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三章 女神ライラ




 少し眠ってしまったようだ。部屋の扉を叩く軽い音で意識を覚醒させたエアは、慌てて飛び起きる。
 転がる事で乱れた髪や服を急いで直し、扉を開けると、女官のひとりがそこに立っていた。最初に案内してくれた少女ではなく、エアよりも幾つか年上と思わしき女性だ。
「お待たせいたしました。お食事の準備が整いましたので、ご案内いたします」
「どうもありがとうございます。他の三人は?」
「他の者がすでに呼びに言っておりますのでご安心ください」
 こちらへどうぞ、と事務的に言ってから、女性はエアを先導する。やはりエアが話しかけない限りずっと無言で、ぴんと背筋を伸ばしたまま進んで行った。
 少し力を抜いた方がいいと部下に言われたばかりのエアだったが、同じ言葉を彼女たちにかけてやりたい気がした。おそらく長い時間礼儀作法の教育を受け、意識的にではなく自然に美しい姿勢を作れている彼女たちは、エアほどの疲労は溜まっていないかもしれないが、ずっとこの調子では息が詰まりそうだ。二十数名が暮らすには充分すぎる広さとは言え、壁の内側と言う閉鎖された場所となればなおさら。
 女神を連れ去る事によって、彼女たちには自由と言う解放が与えられるのだろうか。
 無意識に思考が導き出した結論に腹を立てたエアは、軽く唇を噛む事で考えを消し去った。
 これから行おうとしている世紀の大犯罪を、正当化しようとする自分があまりに情けない。そうでもしなければ実行に移せない程度の覚悟しかないなら、はじめからやらなければいいのだ。
「こちらです」
 しばらく通路を進むと、エアたちに与えられた客間にあるものよりも遥かに大きな、両開きの扉が目の前に現れた。
 年若い少女がふたり扉の前に立って待っており、エアたちが近付くと当時に扉を開く。感謝の意を込めてエアが会釈をすると、少女たちは深々と頭を下げた。
 中には長方形の食卓があった。備え付けられてある椅子の数は五つだが、十人くらいならば余裕を持って座れる大きさがある。すでに温度を気にしない料理がいくつか並べられている卓には、ジオールたち三名が着いており、エアに気付くとそれぞれが小さく会釈した。
 エアを案内してくれた女性が、空席ふたつの内、エアの席と思わしき椅子を引いた。エアが椅子に座ると、女性は深く礼をして、部屋を去っていく。広い部屋に見慣れた顔だけが揃い、エアは静かに息を吐く。
 至れり尽くせりとはまさにこの事なのだろうと感心しつつも、エアはどうにも居心地が悪かった。食事を取ると言うのは誰にとっても当たり前の行為に、なぜこうして緊張を強いられねばならないのか。
「待たせたか?」
 エアが訊ねると、エアの隣に座るハリスが首を振った。
「いえ、そうでもありません。待たされたとしても、隊長のせいではありませんし」
「そうなのか?」
 次に答えたのは、エアの斜向かいに座るルスターだった。
「多分、位の順なのだと思います。私が最初で、次がハリスさん、続いてジオールさん、で、隊長が今入られましたから」
「女神をお待たせするわけにはいかないのは判るが……」
 隊長のエアを区別するところまでも何とか理解してやったとして、あとの三人にまで格式順位を付ける必要はあったのだろうかと、エアは思わずため息を漏らしていた。
「だいたいお前たち、年齢だの入団して何年だのと聞かれたのか?」
「いえ、聞かれてはおりません」
「隊長が聞かれたんだと思ってましたけど?」
「私は聞かれた覚えなどないぞ。ずっと寝ていたしな」
「はあ。まあ、俺たちなら見た目通りに判断すれば当たりますけどね。見た目通りじゃなかったらどうするつもりなんでしょう。あとでジオールさんはこう見えて十六歳なんですとか、ルスターはこう見えて最年長なんですとか、言ってみましょうか」
「……やめておけ」
