二章 封印
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痛みと衝撃で気を失っていたのかもしれない。
カイが瞬時にそう考えたのは、記憶に残る最後の光景と、現在目に入る光景が、激しく食い違っていたためだ。
しかし、すぐに気が付いた。カイの意識はずっと保たれていたし、瞬き以外で目を閉じてもいなかったのだと。吹き飛ばされ転がった僅かな時間の中で、景色の方が大幅に変わったのだと。
先ほどまで居た平野には、まばらに草が生えていたし、やや離れたところに森があったので、緑色が鮮やかに映えていた。だが今カイの周囲にあるものは、岩混じりの土で、見えるものは茶色や灰色ばかりだった。
辺りも暗い。緩やかな坂の先にある穴からいくらか光が差し込んでいるが、カイの居る所まではほとんど届いていないので、心許なかった。
洞穴に落ちたか。
現状を自覚すると、外側からカイの心と体を侵食しようと渦巻く濃い闇の空気に敏感になり、肌が粟立った。自覚なく、あるいは望んでこんな所に居座っては、あっと言う間に闇に飲み込まれてしまいそうだ。かつてのユベールのように。
神の子が魔獣の眷属と化すなどと、笑い話にもなりはしないだろう。カイは気を張り、闇を跳ね除けようと集中しながら、上体を起こした。あちこちぶつけた場所を左手でさすりながら、取り落としかけた剣を再び握りしめ、外を覗く。薄い光の向こうに見える空の優しい青が、正気を保つ手伝いをしてくれるようだった。
「カイ様!」
「カイ様!」
外から穴の中を覗き込む影がいくつか見えた。何人もが、労りを込めてカイの名を呼ぶ。
「大丈夫だから、お前たちは入ってくるな。魔物の相手をして、アストたちを守ってやってくれ」
「ですが、カイ様はもしやおみ足を」
「やめろ!」
足を踏み入れようとする若い聖騎士を止めるため、カイは声を張り上げて叫ぶ。
「入り口付近とは言え外と中では、闇の濃さがまるで違う。お前たちでは簡単に闇に飲まれるだろう。救助に来た者に殺されてはたまらない。はやく戦いに戻れ」
早急に相手の足を止めるため、遠慮せずに冷たく本音をぶつけると、入り口付近に集まっていた影は、戸惑いを見せつつも、カイの言葉に従って解散した。ほぼ同時に穴の向こうが騒がしくなったので、魔物の襲撃が激しくなったのかもしれない。
カイは立ち上がる前に、自身の左足を見下ろした。右足と比べて倍近くまで膨れ上がったそれは、見慣れた自分の体ではないようだった。小さな傷だけでここまで酷くなる事は考えられないので、魔物の牙に毒があったと考えるのが妥当だろう。カイは、この程度の毒ですんだのが幸いだと思う事にした。
さて、どうやって外に出よう。カイは乱れた息を整えながら考えた。見た目同様に痛みが酷く、強い熱を持ちはじめている。このままではまともに動けそうにない。
先ほど聖騎士たちに告げた言葉に嘘はなかった。ゆえに、洞穴から出るために誰かの手を借りる事はできない。だが、這って外に出るには、緩いとは言え坂道である事と、毒が全身に回る可能性が、大きな障害だった。時間をかければなんとか外に出られるだろうが、封印が完成する前に間に合うだろうか?
