INDEX BACK NEXT


二章 封印




 彼も、後ろめたさや罪悪感と言ったものを抱えて、今日まで生きてきたのかもしれない。
 カイは隠し切れない困惑を混ぜ込んだ神妙な顔付きで、「久しぶり」と言った。カイが座るべき席の正面に腰掛けている、リタに向けて、だ。
 冷静なふりをしつつも、気にかけながら見守っていたジオールは、リタが平然と「久しぶりね」と応えた時は、平然としたふりかもしれないと疑いながらも、無意識に安堵の息を吐いていた。本心にせよ、ふりにせよ、リタがカイと普通に接する事ができるならば充分だと、時の流れはリタに優しく作用したのだと、ジオールには思えたのだ。
 約十一年前の選定の儀の後、すぐにザールへと移動した他の者たちには知るべくもないだろうが、リタのそばに残ったジオールは知っている。覚えている。しばらくの間、リタが泣き暮らしていた事を。気丈ゆえに人前で涙こそ見せなかったが、泣き腫らした目を隠しきる術はなく、いっそ人前で堂々と泣いてほしいと願うほどに痛々しかったものだ。
 リタが涙するほどに傷付いたのは当然だろう。今ならばカイなりに色々考えがあったのかもしれないと思えるが、当時のカイがシェリアを選択した事実は、リタへの完全な裏切りと言って差し支えなかった。第三者のジオールですら、立場を忘れて問い正したくなるほどだったのだから、当の本人であるリタが、カイを罵り、恨み、憎んだとして、誰が責められるというのだろう。
 だからこそリタはカイとの再会を拒み、赤子だったアストが大神殿に来た時でさえ、カイが大神殿に戻る事はなかった。結果、ふたりが再会するまでに、長い時間がかかってしまったのだ。
「これで全員揃ったわね。はじめてくれる?」
 まだ内にわだかまるものがあるのか、単純に会話が見つからなかったのか、あるいは使命感に急かされたのか、僅かな雑談の時間すら取らず、リタは進行を促す。
 空気を察したのか、ルスターは素直にリタの指示に従い、肯いてから立ち上がった。
「まずは、私が今朝までに受けた報告です。一昨日の早朝、魔物の進入が不可能とされていた地域に、魔物の姿が確認されました。その日の晩には複数箇所での目撃情報が入りましたので、昨日の朝より調査範囲をザール周辺全域に広げ、昨日の晩には、拡大された魔物の進入可能区域を、ある程度把握するに至りました。幸いにも、拡大した区域に含まれるは、ごく一部の農地や住居のみで、現時点での人的被害は重軽傷者数名、死者はおりません」
「追加でひとつ」
 ハリスはルスターの言葉が終わると同時に、立ち上がった。
「つい先ほど、洞穴付近へ調査に向かわせた聖騎士たちが帰還いたしましたので、新たな情報が入っております」
 ハリスと入れ替わりで、ルスターは腰を下ろす。組み合わせた手に静かに力を込め、ハリスに目を向けた。
 ルスターは「洞穴」の言葉にあからさまに反応していた。仕方ない事だ。地中深くへと続き、封印された魔獣へ繋がる唯一の道は、彼と彼の一族の運命を大きく変えたのだ。かつて、知ってか知らずか洞穴に足を踏み入れた、ひとりの男によって。
「一昨日の早朝、異常な魔物の出現を最初に察知した場所が、洞穴付近です。以前はエイドルードの結界により、魔物が活動できない地域となっておりましたが、此度の進入可能区域の拡大によって、可能になった模様です。どうやら他の場所よりも出現した魔物の数が多いようなのですが、こちらに関しましては、他の場所から魔物たちが集まってきたのか、魔物が洞穴から出てきたのか、まだ判断できない状態にあります」
 リタが大きな瞳をつり上げてハリスに向けた。
「ちょっと待ちなさいよ。洞穴の入り口の扉は、例の事件の後に調査してちゃんと閉じ直したって、十年くらい前に報告もらった記憶があるわよ」
「確かに閉じました。そして、少なくとも一昨日の夕刻確認した際には、間違いなく閉じられておりました」
「じゃあどうして魔物が出てくる可能性があるの。今は開いてるってわけ? 洞穴周辺は当然一般人は立ち入り禁止でしょうし、そうでなくても、あれがどんな恐ろしいものか知ってるはずじゃないの。誰があの扉を開けようなんて馬鹿な事を考えるの」
「それこそが、本日新たに入手し、皆様にお伝えすべきと判断した情報です」
 ハリスは咳払いし、声を整えてから続けた。
「帰還した者の証言によりますと、扉は破壊されていたとの事です。力が加わったのは外側かららしく、おそらくは周辺に集まった魔物たちの手によるものでしょう」
 空気が、いや時間が、凍りついた。誰もが一瞬、思考も動きも止め、瞬きする事すら忘れていた。
「勘弁してよ……」
 いくらかの間を置いてからリタが溢した言葉ほど、その場に居る者たちの心を簡潔に表現できるものはなかっただろう。
 洞穴には、地底に眠る魔獣が放つ強い魔の気が満ちている。それは魔物に更なる力を与えるだけでなく、ただの人や動物たちを魔物に変えるほどの力があるのだ。
 過去に、ルスターの義弟であるユベールが魔物へと変質したのも、洞穴に足を踏み入れたから――実際の証言を得たわけでも、目撃者がいたわけでもないが、調査によって発見された、開け放たれたままの扉と、周辺に残されたユベールのものらしき足跡が、多くを物語っていた――なのだ。
