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一章 神の子と魔物の子




 父はアストの背後に回り、腰を屈める事でアストと視線の高さを同じくすると、アストに剣を握らせた。
「とりあえずは剣の持ち方からだな」
 よく判らないまま柄を握るアストの手に、父の手が重なる。口で説明するよりも体に覚えさせた方が早いと判断したようで、「親指はこうで……」などと簡単に説明をしながら、アストの手を動かし、正しい位置に移動させようとしていた。
 だが、父の動きが突然止まった。数秒遅れててその事実に気付いたアストは、慌てて顔を上げ父を見た。「やる気がないならやめるぞ」と放り投げられる事を恐れたからだった。
 一年間待ち続けてようやく訪れた喜ばしい日だと言うのに、なぜ全く関係ない事を考えていたのか!
「ごめんなさい! ちょっと、ぼーっとした! 真面目にやるから!」
 慌てて言うと、父は小さく声を出して笑う。笑いがおさまってから、「そんなに必死にならなくても、いきなり見捨てたりはしないぞ」と続けてくれたので、アストは胸を撫で下ろした。
「だが、刃を潰してあるとは言え、剣を使うんだから、集中した方がいい。思わぬ怪我に繋がるかもしれないからな」
「うん。判ってるよ」
「……その調子じゃ、ちゃんと集中できそうにないな」
 父が呆れ混じりのため息を吐きながら、少し厳しめの口調で言うので、アストは縋るような視線を父に向けた。
「とりあえず、何を考えていたのか言ってみろ。あれだけ執着していた剣を習う事よりも気になるなんて、相当な事だろう。ずっと捉われるような悩みがあるなら、早く解消した方が――っと、もしかして、俺には言い辛い悩みか? そうだよな。そう言うのがあってもおかしくない年頃だよな。そうすると、誰に頼ればいいんだろうな……?」
 アストが上手く説明できないでいる間に、父は勝手に想像を膨らませていた。このまま放っておけば、勝手に悩みを捏造されかねないと怯えたアストは、「そんなんじゃないよ!」と強く叫んで父のひとりごとを止めた。
 アストが考えていた事の大半は、昨晩レイシェルの屋敷で会った少年だった。結局ナタリヤに話を聞けなかったので、少年の存在の全てが、アストにとって謎のままなのだ。
 彼の事を父に聞いたところでどうしようもない。とにかく今は忘れて集中しようと決め、何度か頭を振ったアストは、ふいに思いつく。あの少年が本当にレイシェルの息子なのだとすれば、父が彼の事を知っていてもおかしくないのではないか、と。レイシェルはアストの乳母なのだから、当然父はレイシェルと知り合いであり、彼女の子供の存在を知っていてもおかしくない。むしろ、アストが今まで知らなかった事のほうがおかしいくらいだ。
「父さん」
 アストは剣を地面に置き、振り返って父と向かいあった。
「なんだ?」
「昨日、レイシェルさんの墓に行った時」
「ん?」
「そばにあるだろ。生きてた頃のレイシェルさんが住んでた屋敷。あそこに、俺より少し小さいくらいの子供が居たのを見たんだ。ナタリヤたちと同じ、蜂蜜色の髪をしていて……」
 父の笑みに僅かな困惑が混じるのを、アストは見逃さなかった。
「ユーシスに会ったのか」
 聞き覚えのない名前の響きは儚く柔らかく、あの少年によく似合っているとアストは思った。
「あいつは、ユーシスって言うのか?」
「ああ。お前は自分より少し小さいと言ったが、本当はお前よりお兄さんだ。と言っても、数ヶ月程度だけどな。産まれた時から体が弱くて、よく寝込んでいるようだから、体はお前より小さいのかもしれないな」
「そうなのか……」
「お前を育ててくれたレイシェルさんの、実の息子さんだ」
「やっぱり」との言葉は、わざわざ口に出さなかった。
 アストは一度目を伏せ、視界の中から父を消し去る。すると、窓際に立つ少年の、不安げな、怯える様子がはっきりと蘇った。
 母親を殺したと告白した子供。細い体で、自分は魔物ではないと強く否定しながら、罪の意識に震えているようにしか見えなかった。
「あいつ、なんであんなところに住んでるんだ? レイシェルさんが生きていた頃ならともかく、今も、なんて」
「それは」
「あいつは『魔物の子』って言われてるって言ってたけど、関係があるの?」
 アストの問い詰めるような視線に、父は強い眼差しで応じてくれた。
「関係が無いとは言えないな」
 苦悩を色濃く表した眉間から、アストは察した。父は、「どうしようもなかったんだ」などと言う、大人がよく使いそうな言い訳を、必死になって飲み込んでいるのだと。
「ザールの民がユーシスの事をまるで魔物のように思っているのは本当だ。以前、ザールの城が魔物たちに襲われるって事件があってな。お前が生まれるより少し前の事だ。本来、エイドルードの結界は、ザールの町や城まで守っていて、中に魔物たちが入ってくるなんてありえないんだが、そのありえない事をやってのけたのが、ユーシスの父親だった。操られていたのか、本人の意思かはともかく、魔獣に心を支配されていたユーシスの父親は、自分の体を半分だけ魔物にして、魔獣の力を結界の中に呼び込み、一時的に結界の力を弱めた。本人が亡くなった今、想像するしかないんだが、とりあえず学者や神官たちはそう言ってる」
