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五章 砂漠の神殿へ




 静かな空間に、自身の足音と油が燃える微かな音だけが響き渡る。
 分岐のない真っ直ぐな通路を進んでいると、前も後もない永遠の道を進んでいる錯覚に陥る事もあった。一年前にハリスたちと共に迷宮を進んだ時も、何かしら息苦しさや重苦しさを感じたものだが、今の重圧はそれ以上だった。
 理由は判っている。ひとりだからだ。ひとりきりで閉鎖された場所に居ると、忘れようとしている記憶が蘇るのだ。
 夕食の支度を終え、食卓に腰掛けて父の帰りを待っていた幼少時代。その父がもう二度と帰ってこなくなった少年時代。朝から畑仕事に精を出し、くたくたの体で家に帰りついた自分が、誰に語りかけるでもなく「ただいま」と呟く苦さ。思い出すだけで胸を貫く痛みだ。
 この道を抜ければその痛みを癒してくれる少女に会えるのだと思うと、自然に歩みは早くなった。
 いや、もう少女とは言えまい。彼女を失った日から、五年近い時が流れているのだ。エアが変わったように、彼女も変わっているに違いない。
 どんな顔をして、どんな眼差しで、どんな言葉で、迎えてくれるのだろう。強い不安と期待が入り混じり、一歩進む度に鼓動が早まった。
「次が、右から、二番目」
 己に確認するために声に出し、正しい道を読み上げる。正しい道を視界に捕らえ、地図と確認し、歩き出した。
 地図を見る際に目の端に映った剣の柄が、目に焼き付いて離れなかった。明かりが照らす先の闇を見つめながら、剣を振るう自身を想像してしまう。
 森の神殿の少女が言っていた事が正しく、両神殿が共通しているならば、リリアナはもう気付いているはずだ。砂漠の神殿に向かう何者かが迷宮を進んでいる事に。
 補給部隊は二ヶ月も前に砂漠の神殿を出ているはずであるし、事前に連絡の取りようもない。どう考えてもエアは不審人物であるから、すでに警戒態勢に入っているだろう。
 剣を振るう事にならなければ良い。そう、心から願う。
 善人ぶるつもりはない。リリアナを神殿から引きずり出すためならば、リリアナに仕える二十一人の女たちの命を、全て奪う事も厭わないだけの覚悟を決めている。それでも、叶うならばできるかぎり危害を加えずに事を済ませたいと思うのだ。
 淡い期待は、迷いの表れかもしれなかった。そんな時にエアの脳裏にちらついたのは、今頃森の神殿に近付いているだろう、アシュレイだった。
 悔しいが、あの男には迷いは無かった。それはエアがリリアナに向ける愛情が、アシュレイがライラに向ける愛情に劣っている、と言う事ではない。これが神の意思なのだと言う、傍から見れば信じられないような言い訳が、あの男の中で強く生きているからだ。
 アシュレイのように受け止めれば自分も楽になれるだろう、と考える事もある。
 だがエアは、エイドルードに従うくらいならば、辛い方がましに思えた。この身の全てが血に染まり、心が裂け泣き叫ぶ事になっても、神の使徒でなくただの人としてリリアナと対面したいのだ。
「次は――」
 ひとりの寂しさを忘れたいのか、無意識にひとりごとが増える。道を進み、三叉路を目前にしたエアは、何度目か判らない地図の確認をする。
 正しい道は真ん中。
 それを確認すると同時に、エアは遠くから響く音を聞いた。
 エアは右の道に歩み寄った。慎重に触れ、床や壁に罠が無いのを確かめ、ランタンを掲げて天井にも不審な点が無い事を確かめる。
 その間にも、響く音は徐々に近付いて来ていた。エアは右の道に身を隠すと、明かりを遮断し、暗闇で息を潜める。
 音が人間の足音だと判別がつくまで、そう時間は必要なかった。
 エアの足音よりも軽い。エアよりも小柄な人物、おそらくは女性が、三、四人程度と言ったところだろう。
 剣に手をかけた体勢で、エアは待った。彼女たちがエアに気付かずに通りすぎてくれる事を祈りながら。
「侵入者とは、本当でしょうか? 誰の案内もなく広大な砂漠の中から門を見つけだせる者が居るとは考えられません。それに、合言葉の件もあります。偶然言い当てる可能性など、万にひとつも無いと思います」
 不安に満ちた少女の声が、暗闇の奥から届く。
「私もよ。でも、例年ならば誰かが来るような時期では無いの」
「急使か何かではありませんか? 司教様が代替わりなさったとか……」
