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四章 芽生えたもの




 刃引きした剣を振ると、沈黙の空間に風を切る音が響き渡る。その音が、アストは大好きだった。気が引き締まる思いがするからだ。
 振り下ろした剣の切っ先が胸の高さになる所で制止し、再び振り上げる。繰り返すうちに剣の軌跡がぶれないように集中すると、周囲から音が消えていく気がする。何十と続けるうちに筋肉が熱を持ちはじめ、全身から汗が滲み出てくるが、その倦怠感すらも心地良かった。
 素振りが百を越えた頃だったろうか。自分は今ひとりきりではないのだと、アストが思い出したのは。
 アストは剣先を地面に下ろして動きを止めた。額に滲む汗を雑に拭い、開かれた窓に振り返る。
 ユーシスはいつも通り、窓際に置いた椅子に腰掛けていた。アストがここにやって来た当初は会話を交わしていたし、アストが素振りをはじめていくらかは様子を見守ってくれていたはずだが、今は小難しそうな本に視線を落とし黙々と読み進めている。他人の基礎訓練を見学するのに飽きたか、単純に興味が移ったのだろう。
「あれ? もう止めるの?」
 視線は完全に本に向いているが、意識のいくらかと耳はアストの方に向けていたようだ。アストが動きを止めた事にすぐに気付いたユーシスは、アストに向き直る。
「さっき、打倒カイ様って言ってなかったっけ?」
「言ってたよ」
「百回や二百回素振りしたくらいで勝てる相手なんだ?」
「勝てないよ。勝てないけどさ。訓練はここじゃなくてもできると言うか、わざわざここで訓練するのもおかしいかなって思ってさ」
 アストが剣を鞘に納めながら言うと、ユーシスは小さく笑った。
「別におかしくないと思うけど。だって君、腕が上がって、カイ様にまともに相手をしてもらえるようになったのが、嬉しくて楽しくてしょうがないんだろう?」
「まあな。でも、こんなのひとりの時でもできるし」
「ひとりの時じゃなきゃできない事でもない……と言うか、本当の意味でひとりの時なんて、君にはないんだろう?」
 痛い所を的確に突かれ、アストは苦笑いを浮かべた。
 ユーシスの言う通りだ。ザールの城や町の中では、常に他者が向ける祈りや感情が纏わりついてきて、息苦しい思いをする。父がそばに居てくれればいくぶん楽になる気がするが、ずっとそばに居てくれるわけではないし、だからと言って人目を避けるために自室に閉じこもるのは、もっと息苦しい。だいたい、広い部屋があてがわれているとは言え、室内で剣を振り回すのは、常識はずれにもほどがあるだろう。
 本当の意味でアストが開放される場所は、ここだけかもしれなかった。ユーシスのための場所であるから、やはりひとりにはなれないのだが、城でひとりになるよりも、気分的にはよっぽど自由になれる。
「俺さ、ここが好きなんだよなぁ」
 ため息と共に、少々気恥ずかしい本音を吐き出したアストに、ユーシスが返してきた言葉は、至極冷静だった。
「知ってるよ」
「そ、そうか」
 さも当然のように言われると、照れ臭いと思っていた自分の方が恥ずかしく思え、アストはユーシスに背中を向ける。外壁にもたれると、体中から力が抜けだす感覚に引き摺られ、地面の上に座り込んだ。
「知っているから、好きなだけここに来て、好きなだけ楽にしていればいい」
 ユーシスの声が頭上から届くのは、妙な気分だった。はじめて出会った四年前と比較して、ユーシスの身長もそれなりに伸びているが、アストの比ではない。しかも、体があまり丈夫でないユーシスは、椅子や寝台に座っている事が多いため、ここ最近では見下ろされる機会はほとんど無かったのだ。
「話したい事があるなら話しかけてきてもいいし、ひとりでやりたい事があるなら、勝手に没頭すればいいよ。僕もそうするから」
 圧倒されたアストが、「それはいくら何でも傍若無人すぎると言うか、場所を共有する意味が無いんじゃないか」と言い返す前に、ユーシスは続けた。
「僕は君と違って、ここがあまり好きではなかったけどね」
「そうなのか?」
「うん。暗くて、静かで、もの言わぬ母が居ても、やっぱりひとりぼっちで。果てしない自由があるのに、息苦しくてたまらない、変な居心地の悪さを感じる世界だった」
 ユーシスは手の中にあった本を閉じた。乾いた音が、深い呼吸に重なる。
 音につられて顔を上げたアストの目に映ったのは、春の色をしたユーシスの瞳が、遠くを見つめる様だった。
「今は違うけどね。前に比べると、少し明るくて、少し賑やかで……体が軽く感じる」
「そうか」と生返事したアストは、ほぼ真上を見上げる事に疲れて俯いた。
 片手で首をさすりながら、自身の足元を見下ろす。沈黙の中、気分が穏やかになると、あえて思考の奥に押し込んでいた考え事が、急激に蘇ってきた。
 昼食の時に話題に上がった件だ。アストが食事を終えた頃、ナタリヤはまだ食事の途中だったが、手を止めて突然語りはじめた。ユーシスの今後の事を考えるなら――と。