カイ個人の生存本能や人としての尊厳を差し引いても、地上の未来を考えれば、洞穴の内側に閉じ込められるわけにはいかなかった。いや、そもそも、聖騎士たちはカイを見捨てる事を良しとしないだろう。カイが外に出なければ、封印の完成を阻止し、今回の戦いそのものを無駄にしてしまうかもしれない。よりによって自分自身が皆の足を引っ張るのかと思うと、頭が痛かった。
「仕方ない」
カイは諦め混じりに呟きながら、残った選択肢を迷わず選んだ。あまり好ましい選択ではなかったが、迷惑をかけるよりはずっとましだった。
カイがとった行動は、ただ静かに念じるだけだ。それだけで、腫れあがった足を優しい熱で包み込む力が生まれた。力は微かな光として目に見えるものだったが、瞼を伏せたカイには見えなかった。
光はすぐに消え失せる。同時にカイは目を開けたが、それは力の消失と連動したものではなかった。一時的とは言え視覚を閉ざす事で、研ぎ澄まされた聴力が、小さな音を捉えたからだ。
カイは自然な動作で立ち上がった。左足の腫れも、体に纏わりつくような熱も、魔物の牙が残した小さな傷も、カイの身を脅かす全てが失われていた。
光に背を向けたまま、音を立てないよう、後退する形で歩き出した。途中、左右の足にかかる重さが違う不安定感に耐えきれず、右足の脛あてを外して捨てたが、その作業中でも前方に注意を払うのを忘れなかった。
洞穴の奥に何かが居る。少しずつ、少しずつ、這うように進む重い音は、徐々にカイに、入り口に、近付いて来ている。
悪い予感がした。いや、もはや、予感ではなく確信だった。毒による微熱は下がっているはずだが、カイの額には汗が滲みはじめていた。
するように下げた左足が、小さな水音を立てる。恐る恐る足元を覗き見ると、小さな血だまりができていた。すぐ近くには、先程対峙した角を持つ魔物の死骸が。
大量の魔物が集う洞穴の入り口。洞穴の中に漂う、只人など簡単に飲み込めるほどの、濃い魔の気――ああ、考えてみれば、至極単純な事だった。どうしてもっと早く違和感を覚えなかったのか、答えに気付かなかったのか。カイは自身の愚かさに呆れていた。
魔獣の気を求める魔物たちが、なぜ入り口付近に集まっていたのか。中にはもっと質の良い餌があると言うのに、なぜ入ろうとしなかったのか。答えはひとつだ。入れなかったのだ。魔物たちですら身の危険を感じるほどのものが、洞穴の中に存在していたから。それはおそらく、魔獣の力を糧とする仲間でありながら、魔物たちに畏怖される、より上級の――
光が届かない闇の向こうで何かがうごめいた。直後、空気の流れが変わった事に気付いたカイは身構えた。剣を構えたわけではない。届く距離ではないからだ。ただ、いかなる攻撃が来ようとも自分の身を守ろうと決意し、集中した。
薄い光がカイの全身を包み込む。やや遅れて、魔物と思わしき生き物の掠れた声が洞穴内を響き渡り、天井を伝わり炎が進んできた。避けきれるものではなく、炎は道の途中に立つカイの上半身を丸ごと飲み込んだ。
「カイ様!?」
カイは倒れなかった。業火によって皮膚が焼かれる痛みには苛まれたが、ほぼ同時に、火傷を癒す力が働いたからだ。炎が消えた時、カイの服は焼け焦げ、鎧は熱を持ったままだったが、カイ本人はまるで何事もなかったかのように、道の真ん中に立っていた。
カイは入り口に振り返る。カイの名を呼んだ聖騎士の影がそこに見えた。戦いに戻れと言ったはずだが、心配で見守り続ける者も居たと言う事か。
「見ただろう。俺は大丈夫だ。俺だからこそ大丈夫なんだ。判ったら、そこを離れろ」
鋭く言い捨て、カイは炎を出した生き物に向き直った。
魔物はすでにかろうじて光が届くところまで歩みを進めていた。進行の邪魔をする障害物を焼き尽くしたつもりだったのだろう、道の途中にカイが居る事に気付くと、色濃い動揺を乗せた呻き声を吐き出した。
逆の立場を想像したカイは、鼻で笑う。動揺して当然だなと思いながら、魔物の気持ちに同調する自身が、やや滑稽に思えたからだ。
「焼き尽くして排除しようとしたくらいだ。俺を喰らうために出てきたわけじゃない、だろうな」
問いかけに近い言葉でカイが独白すると、魔物は毛を逆立て、鋭い爪を地面に食い込ませながら、低く唸った。