 ハリスの案に興味は無いと言えば嘘になるが、見るからに生真面目な女官たちをからかってもろくな結果にはなるまいと想像したエアは、ハリスを嗜める言葉を口にした。ハリスも思う事は同じようで、黙って頷いた。
 四人はそれきり無言のまま、食卓に着く最後のひとりを待つ。
 幸いにも、次に扉が開くまで、それほど間は空かなかった。エアが入って来たものとは卓を挟んで反対側にあった扉が開き、神々しい美貌を持つ女性が姿を現した。
 部屋の中を満たしていた静かな空気が、一瞬にして華やいだ空気へと変化する。僅かな髪のなびきが、表情の変化が、男たちを容易に魅了する。
 そんな女性とこれから一緒に食事をするのだと、エアには到底信じられなかったが、最後の一席に彼女が腰を下ろしたのだから信じないわけにはいかなかった。
 女神が席に着くと、温かな料理がすぐに運ばれてくる。女性ばかりだからか、閉鎖された森の中では食材が限られてしまうのか、野菜や木の実、果物を中心とした質素な料理が多いが、肉や川魚も使われている。豪勢と言えるほどの料理ではないが、充分手が込んでおり、見た目も香りも食欲をそそった。
『天上の神エイドルードの恵みに感謝を』
 ライラが神聖語で祈りの言葉を口にする。四人も同じ言葉を復唱してから、ようやく食事がはじまった。
 見た目や香りから期待した通り、料理は充分以上に美味しいものだった。あまり舌が肥えていないエアでも、料理人の腕や食材の良さが判る。特に、香辛料を軽く付けて焼いた肉に果物をふんだんに使って作られたソースがかかったものがエアのお気に入りで、味が良いだけでなく空腹もしっかり満たしてくれた。
「皆様、ずいぶんお若いのですね」
 四人の顔を順々に見回しながら、ライラは可憐な声を響かせた。
「私を神殿に送ってくださった方々も含めて、補給部隊の方々を拝見するのは今回で四度目になりますが、今年の皆様が一番お若い気がします」
「そうですか?」
「ええ。少なくとも外見は。そちらの方は、まだ十代ではありません?」
 ライラは首を傾げ、ルスターを見つめる。すると、ルスターの頬は一瞬にして朱に染まった。
「彼は最年少でまだ十七です。私とこちらのハリスは今度二十になります。ジオールが最年長になりますが、それでもまだ二十一です」
「まあ、では、ジオール殿以外は十代と言う事なのですね。本当にお若い」
「とは言え、私が十代でいられる時間は限られておりますが。セルナーンに戻る頃には二十歳になってしまいます。隊長も、あと数ヶ月足らずですよね?」
 ハリスの言葉にエアは肯いた。
「十代で隊長になられるなんて……エア殿はとても優秀な方なのですね」
 どう返して良いやら言葉に詰まったエアは、ハリスが勝手に話を続けてくれた事に心の中で感謝した。
「ライラ様はセルナーンご出身とお聞きしてますからご存知かと思います。毎年一回、三十歳未満の聖騎士団員全てが参加して行われる剣術大会の事を」
「ええ、もちろん存じております。決勝は闘技場で行われ、民に開かれるのですよね。王都に居た頃はよく見に行っておりました」
「それで優勝したんです、エア隊長は。入団一年目の団員としては、歴史上二人目の快挙なんですよ」
「こら、ハリス」
 そこまで言わなくてもいい、との意味を込めてハリスの名を呼んだが、ハリスは微笑んでごまかすだけだった。
「そう、ですか。それは……たいへん素晴らしいですわね」
 ライラは目を細め、少し陰りのある微笑でエアを見つめてきた。
 悲しみや切なさと言った類の感情を伝えてくるその微笑みは、郷愁の念が産みだしたものだろうと、エアは漠然と理解していた。だからこそ美しい微笑みに対して覚えるのは思慕の念や美への感動ではなく、同情や同調と言ったものだった。
 この美しい女性が、セルナーンでどのような生活を送っていたのか、エアは知らない。街に住む娘だったのかもしれないし、貴族の令嬢だったのかもしれないが、どちらにせよ、天上の神の突然の気まぐれに運命を定められ、狂わせられたのだ。生まれ育った地を捨てる事を強要され、家族や、友人や、居たとすれば恋人と引き裂かれた胸の痛みは、どれほどのものだっただろう。
