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序章



 人が狂気と呼ぶものを具現化すれば、こうなるのだろう。
 エイナス・ガーフェルートは、目前に広がる異様な光景が引きずり出そうとする、混乱や恐怖と言った感情や体の震えを必死に押さえむ。そして、唾液を喉に通す事で渇いた喉を僅かに潤すと、未だエイナスの存在に気付こうとしない、レミーラ・ガーフェルート――母だ――の後ろ姿を見下ろした。
 剥き出しになっている母の白い腕や首すじに記されたものは、床中に広がる紋様とよく似て、威圧と共に禍々しい印象をエイナスに与えてくる。人間の血液によく似た赤黒い塗料で描かれているから禍々しく感じるのだろうか、と考えたエイナスだったが、「いや、違う」と口の中で呟く事で否定した。
 あれは血の色の塗料ではないだろう。おそらく、人間の血液そのものだ。
 エイナスは母から目を反らし、部屋の隅にいくつも転がる頭蓋骨に目をやった。むき出しの骨などほとんど見た事がないエイナスでも、まだ年端のいかない少年か少女のものであろうと容易に想像ができる。自身の輪郭をなぞってみれば、己の頭蓋骨がその辺りに転がっているものよりも随分大きいだろう事が、すぐに判るからだ。
 あの子供の骨はどこから入手したのだろう。エイナスは混濁する意識の中でふと考えた。どこかの墓を掘り起こしたのだろうか。闇市ならば売っているのだろうか。貧民街ならば子供の死体のひとつやふたつ転がっているだろうから、それを拾って骨にしたのだろうか――いくつか考えてみたものの、どれも母の性格からは考えられない行動だった。
 ならば、どこからか連れて来た子供を殺し、骨にした、と言う事なのだろう。
 最悪の予想に辿り着いたエイナスは、静かに、長い息を吐く。そうして落ち着きを取り戻してみると、目の前の光景から別の結論を導き出そうとしていたさっきまでの自分が、ひどく愚かな生き物に思えた。
 エイナスは再び母を見下ろし、そこから徐々に視線を動かした。
 母の正面には赤黒い液体がなみなみと注がれた大きな壺があり、その上には、天井から伸びた鎖に吊るされた十歳ほどの少女の体が揺れている。充分美しいと言える顔に苦悶の表情を浮かべたまま動かない少女は、こと切れて間もないのだろう。足首に開いた穴からは、まだ僅かに血が滴り、壺の中へこぼれ落ちていた。
 エイナスは母の背中を睨みつけた。
「母上」
 エイナスが呼ぶと、レミーラはゆっくりと振り返る。
 いくつもくべられた松明と蝋燭の明りに照らされたレミーラの微笑みは、歪みを秘めており、恐ろしかった。エイナスを産み歳を取る事で多少は衰えたものの、かつて傾国の美女と謡われたほどの美貌は今も変わらずそこにあると言うのに、美を感じとる事はできそうにない。顔にまで血液で刻まれた紋様が、レミーラの中にある闇を、如実に表しているからだろうか。かつてレミーラの美しさをたたえた詩人が、紅玉のように輝くと唄っていた赤い瞳も、今は血と狂気で濁ったものにしか見えなかった。
「エイナス」
 しかしレミーラがエイナスを呼ぶ声は、不思議と優しく、温かなものだった。ごく普通に、母が息子を慈しむもののようだ。
「何をなさっておいでです?」
「見れば判るでしょう? 神に祈っているのですよ」
 美しい声で淀みなく紡がれたその言葉に虚構はなかった。エイナスは若干驚きながらも納得し、母に向けていた憎しみに、乾いた哀れみを混ぜ込んだ。
 まともな神ではないだろう。エイナスの信仰心はけして強くなかったが、その程度の事を判断する事はできる。まともな神ならば、このように禍々しい儀式も、哀れな生贄も、求めはしないだろうから。
 父亡き後ひとりで静かに暮らしたいと望んだ母のために、こんな屋敷を建てた事が間違いの元だったのだと思い知り、エイナスは唇を噛んだ。母を疎ましく思っていたエイナスにとって、いい厄介ばらいだったはずなのだが、そのせいで、地下室がこのようにおぞましい変化を遂げた事に、三年もの間気付く事ができなかったのだ。
「なぜ、祈るのです?」
 エイナスの静かな問いに、レミーラは静かに答えた。
「貴方のためですよ。貴方の幸福と成功のために」
 言ってレミーラは、火の中から一本の松明を手に取った。石畳を蹴る音を響かせ、一面に広がる紋様の中心に置かれている、幼い少年の首に近寄る。
「我が主よ。捧げものをお受け取りください」
