二章 封印
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耳に届くのは、聞き慣れたふたつの心地良い声。
離れようとしない上下瞼の固い意志に逆らえず、アストはまどろみながら、枕元で交わされる会話を聞く。半ば閉じかけた意識では、温かみのある声の主が父カイであり、柔らかな声の主がザールの領主ルスターである事を理解するまでに、ずいぶんと時間を必要とした。
どうしてふたりは朝から俺の部屋に居るんだろう。
アストは疑問に思いつつも、とりあえず朝の挨拶を先にしようと考えた。しかし、思い通りに声が出ず、愕然とする。慌てて何度か挑戦するうちに、少しずつ判ってきた。声が出ないのではなく、口が動かないのだと。
動かないのは口だけではなかった。重りが乗っているのか、あるいは見えない誰かに押さえつけられているのではと疑うほど、体の自由がきかなかった。起き上がるどころか、腕を持ち上げる事すらできない。ならばせめて目を開けてみようと考えたが、瞼は重く、なかなか思い通りにいかず苛立つばかりだった。
ようやく薄目を開けたアストは、鈍い動きで何とか首を傾ける。頭の重みを利用して横を向くと、天井の白さだけが際立つ視界が変わった。新たに目に入ったのは、寝台のそばに置かれた椅子に腰掛けるカイと、父の傍らに立つルスターの姿だ。
横を向いた勢いで、頭が枕から転げ落ちた。引きずられて体が動くと、衣擦れの音がする。
カイとルスターの声が止んだ。ふたりは会話を止め、同時にアストを見下ろした。
「目が覚めたか」
父の声はいつも優しいが、今日は特別優しい気がして、アストはくすぐったく感じながら応じた。
「おはよう、父さん。ルスターさんも、おはようございます」
まだぎこちない動きしかできなかったが、どうにか硬直状態から解放されたアストは、かすれ気味とは言え声を出す事に成功する。安堵したアストは存分に息を吐き、浮かれた勢いで無理矢理上体を起こすと、父と目を合わせた。
「おはよう、アスト」
「おはようございます」
少し間を開けてからアストに応えるふたりが、驚いているようにも見え、アストは窓の外を見た。おはようとの挨拶が不似合いになる時間まで寝過ごしてしまったかと疑ったからだ。
しかし太陽はさほど高くは昇っていなかった。いつもの朝より若干高い位置にあるので、多少寝坊した事は間違いないようだが、異常と言えるほどではなさそうだ。
「俺、変な事言った?」
「いや、別に」
「あ、そうだ。父さんたちはどうして俺の部屋に居るの?」
最初に抱いていた疑問を思い出したアストは、矢継ぎ早に問いを投げかけた。
「は?」
「急ぎの用があるわけじゃないよね? だったら起こすだろうし」
「お前、何も覚えてないのか?」
両手で挟み込むようにアストの頭を抑えたカイは、至近距離からアストの目を見る。空色の瞳は真剣で、冷静を装いながら、やや落ち着きのない動きでアストの意識を捉えた。
カイが見せるあからさまな動揺が、視線を交わす事でアストに移り、湧き上がる不安は、アストの記憶を刺激する。
疲労が塞き止めていたものが、次々と蘇ってきた。多くの聖騎士に守られて向かった北の洞穴や、初めて振るった光の剣、なぎ倒されていく魔物たち、たどたどしく紡いだ封印の呪文。体の中から溢れる熱い力と光によって、自分はやはりエイドルードの血族なのだと、本当に救世主なのだと、自覚せざるをえなかった――ところで、アストの記憶は途切れている。
「何で俺、部屋で寝てるんだ!?」
咄嗟に叫ぶと、カイは緊張に満ちた表情を解した。
「そうそう、それでいいんだ」
「良くないよ! 俺、儀式の途中から記憶がないんだけど! 封印は!? 魔物は!? 皆は!?」
「こら。少し落ち着け」
掴みかからん勢いで身を乗り出すアストの肩を、父が優しく叩いてくれた。興奮に乱れた呼吸がいくらか整い、アストは浮いた腰を寝台に戻す。
父は柔らかな微笑みを浮かべ、アストの頭を撫でた。
「お疲れ様、アスト。よくやってくれたな」
捻りのない、素直にアストの心に浸透する賞賛は、アストの努力が望んだ結果に繋がった事を教えてくれた。
「封印は成功だ。昨日今日と様子を見た限り、魔物も弱体化して、結界の外側にいくらか押し戻せたと考えて問題ないだろう」
「じゃあ」
「ユーシスの屋敷も安心だ」
アストは父の言葉を、頭の中で三回繰り返した。嬉しすぎて回転が鈍った頭では、そうしなければ理解できなかったからだ。
理解すると居ても立ってもいられなくなり、毛布や枕を投げ飛ばす勢いではしゃいだ。父は再度「落ち着け」と言ったが、今度は従う気になれなかった。
「そうだ! 俺、ユーシスの所に行ってくる!」