「封印に感付いて外に出てきたか、封印そのものを阻止するつもりか」
どちらにせよ、させるわけにはいかなかった。目の前の魔物が吐く炎は、普通の者ならばまず耐えられない。聖騎士たちの優勢は簡単にひっくり返り、逃げ遅れた全ての者が、その身を焼かれる事だろう。やがて魔獣の気によって更なる力を得た魔物は、ザールやその先まで辿り着き、更なる命を焼き尽くすかもしれない。
カイは背後を覗き見た。洞穴を包み込む光の力が増し、入り口を塞いでいた光の膜が、扉の形を取りはじめていた。
「悪いが時が来るまで、魔獣と共に引っ込んでいてくれ。時が来れば、アストが魔獣と一緒にお前も消してくれる」
カイは剣の柄を両手で強く握りしめた。柄も熱を持っていたが、全身に張り巡らせた力が、痛みを相殺してくれた。
すぐに治るとは言え、痛みを一度は味わう。常に力を保ちながら、闇に飲まれないよう気を張るのも忘れてはならない。時の流れの緩やかさに似合わず、カイの精神は急激に磨耗していくが、耐える以外の道はなかった。
魔物が大きく口を開く。飛びかかってくる様子がない事から、再度炎を吐こうとしていると察したカイは、魔物に素早く駆け寄り、開かれた口に強烈な一撃を食らわせた。
他の魔物と同様に硬い皮膚を持っていたが、口の周辺は若干柔らかいようで、魔物の口が少しずつ裂けていく。吐き出された炎の中に、魔物の奇声が混じった。
炎の中で剣を片手に持ち直したカイは、更なる一撃を加えながら、腰に差していた短剣を手探りで探した。鞘も剣帯も、皮で作られた部分は半分近く燃え落ちていたが、一部に金属を使っていた事が幸いし、手を伸ばした近くに短剣があった。
カイは短剣を手繰り寄せ、逆手に持つと、魔物の口の中から喉へと押し込んだ。
魔獣の体が仰け反る。叫び声は、空気だけでなく洞穴中を震わせた。
炎が消え、残った熱気の中で、カイは再度剣を両手に持ち直し、地面を強く掴む魔物の足に狙いを定めた。全ての力と、勢いと、自身の体重を込めた一撃は、魔物の足を貫き、地面に届く。カイは最後まで力を抜かず、鍔が魔物の足に接触するまで埋め込み、魔物を地面に縫いつけた。
あとは剣を手放し、一目散に駆けるだけだった。顔だけ振り返り、魔物の様子を確認しながら、カイは入り口に向けて疾走した。
魔物は暴れたが、その場から動く様子はない。カイはひと息吐き、洞穴から飛び出す。
「カイ様!」
「近寄るな。俺にも、洞穴にもだ」
周囲の魔物の殲滅はほぼ終わっていた。カイは安心して洞穴に向かい、視線を落とす事ができた。
封印の扉が完成に近付くにつれ、魔物を封じ込める瞬間が近付く事に安堵する一方、視界が霞み、魔物の現状の把握がし辛くなる事に、一抹の不安を覚える。
錯覚だと判っていたが、時の歩みが遅く感じはじめていた。魔物のその場で暴れ回る様子も、寝返りをうつかのようにゆっくりしたものに見えていた。吐き出された炎も、子供の歩みよりもゆったりと、カイの目の前に迫った。
熱風がカイの頬を撫でたが、炎は外まで届かなかった。ようやくカイは、勝ち誇った笑みを浮かべる。もう大丈夫だ。魔物はもうすぐ見えなくなる。
熱風よりも鋭く、魔物の咆哮が飛び出してきた。ほとんど完成した扉の向こうで、魔物の体が浮いたように見えた。
魔物は力一杯暴れる事で剣を弾き飛ばし、足の自由を取り戻すと、恨みがましく叫びながら、カイを目指して前進する。カイは慌てて腰に佩いた剣を探した。確かもう一本、短剣が残っているはずだ。短剣一本でどこまでできるか判らないが、やるしかない。
正面から見える場所で一番柔らかそうな場所を狙い、カイは短剣を投げつけた。狙いは寸分違わず、カイの短剣は魔物の眼球に突き刺さり、魔物は呻く事でいくらか歩みを止めた。
目の前で光が溢れた。強い光だが、目を覆う事も、目を伏せる事も、カイには必要なかった。
光が消失すると、カイの目の前には扉が現れていた。繊細な装飾が施された、見た目は鉄だがただの鉄とは比べものにならない強度を誇る金属製の扉が、洞穴の入り口にできあがったのだ。
終わった。封印は、完成したのだ。
カイは深く長い息を吐きながら、その場に膝を着いた。
Copyright(C) 2008 Nao Katsuragi.