「あのさ」
「ん?」
「つまりお前は、この館そのものに特に愛着があるとかではないわけだ」
「まあ、そうなるね。それなりに思い出はあるけれど」
「じゃあ、城に来ないか?」
 予想通り、一瞬にして空気が変わった。緊張の中に、攻撃的な雰囲気が僅かに混じっている。
 ユーシスがどんな顔をしているのか確かめるのが恐ろしい。だが、自ら話を振っておきながら逃げるのは卑怯な気がして、迷った末にアストは立ち上がり、ユーシスとの距離を縮めた。振り返る勇気は未だ持てず、背は壁に預けたままだったが。
「ここが好きだって言い出したのは君なのに、いきなりそう来るんだ」
「俺だって、ほら、大切なのは空気感であって、館そのものってわけじゃないから」
 アストは目を伏せ、大きく空気を吸い込んだ。
「お前の居場所がいつまでもここだけなのは、やっぱり良くないと思うんだ。最近魔物がまた活性化しはじめて、魔物がここまで来る危険性も出てきたらしいから、より安全な所で暮らしてくれた方が、やっぱり安心できるし。あ、レイシェルさんの墓の事なら気にするな。お前が城に移るなら、同時に一族の墓地に移すって、ルスターさんが約束してくれた」
 覚悟を決めて振り返ると、ユーシスは難しい顔をして考え込んでいた。あからさまに不機嫌な顔をされる事を覚悟していたアストにとって、それは想像よりも遥かに穏やかな表情で、よい兆候に思えた。
 いくらかの時間が過ぎた後、ユーシスの目がレイシェルの墓を見据える。それから、アストを。
「そうだね。一族として受け入れてもらえるなら、母さんの墓を移してもらうって言うのは、嬉しい話かもしれない」
 期待はずれの返事に肩透かしをくらったアストは、重く感じはじめた頭を片手で支える。
「あのな……言い方は悪いけど、レイシェルさんの件はおまけであって、本題はお前の方なんだぞ」
「僕はいいよ。このままで」
「お前は良くても」
「僕はここを出てはいけないんだ」
 穏やかな顔付きで、穏やかな眼差しで、穏やかな口調で、しかしきっぱりと言い切られ、アストはためらいがちに口を閉じた。
 儚く弱々しい外見とは対照的な、強い意志を感じる。その意思は、亡き家族への愛情や、十年以上も暮らした場所への執着や、彼を疎む者たちへの怯えから生まれたものには見えず、ならばどこから生まれてきているのか、アストは疑問を抱かずにはいられなかった。
「なんで出ちゃいけないんだ?」
「出ては駄目と言われているからだよ」
 ためらいもなくユーシスの口から飛び出してきた返答に対して、アストは新たに疑問を抱く。まず眉間に寄せた皺で表現してから、数瞬遅れで言葉にした。
「何か、前もそんな事言っていた気がするけど、誰がお前に館を出ちゃ駄目だって言ったんだ?」
 今度もためらいのない返答が来ると予想していたアストは、ユーシスが随分長く言葉に詰まった事に驚いた。
「誰に言われたんだろう?」
「は?」
 アストは間抜けに開いてしまった口を一度閉じてから、続ける。
「いや、俺が訊いてるんだけど」
「そうだよね。うん、判っているんだけど。言われてみれば、僕はどうしてこんなに頑ななんだろうと不思議に思ってしまって。小さい頃母さんに言われたからかな?」
「だとしたら、忘れちまえよ。レイシェルさんなりにお前を守ろうとして言い付けたんだろうけどさ、当時と今とでは、状況が違うんだから」
「うん……」
 ユーシスは生返事をしたきり黙りこんで、再度彼自身の母の墓を見つめた。
 いつ事態が悪化するか判ったものではないのだから、アストとしては、できる限り早く返事をもらい、行動に移したい。だが、単純に割り切れないユーシスの想いも理解できないではないため、急かす事はしなかった。
 代わりに、腰に佩いた、訓練用ではない方の剣に手を伸ばす。手袋ごしにでも伝わる冷たさは、アストが唯一縋る事ができる母の温もりだった。
「考えておくよ」
 予想外の回答であった事も手伝って、風の音に紛れたユーシスの声を、アストは一度聞き流しかけたが、逃げ切られる前に何とか言葉尻を捉え、ユーシスに振り返った。
「……本当か?」
「うん。僕だって、いつまでもこのままでいたってどうしようもないって事くらいは判っているつもりなんだ。だからとりあえず、この先の選択肢のひとつとして、考えてみる」
 他の者の口から聞いたならば、消極的な答えと思ったかもしれないが、相手がユーシスならば話は別だった。消極的どころか、革新的とさえ言える答えだ。
「大丈夫だ。いざ行ってみれば、想像していたよりもずっと気楽な生活になるって」
「そうかもしれないね。でも……」
 続きの言葉を飲み込んで、ユーシスは遠い空を見上げる。
 視線を追ったアストは、重なり合う木々の枝の向こうに、ザールの城の中で最も高い尖塔が、僅かに頭を覗かせている事を知った。


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