「内容はともかく、そうである事を私も願っているわ。ともかく、万が一にも悪漢で、リリアナ様に危害を加えられたら一大事。神殿に辿り着く前に、相手が何者かを見極めましょう」
「はい」
 暗闇の奥から光が近付いてくる。彼女たちが通路から出ては光が届いてしまうかも知れず、エアは音を立てないように後ずさった。
 やがて光と共に、四人の少女たちが姿を現した。ひとりが地図を、ひとりが明かりを持ち、それぞれが剣や槍と言った武器を手にしている。
 四人の内三人は、きょろきょろと視線をめぐらせてはいるものの、先――エアからすれば後だが――しか見ていなかった。だが、明かりを持った少女のみが、何か気にかかるのかじっくりと辺りを見回している。
 少女の足音が近付き、掲げられた明かりが、エアの潜む道に入り込んだ。エアに光が届くまであと少しだった。
 緊張にエアの鼓動が早まる。柄を強く握り締め、静かに息を吸う。
「それ以上奥は危険よ。罠に巻き込まれてしまうわ」
 一番年かさと思われる地図を持った女性が、ランプを持った少女の腕を引いた。
「そうですね」
「先を急ぎましょう」
「はい」
 道に差し込まれていたランプが、四人分の足音と共に離れていった。
 エアは剣の柄にかけていた手をはずし、安堵のため息を吐く。足音が完全に聞こえなくなってから、立ち上がった。
 エアが迷宮に足を踏み入れてから半分以上進んでいる。彼女たちはおそらく、入り口に行くまで引き返してこないであろうから、この迷宮を進むうちは完全に逃れたと考えて良いだろう。
 あと十七人。楽観視はできないが、肉体的にも心理的にも負担が減ったのは間違いなかった。
 エアは正しい道に戻り進みはじめたが、彼女たちのような集団が他にも居ないとは限らず、ランタンの光をあまり外に出さないようにした。足元と数歩先をおぼろげに確認できるようにしておけば、何とか進む事ができる。
 分岐を二つ越えないうちに、再び足音が響いた。エアは先ほどと同じように、入り口付近に罠が無い事を確認してから誤った道に身を隠し、通りすぎるのを待つ事にした。
 次も集団だ。先ほどよりもひとり多く、五人。先にひとつの集団が進んでいるからか、僅かに油断が見られる。さすがに正しい道は念入りに見ているが、罠のある道を覗きこむような事はせず、身を隠すのはより簡単だった。
 あと十二人。この迷宮ですれ違う事で、半分近くをやり過ごした事になる。いつ見つかるか緊張を強いられる事となるが、事を構えずにすむ分楽だ。いっそ、二十一人全てが迷宮内に入ってきてくれれば良いのに、と望んでしまう。
 足音が消えると、エアはまた正しい道に戻った。念のために通路を覗き、闇の向こうに小さな明かりを見つけると、息を飲んで身を強張らせた。
 足音はしない。明かりが近付いてくる様子はない。つまり、何者かがそこで構えていると言う事だろう。
 正しい道がひとつしかないこの迷宮では、動いていない者に近付かずに正しい道を進む事は不可能だ。
 できる限り静かに進む。床に使われている石の材質上、足音を完全に消す事は不可能だが、足音を軽めに細工する事はできる。せめて顔の判別がつく距離になるまで、仲間だと誤解してもらえればありがたい。
「どなたです?」
 明かりの持ち主は少女だった。今まで見た中で一番幼いかもしれない。
「侵入者は見つかりましたか?」
 エアの狙い通り、引き返してきた仲間だと勘違いしてくれたようだ。道の途中に立っていた少女は、手にしていた松明をエアの方に掲げる――と同時に、エアは手荷物をその場に投げ捨て、地面を蹴っていた。
 少女がひとりであった事は幸いだった。よほどのてだれでなければ何人居ても片付ける自身はあったが、複数居ればひとりを片付けている間に悲鳴を上げられる可能性が高い。女性の悲鳴は響くので、やり過ごしたばかりの集団が戻ってきてしまう可能性がある。
 左手で少女の口を押さえ、右手で素早く鳩尾を突いた。少女は呻き声を上げる事もできず、その場に崩れ落ちる。
 労わりに意味がない事を知りながら、エアは少女の体を抱きとめ、優しく横たわらせてやった。
 床に転がり落ちた松明の火を踏み潰し、自身の荷物を拾うと、少女には見向きもせずにその場を通り過ぎる。
 道を進みながら、減り続ける水を喉に流し込んだ。


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Copyright(C) 2007 Nao Katsuragi.