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一章 神の子と魔物の子




 九歳の誕生日の朝、「お前が十歳になったら、剣を教えてやる」と父が約束してくれてから、アストは十歳になるのが楽しみで仕方がなかった。早く十歳になりたいと、次の誕生日を待ちわびて、緩慢な時間の流れにもどかしい思いをしながら、次の誕生日が来る日を指折り数え続けてきた。
 だが今日、寝台に入ってもなかなか寝付けないのは、眠りに落ちてもすぐに目が覚めてしまうのは、明日が楽しみすぎるせいだけではない気がした。目を閉じると浮かび上がる、寂しそうな目をした蜂蜜色の髪の少年が、アストに穏やかな眠りを与えないのだ。
 母――おそらくはレイシェルの事だろう――を殺したと、自分は魔物の子なのだと、嘆く少年。全身で救いを求めているように見えた彼は、最後に力一杯アストを拒絶した。
 窓を叩き、自分はまだここに居るのだと主張するべきだったのだろうか。それとも、無理矢理窓をこじ開けるなり、屋敷の中に踏み込むなりすべきだったのだろうか。雨の中、閉じられた窓の前に立ち尽くしたアストは、自身が取るべき行動をいくつか考えたか、結局何もせず、おとなしく城に戻った。
 考えたところで、少年の事が判るわけもない。無駄なのだから、考えるのはやめよう。アストは自分に言い聞かせ、布団を頭からかぶって視界を真っ暗にした。明日は早起きして、朝から父に特訓して貰うつもりなのだ。たっぷりと睡眠を取り、体調を万全にしておかなければならない。
 浅い眠りを呼び込み、また目覚めるを幾度か繰り返すうちに、アストはようやく深い眠りへと落ちていった。
 最後に目覚めた時には、太陽の明かりが窓から射し込んでいた。寝過ごしたかもしれない不安に、一瞬で目が覚める。
 慌てて飛び起きたアストは、まず着替えた。その頃には、誰かが起こしに来た気配はないので、さほど遅い時間ではないだろうと判断がついたのだが、朝が来たと思うと居ても立ってもいられなかったのだ。
 脱いだ服を寝台の上に投げ散らかしたまま、慌てて部屋を飛び出そうとしたアストの視界に、壁にかけた肖像画が飛び込んでくる。
 急いでいたとは言え、大切な事を忘れるところだった。アストは足を止め、逸る心を抑え、肖像画に向き直ると軽く礼をした。
「おはよう、母さん」
 アストには母がない。
 ひとつの命として産まれてきた以上、母親と言う存在はもちろんあるのだが、十年も前に失われている。故にアストが知る母は、肖像画の中、朗らかに笑う父の隣で無表情を保つ少女でしかない。
 このザール城において、アストの母を知る者は限られているため、アストが母の話を聞いた事はほとんどなかった。以前「まるで人形のようだった」と語った人物が居たが、彼はアストがそばに居る事に気付いた途端、「人形のように完璧な美しさを誇っておられました」と取り繕うように言って、そそくさと逃げ出してしまい、詳しい話は聞けなかった。
 だが、それだけで何となく理解できた。おそらく母は、良くも悪くも肖像画の印象そのままの人物だったのだろうと。冷たく近寄りがたい、けれど誰もの目を惹く神秘的な美しさを持った、まさに神の娘と言うべき高貴な少女だったに違いない。
 幸か不幸か、髪と瞳の色以外母に似なかったアストは、薄い笑みを浮かべながら母を見上げた。
「母さん、俺、今日で十歳になったんだ」
 簡素な報告を終えると、アストはゆっくりと深呼吸をする。
「じゃあ、行ってきま――」
 日課である母への挨拶が終わるか終わらないかのうちに、扉が二回叩かれた。動揺しながら「はい?」と応えると、扉がゆっくりと開かれ、優しい蜂蜜色が覗いて見えた。
 その色を持つ人物を、アストは四人知っている。だが、ひとりはすでにこの世になく、ひとりはこの城の主で、ひとりは現在ザールにおらず、ひとりはアストがザール城で暮らしている事を知らないはずだった。四人とも、朝からアストの部屋を訪ねてくるとは考えにくい。
 では誰だと疑問を抱く前に、扉は大きく開かれた。
 姿を現したのは、ザールに居ないはずの人物だった。多くを学ぶためにと、二年半前に突然「王都セルナーンに行く」と言い出した、ザールの次期領主。
「ナタリヤ!」
「おはようございます、アスト様」
 アストが名を呼ぶと、ナタリヤは大きな瞳を輝かせた。
「どうしたの? 王都に勉強に行ってたんじゃなかったっけ?」
「行っておりました」
「なのにどうしてザールに居るのさ」