 炎の明りに照らされた少年の顔は、奇妙にてかっていた。その理由をエイナスが知ったのは、母が少年の体の上に松明を落とした時だった。
 少年には油が塗られていたのだろう。たちまち炎が少年を包みこみ、勢いよく燃え上がる。彼はやがて骨となり、過去にそうされた子供たちのように、隅の方に寂しく転がされるのだろう。
「私のためだとおっしゃるのでしたら、二度とこのような事はなさらないでください」
 少しずつ弱まっていく炎を眺めながらエイナスが言うと、レミーラは母の表情を失い、無表情のまま硬直させた。
「今、何と言ったのです?」
 震える唇で紡がれた言葉は、同じだけ震えている。しかしエイナスは、いくつも転がる骨や無惨な遺体に対すると同じように、同情する事はなかった。
「私が貴方のためにしてあげた事を判っていて、そのような事を言うのですか?」
「ええ」
「嘘おっしゃい。貴方は知らないのです。私がこうして神に祈ったからこそ、貴方は多くの貴族たちを退けて上に立てるようになり、ガーフェルートは領地も財産も軍隊も権力も増したのですよ。他にも――そう、五年前の、敗戦確実と言われていた国境の戦いで、アブドナル侯爵軍は壊滅状態になりながら、貴方が率いるガーフェルート軍が見事に凱旋したのは、誰のおかげだと思っているのです?」
 自身の実力と、少しの運。それだけだ。
 そう言い切るには、確かに少しばかり幸運に見舞われすぎていたかもしれないと思いはじめたエイナスは、無言で母の語りに耳を傾けた。
「私はこれまで、貴方の出世を邪魔するものを、貴方に仇なすものを、沢山排除してきました。これからもです。思い出してみなさい。先日レモンデ男爵が病に倒れたでしょう? あの男も、私の神の呪いによって、もうすぐ命を落とすのです。その次はローゼンタール侯爵ですよ。あの男は、ただ殺すだけでは駄目。一族もろとも闇に葬られるような、無残な終わりを与えます。もうすぐに、ね」
 レミーラの言葉の中に、朋友と言ってよい男の名を見つけ、エイナスは拳を握り締めた。
 現ローゼンタール侯――アヴァディーン・ローゼンタールと出会ったのは、何年前の事だろうか。場違いだと思いながら、エイナスはふと考える。
 ガーフェルートの次期当主として、常に冷静であれと育てられたエイナスは、出会う者たち全てを、たまたま同じ時代に産まれ、同じ場所に居ただけだと割りきって生きてきた。だが、アヴァディーンだけは違った。彼は固く閉ざしているはずのエイナスの心に入りこみ、しかし踏み荒らす事なく、心地よい温かさを与えてくれた。今は亡き父も、母も、けして教えてくれなかったものを、アヴァディーンだけが教えてくれたのだ。
 自分も笑う事ができるのだと、母は知らないに違いない。そうエイナスは確信していた。エイナス自身でさえ、アヴァディーンに出会うまで、自分はそう言う人間だと思っていたのだから。
「そうですか……ローゼンタール候も」
 アヴァディーンは家族を愛し、不器用ながら婚約者を愛し、領民を、領地を愛していた。常に夢を語り、この薄汚れた国の発展と民の幸福のために尽力しようと誓っていた。豪快でありながらも、魔物に田畑を荒らされた農民や、親を失った子供、隣国との不安定な情勢に怯える者たちを、気遣える繊細さを兼ね備えていた。
 自分の立場を知り、良き領主となろうとしていた彼も、ときおり、農民に生まれれば容易に叶えられるだろう素朴な夢を、口にする事があった。ローゼンタールを継ぐ者である以上、一生叶えられないと彼は理解していて、寂しそうに微笑んでいた。そんな彼を叱咤する役目は、エイナスが担った。他に何もしてやれない自分を申し訳なく思いながら、彼が夢を語る相手に自分を選んでくれた事が嬉しかった。
 アヴァディーンは一度だけ、『エイナスには迷いがない。それが俺には羨ましい』と、口にした事がある。
『多くの選択肢の中で迷いながらも、努力によって正しいものを選ぼうとするお前が、私には羨ましい』とエイナスが返すと、アヴァディーンはそれ以上何も言わなかった。互いに無いものねだりをしたところで無意味だと、理解してくれたのだろう。
「ローゼンタールはもっと早く始末をしておくべきでした。貴方を、ガーフェルートを差し置いて……」
「母上は」
 何も判っていない。
 そう続けようとして、エイナスは言葉を飲み込んだ。言ったところで、狂気を内包した母に伝わるわけがない。
 あの男は常に国を思っていた。誰よりも。だから、この国にとって、エイナスよりも必要な男だった。ただそれだけの事だ。そんな当たり前の事を、なぜ否定できる?