 ザールを出る事を許されていないアストは、魔物の姿を見た事がない。故に、魔物に襲われる恐怖を肌で理解できていない。しかし、幼く拙い想像力でも、恐ろしい事件であったのだろうと予想するのは容易かった。
 多くの人が傷付き、多くの命が失われたのだろう。二度と同じ事が起こってほしくないと、願っているのだろう。
「その時の事を、ザールの大人たちはよく覚えている。だから、ザールの大人たちは、ユーシスの事が怖いんだ。ユーシスが、ユーシスの父親のような力を持っているんじゃないか、父親と同じ事をするんじゃないかって。そうやって怯える人たちを、レイシェルさんも、ルスターさんも、俺も、責める事はできなかった。でも、そうやって怯える人たちが、怯えたあまりにユーシスを傷付ける事は、絶対に許せなかった。だから、人の目から隠れるように、あそこで暮らすようになったんだ。辛い決断だったと思う」
 アストは無言で頷いた。ユーシスを目の当たりにし、僅かながらも痛みを受け取ったアストとしては、感情的に一切納得ができない事なのだが、理解できているふりをした。
「だがな、レイシェルさんも、ルスターさんも、俺も、違うと思っている。信じている。ユーシスは魔物なんかじゃないってな。アスト、お前はどうだ? あの子が魔物の子供だから、怖いと思ったか?」
 アストは迷う事なく、力強く首を振った。
 胸を張って、はっきりと言い切れる。彼は魔物ではない。罪の意識に怯える、ただの人間、ただの子供なのだと。
「あいつは違うって言った。俺もそう思う。だから怖くはなかったんだ」
「そうか」
「でも、そこじゃない何かが、怖かった。だってあいつ、すごく怯えてたんだ。自分は魔物で、魔物の力で母さんを殺したって言われてるって言ってて、それは力一杯違うって言ってたけど、あいつが違うって言ったのは、自分が魔物だってとこだけに見えて」
 どうしてかと問われても、判らないとしか返せない。だが、アストは感覚的に理解したのだ。ユーシスは、自分の正体でも、ザールの民の反応でもなく、母を殺した事実に怯えているのだと。
「――ああ」
 ああ、だからか。
 だからこんなにも、あの少年、ユーシスの事が気になったのか。
「アスト」
 父の手が、アストの頭に触れたかと思うと、乱暴に頭をかき混ぜた。少しだけくすぐったく、少しだけ痛いその行為に、アストが「何するんだよ」と声を上げる事で小さな抵抗をすると、動きを止めた父の手は、ゆっくりとアストの肩へ移動した。
 肩から伝わる温もりは、ごまかしようのない純粋な優しさだけが存在していた。
「ユーシスはレイシェルさんを殺してなんかいない」
「本当に?」
「当たり前だ。レイシェルさんは、ユーシスの存在に関係なく、病にかかって亡くなったんだ」
「そっか。それなら、いいんだ」
「お前もだぞ」
 限りない愛情の溢れる声に、アストは胸の強い痛みと、痛みが癒される心地良さを同時に味わう。
 父の空色の瞳が優しく細められ、痛みを受け止めてくれるので、アストは泣き喚きたい気分になったが、父の前でそうする事は照れ臭かった。父はそんなアストの想いに気付いたのか、そっとアストを抱きしめてくれた。
「ごめんな」
「何で父さんが謝るのさ」
「お前が余計な事を気にしているのは、俺があまりシェリアの――母さんの話をしなかったせいだと思ったんだ。そうだよな。お前は自分が生まれた時期と母さんが他界した時期を知っているんだから、ちゃんと説明されなけりゃ、そう言うふうに考えるのが自然だよな。でも、違うんだ。母さんが死んだのは、お前が生まれてきたせいじゃない」
 アストは父の胸に顔を埋めながら、泣きたいとの欲求に耐えるために、目の前にある父の服を掴む。
 そうなのだ。アストがこんなにもユーシスの事が気になったのは、彼の言葉がアストの奥底に眠っていた恐怖を呼び起こしたからなのだ。
 自分は母が居なくてもさほど寂しくない。だが、父が自分に対して妻の話をできないほどに寂しい想いを抱えているのが、自分のせいだと言うならば、とても悲しくて、とても辛い事だと思ったのだ。
「そんな事言われても、信じられないよ」
「なら、お前が信じてくれるまで何度でも言うさ。お前が頭で理解して、心で受け止められるようになるまで、何度でも、何度でもな。母さんが死んだのは、お前のせいじゃない」
「じゃあどうして母さんは死んだんだ」とアストは続けて訊きたかったが、泣くのを堪えて上ずった声になってしまう予感がして、口を噤んだ。
「お前も、ユーシスも、誰も悪くないんだ――」
 父の声は優しく、いつまでもアストの中に響き渡る。繰り返されるたびに、父の言葉は強い力を持って、アストの中に浸透していった。
 ひとりで抱えていた不安を、誰かが否定してくれる事は、なんと心地よいのだろう。アストは父の胸の中で、誰の目にも映らない笑みを作った。


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Copyright(C) 2008 Nao Katsuragi.