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四章 芽生えたもの




「ルスター、少しいいだろうか」
 部屋に戻ろうと歩いていたルスターを呼び止めたのは、丸めた羊皮紙を手にしたハリスだった。
「何でしょう?」
 ルスターが足を止めてハリスと向かいあうと、ハリスはおもむろに羊皮紙を広げる。
 地図だった。ルスターにとってひどく見慣れたものであり、ひと目でこの地方のものだと判るそれは、素っ気ない黒いインクで何本も乱雑に線が引かれている。
 何も知らない者が見れば子供のいたずら描きだと思うかもしれない書き込みだが、線はよく見ると、同じインクで描かれたいくつかの点を繋いでいた。その点の位置に覚えがあったルスターは、判断力がある大人が描いたものだとすぐに理解し、厳しい眼差しを地図に落とす。
「この線の意味は説明せずとも?」
「はい。魔物が出現する限界線ですね。日々更新されており、現状最も内側にあるものが、一番新しい情報によるもの」
「話が早い。では続けるが、先ほど兵士長と話をし、現状ではこう……」
 地図上をなぞるハリスの指は、最もザールに近い線に沿ってゆっくりと移動したが、線の終わりに辿り着く前に停止した。
「なってる定期巡回路を、こう変更したいとの話になった」
 ハリスの指が、直前になぞった時より先に進み、インクで描かれた線を越えたところで止まったので、ルスターは肯いて応じた。
「元より貴方がたにお任せしている件ですが、それでも私の意見が必要との事でしたら、異論ありませんとお答えします」
「ありがたいが、ひとつ問題がある」
「金銭面でしょうか。それとも人手の面で?」
 即座に思い付いた予想を口にすると、ハリスは一瞬固まってから苦笑する。もはやこの場には不要となった地図を丸め直し、潰さないよう器用に腕を組んだ。
「人手だ。もっとも、その問題のほとんどは金銭で片付くであろうが」
 予想が当たった事を素直に喜べない、頭の痛い問題だった。ルスターもハリスに倣って腕を組み、考え込む。個人の労力や財力を駆使してどうにかなる問題ならば喜んでそうするが、どうにかならないのは明らかだった。
 特別肥えた土地でもなく、優れた名産品があるわけでもないザールは、裕福との言葉とほとんど縁が無い。ザールのそう短くない歴史上、金銭面の余裕があった事は皆無と言っても過言ではなく、大神殿から洞穴を守る役割と共に与えられる補助金によって、ようやく警備面が成立しているのが現実だった。
 カイとアストがザールに居住してからは、彼らを守る名目で多くの聖騎士がザールに派遣されるようになり、より充実した警備ができるようになっていたのだが――その長であるハリスが「人手が足りない」と言っているのだから、間違いなく限界なのだろう。
「厳しいようなら、神殿に頼るしかないだろうな」
 容易に返答しないルスターの態度で全てを察したらしいハリスは、ルスターの中に存在していなかった提案をした。
「今以上に、ですか? おそらく無理でしょう。少なくとも、ハリス殿や私の名で縋ったところで」
「つまり、カイ様やアスト様が縋れば可能だと」
 ハリスが辿り着いた当然の結論を否定するため、ルスターは静かに首を振った。
「不可能とは思いませんが、カイ様の事です。ご相談したが最後、ご自身にかかるお金を節約するところからはじめてしまうのではないでしょうか」
「カイ様の生活費を減らして何が変わる」
「カイ様アスト様のために大神殿からいただいているお金は、おふた方の生活をお守りするために使うものです。大きな意味で。ザールに滞在する聖騎士たちにかかる経費もそこに含まれております。おふた方の安全のためにザールの安全を守ると言う理屈が成り立つがゆえに、貴方がたもザールの警備に携わっておられる」
 ハリスは苦笑しながら頷いた。
「食費服飾費を節約して警備費に回す程度ならば可愛いものだが、あの方なら、身近の守りを排除して外部の警備に回しかねない、と言う事か。四年前の洞穴を封印に行った時、しきりに口にされていたように」
「ええ。これまでは、最後の砦が貴方であったからこそ、カイ様の無茶は通らなかったのですよ。その貴方がお金に困っていると言ってしまえば、最後で……」
 静かな通路上で大きな靴音が響き、ふたりは素早く振り返った。十数歩離れた場所にカイが立っている事に気付くと、血の気が引く思いをする。
 声を抑えて話していたが、今の話は彼に聞こえていただろうか。もし聞かれていたとすると、都合が悪い上に、なかなか気まずいものがあった。
「ちょうど良かった。どちらかに、頼みたい事が」
 カイはまったく新しい会話を振ってきた。どうやら聞いていなかったようだと安心したルスターは、カイに気付かれないよう静かに息を吐く。
「何でしょう」
 体ごと向き直ったハリスが訊ねると、カイは手にした二通の封書を目の高さまで掲げながら近付いてきた。