「私の出世を邪魔するものを、私に仇なすものを、排除してきたと……おっしゃいましたね」
「ええ」
「最近不穏な噂が流れている事を、母上はご存知ですか?」
「なんです?」
「ガーフェルート伯爵家に、邪神を信仰する者が居ると」
 カツン、カツン。
 音を立ててゆっくりとレミーラに近付きながら、エイナスは濁った紅玉の瞳を見据えた。そこには明らかな動揺が浮かんでいる。
「たとえこの国で認可されている暗黒神だったとしても、我が伯爵家からすると対立組織ですから、良い噂とは言えませんが……この儀式の様子を見ると、暗黒神ですらないようです」
 レミーラは昔から、悪い噂が付きまとっている女だった。国中に知られた美貌の持ち主が、その美貌を利用して数多の男たちを手玉にとり、伯爵夫人の地位を得たのだから、当然と言えるだろう。エイナスは幼い頃から何度も、母が「悪魔のような女だ」と言われているのを耳にしてきた。
 それが次第に、「悪魔すら従える邪神の教徒」へと変化していった時は、噂する者たちの程度の低さを嘲笑ったものだが――まさか、ここまで真実に迫っていたとは。
「悪い噂は私にとって邪魔かつ仇なすものとは思いませんか?」
「エイナス……」
「私のためを思うなら、排除してください」
「エイナス!」
 エイナスは腰から吊るした長剣を引き抜き、切っ先をレミーラに向けた。
「母は、貴方のためを思ってやったのですよ……!」
 それからレミーラは幾度もエイナスの名を呼び、幾度も自身の功績を訴えが、エイナスの心には届かなかった。エイナスの心まで言葉を届けられる人物は、この世にひとりしか存在しないのだから、当然の事だった。
「む、無駄ですよ、私を殺したところで」
 少しずつ歩み寄るエイナスから逃れようと後ずさったレミーラは、人間の背の高さほどもある燭台に足をぶつけ、そのまま後ろに倒れた。レミーラと共に倒れた燭台が、台に置かれた香油の瓶を割り、蝋燭から香油に移る事で、炎は大きく膨らんだ。
 背後を炎に塞がれる事となったレミーラは、逃げる事を諦め、エイナスを見上げる。
「助けて、エイナス。ねえ、母を許して。もうしないわ。貴方を困らせるような事は、何も。だから助けて。殺さないで」
 真紅の瞳に涙を浮かべ、息子に縋りつき、命乞いをする様は醜悪で、エイナスはためらう事なく、レミーラの体を蹴り飛ばす。
 炎の前に倒れこんだレミーラは、自慢の黒髪の先を少しだけ焦がしてから、蹴られた腹をさすりながら身を起こした。そうしてエイナスを見上げる瞳は、まだ涙に濡れていたが、貫くように鋭く、惨めな女の姿はどこにもなかった。
「すぐに後悔する事になるわよ、エイナス。私を殺した事を」
 炎よりも赤い、血色の唇が、いびつな笑みを浮かべる。
「すでに後悔しておりますよ。今日まで貴女を生かしておいた事を、ね」
 エイナスが距離を詰めるために一歩踏み込むのと、レミーラが何かを唱えはじめたのは、ほぼ同時だった。
 耳に届くのは、エイナスの知らない言葉。軋んだ響きは、おそらくは神への祈りの言葉だろう。
 赤い爪が毒々しく輝くレミーラの手が、エイナスの足を掴んだ。中年の女のものとは思えないほど強い力が、そこにはこもっていた。
 エイナスは僅かなためらいもなく剣を振るう。迷いの無い刃は、素早く、鋭く、レミーラの喉を突いた。するとレミーラの声は、一瞬だけ悲鳴に変わってから、すぐに消えた。
 これでもう、この女は、何も言わない。何もしない。
 床に崩れ落ち、ぱっくりと割れた傷口から、多量の血を吹き出し続けるレミーラを、エイナスは冷たい視線で見下ろす。
 心を満たすものは、安堵ばかりだった。


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Copyright(C) 2009 Nao Katsuragi.