「ザールに戻る事になりましたので。昨日の夜遅く、到着いたしました」
「なんで? 丸々三年かかるって言ってなかったっけ? あと半年くらい残ってるよね? 追い出されたの?」
 ナタリヤは笑みを浮かべた唇を歪ませた形で、表情を凍り付かせる。アストから顔を反らし、隠すようにため息を吐いていたが、隠しきれていなかった。
「ご期待に沿えず申し訳ありませんが、どうやら、私は自身の事を過小評価していたようなのです。予想以上に勉学が順調に進みまして、早く終える事が可能となりました。ならばアスト様のご生誕のお祝いに駆けつけようと、急いで帰ってきたのですが……」
 口調こそ丁寧だが、言葉の中には明らかに嫌味が込められており、アストは小さく笑みを浮かべる。
 本来ならば気分を害するべき所かもしれないが、アストにとっては嬉しい事だった。アストに嫌味を言ってくれる相手など、そうそう居ないからだ。
「何かおかしな事でも?」
「なんでもないよ」
 正直な想いを伝えるのは気恥ずかしく、顔を背けるようにして、アストは寝台に腰を下ろす。
 手で口元を覆う事で笑みを隠しながら、ナタリヤの髪の色に昨日の少年を思い出したアストは、彼が本当にレイシェルの子供なのだとすれば、ナタリヤの従兄弟にあたるのではないかと思い至った。
 ナタリヤなら知っているかもしれない。あんな場所で、まるで隠れるように生きる少年の事を。
 聞けば話してくれるだろうかと口を開きかけて、戸惑った。ナタリヤならば、同じくザールで暮らす従兄弟の事を、わざわざ訊ねなくとも包み隠さず話してくれるのではないかと考えたからだった。
 ナタリヤはあの少年の事を知らないのだろうか。それとも、語る事をためらうほどの確執があるのだろうか。
「カイ様とシェリア様の絵はこちらに飾ってあったのですね」
 アストが悩んでいると、ナタリヤが不意に呟いた。
 優しい緑の瞳が見上げる先には、若き日の――などと言うと、「俺はまだ若い」と父に怒られそうだが――両親の肖像画があった。
「うん、そうなんだ。母さんの絵はこれ一枚しかないからって、父さんが俺にくれた。俺にも母さんが居たんだって事を、忘れないようにってさ」
「そうですか」
 ナタリヤは相槌を打ちながら、肖像画を見上げる目を細める。
「シェリア様は本当にお奇麗な方ですね。カイ様のお心を掴んで離さないのも、判る気がします」
 ナタリヤの言葉に反応し、アストは視線を下げる。肖像画を見上げるナタリヤの横顔は、どこか辛そうにも見えた。
「父さんは、母さんの事忘れてないと思う?」
「もちろんです」
「そっか。俺、父さんの口から母さんの話を聞いた事ってほとんどないから、父さんはもう、母さんの事をあんまり思い出さないのかと思ってた。そうじゃなけりゃ」
 アストはてのひらの下にある布団を撫で、柔らかな感触を楽しみながら続けた。
「ナタリヤ、俺さ、正直に言うと、母さんが居なかったのははじめからだから、皆が思ってるくらい、もの凄く悲しいわけじゃないと思う。それよりも、どんな人だったんだろうって気になる方が強いかな……ナタリヤは、俺の母さんの事何か覚えてる?」
 ナタリヤの視線がゆっくりと下りてくる。絵の中のふたりから、アストの元へ。だが不思議と、眼差しにこもる感情に変化があるようには見えなかった。
「残念ながら、私はシェリア様にお会いした事がありませんので、アスト様にお話できる事は何もございません」
「そっか。じゃあ、しょうがないよね」
 勢い良く立ち上がり、大きな足音を立てる事で話の終焉を伝えると、アストは小走りで扉に向かう。一刻も早く父に会わなければならない理由を思い出したからだった。
「そうだ。おかえり、ナタリヤ」
 思いついた言葉を口にするため、アストは扉に手をかけながらナタリヤに振り返る。
「先に話しこんじゃって、言い忘れてた。ごめん」
 ナタリヤは一瞬目を丸くしたが、すぐに可愛らしく微笑んで応じた。
「ありがとうございます。では私からも、ひとつよろしいでしょうか。アスト様に朝を告げる役目を無理矢理預かり、お部屋を訪ねた目的が、まだ達成できてないのです」
「何?」
「本日のアスト様に一刻も早くお会いしたいと願う理由は、ひとつだけです」
 ナタリヤはそっぽを向き、咳払いをして声の調子を整えてから、再びアストに向き直った。
「お誕生日おめでとうございます、アスト様」


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Copyright(C) 2008 Nao Katsuragi.