「大神殿に手紙を届けて欲しいんだ」
「判りました。すぐに使者を出しましょう」
「今から出たら夜中になってしまうだろう。大至急ってほどでもない、明日中に着けばいいから、明日の朝に発ってくれれば充分だ。ついでがあればいいと思ったんだが……」
「それでしたら、私がお預かりしましょう。私も明日、王都に使いを出す予定でしたから」
「そうですか。じゃあ、お願いします」
 カイが気楽な笑みを浮かべ、軽い動作でルスターに手紙を差し出してきたので、ルスターもつい気軽に受け取った。親しい友人に宛てた、他愛ない内容の手紙を預るかのように――カイにとってのそのような手紙を送る相手が、王都に居ない事を忘れて。
 故に、手紙の封にエイドルードの聖印が使われた上、外側から見えるようにカイの署名が刻まれている事に気付いた時は、自身の体が内側から凍りはじめたのかと疑うほど、急激に心が冷えた。
 これは正式な形で、神の御子カイの名において出された文書だ。とてもではないが、気軽に扱えるようなものではない。
 ついでで良いとカイは言ったが、自分の方をついでにする事を即座に決定したルスターは、脳内で使者の人選をはじめた。単なる使いに頼むわけにはいくまい。急だが、ナタリヤにでも頼もうか。
「どなた宛でしょうか」
「こっちが大司教宛で、こっちがリタ宛です。でも、内容は大して違わないので、間違えてもいいですよ」
 宛先を聞く事で確証を得たルスターは、胸の奥から冷たい息を吐き出す勢いを借り、手紙に落としていた目線を上げてカイを見た。
「とうとう来てしまった、と言う事ですね」
 ルスターの言葉から察したハリスも、カイを凝視した。
「『その時』が?」
「ええ」
 カイは浮かべた薄い微笑みの儚さからは考えられないほど、力強く肯く。
「あと少しだけリタの力が必要なんです。ですから、リタへの手紙には、もう一度だけザールに来て、力を貸してくれ、と書いてあります。大司教への手紙には、リタが大神殿を離れるので後をよろしく、と」
 淡々としたカイの語りをすぐにでも止めてしまいたいと気が逸っていると言うのに、動揺のあまりついてこない体に苛立ちを覚えたルスターは、何度か呼吸を繰り返すうち、ようやく問いを絞り出す事に成功した。
「まだ、早すぎるのではありませんか?」
 カイは無言で首を振ってから口を開いた。
「早すぎるどころか、遅いくらいですよ。残された時間は半年程度だって、ルスターさんも知っているはずでしょう」
「ならば、半年先でもよろしいのでは」
「お気持ちは嬉しいですけど、これ以上待っても、ザールが受ける被害が増えるだけですよ。この先、人命に関わるような、深刻な被害が起きてしまうかもしれない。そうなってしまった時、苦しむのはアストでしょう? アストやユーシスを責める声が、俺たちで抑えきれないほど大きくなってしまえば、なおさら」
 カイは少しだけ顔を背け、ルスターやハリスを直視するのをやめた。
「本当は、今日この日まで待ったのも、俺の我侭なのかもしれません。そうじゃなかったとしても、これ以上は確実に、俺の我侭でしょう」
 反射的に「我侭なものですか」と言い返しかけたルスターだが、カイの微笑みが明るいものへと変化する様を見届けるうちに、声を失くした。見惚れるなどと言う生易しい言葉では片付けられない、けして目を反らせない力がそこにあり、ただ凝視するしかなかった。
 運命を享受し、悲哀と苦痛を飲み込めば、人はこれほど温かく笑えるのだろうか。これほど、力強く。
「今のアストには、使命を果たすだけの力がある。俺は、それを信じます」
 ルスターは黙って肯くしかなかった。
 きっとそうなのだろう。カイがそう言うのならば、近い未来にアストはたったひとりで魔物と対峙し、使命を果たすのだと、信じるしかないのだろう。
 けれど――けれど私は、使命を果たす神の子を見守る勇気がまだない。
 けして口にできない言葉を飲み込み、ルスターは肯いた。手の中にある二通の手紙を破り捨てたい衝動と戦いながら。
「ま、そう言うわけだ、ハリス。あともう少しの辛抱だから、人手の件は、今ある中で何とか工面してくれ。先の長期休みをちらつかせるなりして、今だけ無理をしてくれと」
 カイは軽い口調でハリスに語ると、小さく手を振りながらその場を後にする。
 遠ざかる背中を見守ろうと顔を上げたルスターの目と、驚いたためか僅かに見開いたハリスの目が合うと、ふたりはどちらからともなく笑った。
「先ほどの話、聞かれていたようですね」
「人通りのある場所で話し込んだのは失敗だったな。まあ、いい。無茶を言われなかったのだから」
「……そうですね」
 もしかすると、無茶を言う余裕が無かっただけかもしれないけれど。
 確信に似た予感を自身の胸の中だけに秘めたルスターは、角の向こうに消えていくカイを見送った。


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