ひとしきり騒ぎ、肩で息をするようになった頃、寝台の上に立ち上がったアストは、胸を張って宣言する。
「今からか?」
「うん。この事、ユーシスに教えてやらなきゃ」
「お前が丸一日以上寝ていた間に、伝えてあるぞ」
「そうなの? でも、俺の口から言いたいし」
「気持ちは判るが……」
カイは腕を組み、難しい表情でいくらか考え込んでから続けた。
「とりあえず、今日一日くらいは休んだ方がいいんじゃないか。お前は儀式の直後に倒れたっきり、今までずっと眠っていたんだ。お前の身体にはそれだけの負担がかかっていたって事だろう」
「平気だよ。疲れなんてすっ飛んだから」
ついさっきまで体が動かなかった事などすっかり忘れ、アストは強く言い切った。
「だがな」
「あ、でも、さすがに腹減ったや。何か食べてから行こっと」
「おい、アスト」
寝台から飛び降りたアストは、もう父の声に耳を貸さなかった。体を心配してくれる事はありがたいと判っているが、欲求を阻止しようとする言葉たちが、今は煩わしかったのだ。
すぐにでも飛び出したい気分だったが、人目を浴びる立場にある事を熟知しているアストは、とりあえず着替える事にした。素早く身繕いを終えると、父親たちの存在を無視し、部屋を横切って扉に手をかける。
扉を開ける前に、両親の肖像画が目に飛び込んできた。
父親たちに見せるのは少し気恥ずかしいため、日課である母への挨拶は心の中に止めたが、母に良く似た人物の事を思い出すのは止められない。
アストは逸る気持ちを押さえ、部屋の中に振り返った。
「リタさんはどこに居るかな?」
頬杖をついて呆れ混じりの視線をアストに向けていたカイは、アストの質問に反応し、背筋を伸ばす。
「彼女は……」
「今朝、王都へ向けて発たれましたよ。最後にアスト様にご挨拶できず、残念だと言っておられました」
言い淀むカイの声に、ルスターの声が重なる。はじめから準備されていたかのように、淀みない答えだ。
「俺だって残念だよ! なんでそんなに急いで帰っちゃったのさ!」
アストは唇を尖らせ、意味が無いと判っていながら、父親やルスターに対して不満の意を表した。
リタと話したい事は沢山あったのだ。協力しあい、ひとつの大事を成し遂げた事。彼女が祝福を与えた、赤子の頃の自分の事。若かりし日の母や父の事。それから、王都での生活――彼女自身の事。問題が片付いたらゆっくり聞こうと決めていたのに。
「王都に急ぎのご用事を残しておられたのではありませんか?」
ルスターが立てたごく常識的な仮説を、アストは強く首を振って否定した。
「ないと思うな。どうしても自分がやらなきゃいけない事ないから来たって言ってたよ。大抵の事は大司教を代わりにすればいいとも言ってたし」
ザールに到着した日にリタが口にした言葉を告げると、ルスターは目を丸くした後、苦笑する。リタの発言に呆れたか、大司教に同情したようだ。
「なら、ザールに滞在したくない理由があったんじゃないか」
何も言えなくなったルスターに代わって父が立てた仮説は、他に考えられないとは言え、素直に納得できるものではなかった。
「そうなのかなあ」
「俺はここの落ち着いた町並みが好きだが、王都に住み慣れた彼女に合わなくてもしょうがないと思うぞ」
「王都に比べれば、ザールはただの田舎ですからね」
「いや、俺は、そんな事思ってませんよ」
慌てて取り繕うカイに、ルスターは優しく微笑みかけた。
「それも違う気がするなあ。前に呼ばれた時に来なかったのは、会いたくない人が居たからだって言ってたから。それって、ザール自体は嫌じゃないって事だよね?」
父親の困惑混じりの笑みと、ルスターの穏やかな笑みが、凍りついたように見えた。
何かまずい事を言ったかと不安になったアストは、ふたりの顔を見比べる。しかし表情は今まで通り、種類はそれぞれだが、自然な笑みを浮かべていた。
「じゃあ、何日か滞在するうちに飽きたんだろう」
「さほど楽しみのない田舎ですからね」
「だから、俺はそんな事思ってませんってば」
会話も調子も相変わらずだ。変化を感じ取ったのは気のせいだったのだと結論付けたアストは、扉にかけたままにしていた手に力を込めた。
「ま、帰っちゃったもんはしょうがないや。そのうちまた会えるんだよね?」
「もちろんだ」
肯く父の言葉は予言とも思えるほど力強く、どんな約束よりも信頼できるものだった。
ならば、楽しみに待とう。その時――リタと再び会える日が来るのを。できなかった沢山の話は、再会した時の楽しみに取っておこう。
アストは力強く扉を開け、部屋の外へと飛び出した。
Copyright(C) 2008 Nao Katsuragi.