「それにしても、少々驚きました。セルナーンご出身とは言え、ライラ様のような女性が剣術大会をご見学なされた事があるとは」
 ルスターの問いかけに、ライラは笑みから悲哀の感情を消し去ってから答えた。
「セルナーンの民ならば性別など関係なく、一度は見たいと望むものです。単なる殴り合いでしたら恐ろしくて目を背けていたかもしれませんが、聖騎士様たちの剣技は剣舞のようにお美しい。それに……」
 ライラは一瞬言葉に詰まってから、意を決し、と言った様子で続けた。
「わたくしが想いを寄せていた方が、試合に出ておられましたから」
 視線をライラに向けているために視覚で確認できなかったが、三人が息を飲んだ事が判った。この美しい女性に思いを寄せられた幸せな男は一体どのような男なのだと、思考を巡らせているのだろう。
「ライラ様の想い人が、御前試合に」
「ええ。遠くからでも良いのでひと目見たいと、脚を運びました。それまでは武術など野蛮なものだ、と偏見を持っていたのですが、あまりの美しさにすっかり魅了されてしまって、それ以来毎年足を運ぶようになりました」
 ライラははにかんで、いたずらを成功させた子供のように、愛らしい笑い声を上げた。
「ふふ。神殿でこんな事を言ってしまって、エイドルードに怒られてしまうかしら」
 さりげなく紡がれた言葉だった。
 だが、いや、むしろさりげなかったからこそ、隣に座って食事をしている女性が神の妻なのだと、エアは思い起こす事となった。
 自分が今どのような表情を取っているかが判らなくなり、エアは食べ物に向き直る事で顔を隠す。
「お美しいライラ様のお心が他の男にあったと知れば、偉大なる天上の神も嫉妬なさるかもしれませんね」
「まあ、お上手ですこと」
 自分を挟んで往来しているはずの会話が、遠くに聞こえた。
 いや、ハリスの声は近い。隣から発せられている事が判る。ただライラの声だけが、遠ざかったのだ。まるで人の声ではないように。
 森の女神ライラ。エイドルードの妻として、森の神殿での日々を送る女性。元はエアたちと同じ人でありながら、人ではない空気を纏う女性。
 では砂漠の女神リリアナは、砂漠の神殿において、どのような心構えで日々を送っているのだろうか。
 リリアナが神の妻となってからも、エアはリリアナの事を想っている。失ったあの日から少しも変わらず――いや、神の不条理な行いに対する憎悪の分だけ、より想いは増していると言っていい。
 リリアナは?
 彼女は今でもエアの事を想ってくれているのだろうか。時々でも思い出し、嘆いてくれているのだろうか。それとも今のライラのように、エアの事を過去の思い出と化し、笑顔で語っているのだろうか。
 今までエアは、リリアナの想いを疑った事などなかった。自分と同じように、彼女もエアを想い続けてくれていると、疑いなく信じていたのだ。
 急激に、自信が揺らいだ。
 なぜこれまで、根拠のない自信を抱き続けていられたのだろう。
 エアはリリアナを失う事で全てを失ったが、リリアナは違うのではなかろうか。エアを失い、家族を失ったが、神の深い愛と恵み、誇らしい役職を手に入れた。失った空虚を、新たに手に入れたもので埋める事ができなかったと、なぜ言い切れる?
「エア隊長?」
 隣に座るハリスの、不安を色濃く含んだ声が、エアを呼ぶ。
「具合でも悪いんですか?」
 エアは小さく首を振った。
「いや、大丈夫だ」
 ありきたりの言葉を返し、から笑いを浮かべる事だけが、その時のエアにできた全てだった。
 胸が重くなると、体の全てが重い。ほとんど残り少ない食事を口に運ぶ事が、ひどく疲れる。
 食事を終え、女神ライラが席を立つまでの時間が、永遠のように長かった。


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Copyright(C) 2007 Nao Katsuragi.