 当然、放っておいても良い事はひとつとしてない。早急に閉じなければならないが、事は簡単ではなかった。ユベールの時は扉が開かれていただけであったので、行って閉じ直せばそれで終わったが、今回は破壊されているのである。しかも、周囲で魔物の活動が可能になっていると言う事は、当然妨害があるだろう。濃い魔の気によって力を増した、多くの魔物たちの手によって。魔物たちにしてみれば、閉じられて良い事などひとつもないのだから。
「そもそもは、魔物の活動範囲が広まったのが問題なわけよね。何で突然こんな事になったのか、原因は判っているの?」
「現在のところ、はっきりとした原因はまだ判っておりませんが」
 ルスターは僅かに逡巡してから続けた。
「我々……この場合、ザールの民との意味ではなく、この大陸に生きる全ての者の意味ですが……我々に残された時間を思えば、ひとつしか考えられないかと」
 ジオールは同意して肯いた。
 エイドルードは消滅の瞬間、封印を含めた全ての力が保てる期間はあと二十年だと、言葉を残した。その日からすでに十五年程が経過している。ルスターが言わんとしている「残された時間」は、あと五年程度、と言う事だ。
 リタは静かに目を伏せた。神妙な横顔は、あらゆる感情を内に秘めているように見える。
「エイドルードの封印が、少しずつ弱まっているって事か。そうよね。魔物が暴れる範囲が広がっているのは、北のザールに限ったわけじゃない。東にも西にも南にも、似たような事が起こってる」
 おそらくはその場に居る誰もが否定したいと望む予想を、リタははっきりと言い切った。厳しい現実を目の前につきつけられる事は息苦しいが、結局のところ逃れられない現実なのだから、真正面から向き合う彼女の言動はむしろ正しいと賞賛するべきだろう。
「封印が弱まると言う点ではどこも同じだろうが、魔物が強まると言う点では、ザールが圧倒的に不利だろうな」
 カイが突然口を開いたのは、何かしらの打開案を考えようと、場の空気が動きはじめた時だった。
「やっぱりそうなの? いざ交戦する時に厄介ってだけでなく?」
「ああ。エイドルードの結界が、大陸の外側……と言うか、大神殿と砂漠の神殿と森の神殿が描く三角形から外れれば外れるほど力が弱まり、やがて失われるってのは判るよな。で、魔物が侵入できる範囲と言うのは、その魔物の力が、エイドルードの結界の力より上回っている範囲、と考えれば判りやすい。このままエイドルードの結界が変わらなかったとしても、洞穴の解放によって魔物の力が増せば、より内側まで入ってこられるようになってしまう。入ってきた時に受ける被害も、当然増える――逆に言えば、今解放されてしまっている洞穴を封じる事で、魔物の力をいくらか抑えれば、現状よりは魔物を奥地へ押しやれると思う」
 カイは一度口を閉じ、ゆっくりと深呼吸をしてから、短く言い切った。
「洞穴を封じよう」
 全員の表情が、それまで以上に引き締まり、カイに集中していた視線は、より強くなる。
 誰もが一度は願った事を、事の難しさを一番理解しているだろうカイが言ってのけたのは、ある種の希望にも思えた。
「エイドルードと同様の封印を求められても困るが、洞穴の入り口を元通りにする程度の封印ならば、不可能じゃない。リタ、君の力を借りる事になるが」
 リタは交戦的にも見える笑みを浮かべながら応えた。
「やれるものならやってやるわよ。でも、どうやって?」
「封印を保つのと同じで、力ある者が三人必要だ。あとは現地に行って、ちょっとした儀式をやればいい」
「アストと、私と……貴方で?」
「いや。アストと君はそうだが、もうひとりは俺じゃない。シェリアだ」
 生きていればここに居たに違いない、少女の姿のまま皆の記憶にとどまっている人物の名によって、場の空気が大きく変化した。
 リタは眉を顰める。大きな怒りと悲しみを内に秘めている様子を感じ取り、彼女に代わってジオールが問いを投げかけた。
「シェリア様はお亡くなりになられたと聞いておりますが」
「ああ。シェリアは確かに死んだ。だが、地上から失われたわけではない。大神殿にも話は行っているだろう? 彼女は人――神の娘としての生を終えたあと、新たな役を担い生まれ変わったと」
「光の剣を収める、鞘として」
 押し殺したリタの声に、カイは肯きながら答えた。
「ああ」
「アストと、私と、その鞘があれば、再び洞穴を封じられるのね?」
「そうだ」
 予想や疑問を挟む事なく言い切られたカイの言葉は力強かった。ジオールが抱いていた不安を、打ち消すほどに。
 代わりに、強い疑問が沸きあがった。だがそれは、使命感によって産まれたと言うよりは、単純な好奇心によって産まれたものでしかなかった。わざわざ表に出す事もないと、秘めたままにしようと心に決めると、ジオールは何事もなかったように、カイの言葉に耳を傾けた。
「儀式を行う間、無防備になるアストやリタを魔物から守る護衛が必要だ。洞穴付近に魔物が多いなら、護衛はひとりやふたりじゃすまないだろう。ハリス、その辺の手配を……」
「ねえ、カイ」
 カイを呼ぶリタの声は、ジオールが聞いた事もないような、静謐なものだった。
 視点を上に取るためか、リタは立ち上がる。カイを見下ろす空色の瞳は、おとなしいものであったが、問いただす意志を秘めていた。
「貴方はどこまで知っているの?」
 リタが口にした問いは、ジオールが先ほど心に秘めたものと、まったく同じだった。


INDEX BACK NEXT 

Copyright(C) 2008 Nao Katsuragi.