画が大まかに記されている。明日の晩、王の暗殺が成功すれば、その翌朝にもお前は暗殺の首謀者として投獄され、形ばかりの裁判の後、一族もろとも処刑されるだろう」
 アヴァディーンが喉を鳴らす音が、エイナスの耳に届いた気がした。
「誰が、そのような」
「この計画書は私の母の屋敷に隠されていたのだが、母や母が使える手駒だけで、それほど大それた事を行えるとは考えられない。せいぜいが暗殺の実行までだろう。だが、ここに書いてある事が本当ならば、確実にローゼンタールを落とし入れる準備がある。お前を目障りだと思っている組織のどこかが、協力していると思って間違いない」
 エイナスが早口に語ると、アヴァディーンは場違いな笑みを浮かべながら、長い息を吐いた。
「ずいぶん嫌われたものだな」
「腐りきったこの国で、正しきを行おうとすれば、恨みを買って当然だろう。相手が何者かは判らんが――それは、すぐに調査をさせる。だが、たった一日で全てを知る事はおそらく無理だ。知らない状態で計画を止める事は難しいだろう。事が起こった後に逃げるのは、それ以上に。だから」
「今すぐ逃げろと」
「それで勝てるとは思っていない。逆に利用される事もあるだろう。だが、今は少しでも時間を稼がなければ。弁明すらできずに殺されてもいいのか」
「しかし……陛下や民は……」
 呟いてからアヴァディーンは、あからさまに「しまった」と言いたげな顔をした。
 感情を隠しきれない所は、昔から変わっていないのか、それとも、単純に油断していたのか。どちらにせよ褒められたものではなく、エイナスはアヴァディーンを睨みつける。
「余計な事を考えるな。民の運命は、お前が逃げようと処刑されようと大して変わらん」
 エイナスは厳しい口調でアヴァディーンに言葉を叩き付ける。
「全てを未然に防ぐ事ができれば一番良いに決まっている。努力はしてみるが、先に行った通り、今からでは難しいだろう。いいか、たとえ未遂でも、事件が起こった時点でローゼンタールは終わりだ。お前は、分の悪い勝負はけしてするな。お前やお前の家族の運命は、逃げれば変わるかもしれんのだから」
 長い間を空けてから「そうだな」と呟くアヴァディーンの瞳に、強い迷いの色が浮かんだ。
 人は皆、守りたいと望んだもの全てを守れるわけではない。エイナスがわざわざ口にしなくとも、アヴァディーンは判っているだろう。
 判っていて、斬り捨てるべきものを選ぶ事にためらうのが、この男なのだ。たとえ相手が、貴族たちの傀儡となるためだけに生きる、無能な王でも。
 理解できない思考回路に、半ば呆れ、半ば尊敬しながら、エイナスは手の中にある羊皮紙をアヴァディーンの胸に押し付けた。
「敵はおそらく司法を味方につけた組織だ。今は、この程度の証拠を握りつぶす準備ができているだろう。だが、いつか、お前がこの国に戻ってくる時、役立つかもしれん。持っていけ」
「いいのか」
 アヴァディーンは計画書をすぐに受け取ろうとせず、エイナスに問う。
「私がこれを使えば、君の母親が国王暗殺計画に関わった事が明らかになるぞ」
 エイナスは鼻で笑って答えた。
「誰かがその計画書と私の母の関係を証明できるならば、そうなるだろう」
 自信に満ちたエイナスの声を受け取ったアヴァディーンは、はじめ呆けた顔をする。だがその顔には、徐々に柔らかな笑みが浮かび上がり、夢を語っていた少年の頃の面影が蘇っていた。
 アヴァディーンの手が、羊皮紙の束をしっかりと掴む。
「エイナス、すまない。それから、ありが……」
「礼はまだいい」
 エイナスはアヴァディーンの言葉を途中で遮った。
「お前から礼をもらえるほどの事ができるか、今の時点では判らんからな。私は今後、状況によっては、ローゼンタールを見捨てる選択をするかもしれん」
「エイナス……」
「いつかもう一度、このファンドリアで会いまみえる日が来たら、その時たっぷり礼をしてもらおう」
 エイナスは口元に微笑を浮かべる。「いつか」が必ず来る事を誓う、不適な笑みを。
 しばし遅れて、アヴァディーンは満面の笑みを浮かべた。
「ああ」
 笑いながら、噛みしめるように、語る。
「ああ、そうだな」
 その言葉は、遠い未来へ続く約束のはずだった。


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Copyright(C) 2009 Nao Katsuragi.