冬
『家を買い取った不動産屋に話を聞いたらね、家は古くてあのままじゃ売れないから、新しくアパートを建てると言っていたんだよ』
携帯から聞けてくる叔父さんの声は、妙に淡々としていて、その話している内容にいちいち傷つく自分のほうがおかしいんじゃないかって思ってしまうくらい。
『だから――その、住み慣れた場所のほうが都合がいいだろうし、希望するなら、入居できるようお願いしておくけど、どうする?』
「いいです」
考えるまでもなく答えは決まっていて、私は即答した。
『あ……そ、そうかい』
あまりの早さにびっくりした叔父さんは、最初こそ戸惑っていたけれど、すぐに理解してくれて、『それじゃあね』と通話を切った。
ふう、と息を吐いて、携帯をしまう。
住み慣れた場所で暮らせるのは、確かに楽なんだと思う。大学とか、スーパーとか、バイト先とかの距離感も、今までと変わらないんだから。
でも、同じ場所に住んでいるはずなのに、使いなれた台所も、落ち着く縁側も、植物が生き生きと育つ庭も、何も無い。そんな事に耐えられる自信が、私にはなかった。
「何か、深刻な電話?」
正面に座る桜が、心配そうに私の顔を覗き込んできた。
やだな。全部顔に出ていたかな。
「ううん。大した事じゃないよ。親戚の人からの電話だし」
作り笑顔で桜に返して、少し冷めてしまったハーブティーに手を伸ばす。今日は桜のリクエストで、ローズヒップだ。
「そ」
納得しているのか、微妙な返事をして桜も、ティーカップを口元に運んだ。
来年から暮らすアパート、探さなきゃ。
この辺りのアパート、学生向けばかりだから、時期が悪いかな。入れ替わりの時期じゃないから、いい物件、ないかも。でもしょうがない。気に入らなければ、卒業する時また引っ越せばいいし、適当でいいや。
うん。だったら、さっさと決めちゃったほうがいいかな。バイトまで一時間ちょい余裕があるし、不動産屋に相談だけでも行ってこよう。
「ごめん。ちょっと行きたいところがあるから、今日はもう帰るね」
「え? あ、そう。判った」
「じゃあ――」
バッグを肩に掛けて、立ち上がる。バイバイ、と軽く挨拶して、温室を立ち去ろうとした。
けれどその時、確かに目が合ってしまったから、私は足を止める。
大地が居た。温室の向こうに。こっちを見ていて、視線が重なった。
先に目を反らしたのは大地だ。悔しそうにも、怒っているようにも見える顔で、背中を向けて、奥に向かって歩いていく。
ごめんね、大地。判ってるよ。大地は何も悪くない。むしろ大地は、私の味方をしてくれたよね。
私と同じで、あの家が無くなる事を、悲しんでくれてるんだよね。
でも、今は、駄目。私は大地に何も言えないし、大地にも、何も言ってほしくない。叔父さんを恨んでいるからとか、その恨みを息子の大地にも向けているから、とか――そう言うのとは、違うのだけど。
ただ、夏の日に見てしまった夢が、空々しくて。
引っ越しの準備は、思っていた以上に面倒だった。
ひとりで暮らすには大きすぎる家から、大学近くの学生のひとり暮らし用アパートに引っ越すから、まず荷物の選別のが難しい。
おばあちゃんの遺品を捨てたくないとは思うけど、家具すべてを持っていく事なんてできるわけないし。そもそも一番の遺品である家は取り壊されてしまうわけだし。何を自分で持っていって、何を雨宮の叔父さんに預けるか、を考えているうちに、どうでもいいや、なんて気分になってしまう。
ここで、何かを大切にしようと、守ろうとしても――どうせいつかは、奪われるか、なくなってしまうのだろうし。
急にやる気がなくなった。いっそ全部捨ててしまおうか、まで考えた。それは叔父さんたちが嫌がるかもしれないから、全部残しておこうかな、とか。叔父さんたちが必要だと思うものだけ、叔父さんたちが持ち帰ればいい。
ピンポンと、インターホンが鳴る。
出る気にはなれなかった。何か来る予定はないから、きっと勧誘かなんかだし。
出ないからか、もう一回鳴った。放っておいた。そしたらまた鳴った。
しつこい勧誘だなあ。
「おい、野ばら! 入るぞ!」
四回目の代わりに、声が聞こえる。鋭く尖らせた、大地の声。
私が何の返事もしていないのに、大地は宣言通り、庭から回って入ってきた。もう寒い季節だけれど、片付け中で埃が立つからと障子を開けっ放しにしていて、だから大地は縁側からあっさりと入ってきて、あっさり私を見つけてしまった。
ここしばらく、会話もしてなかった。目を合わせても、反らすだけだった。だから大地がどうしてここに来て、私の前に立っているのかが判らなくて、
「何しに来たの?」
そう、訊いた。
大地は少しだけ俯いて、唇を固く引き締めて、考え込んでいた。私が投げかけた問いの答えを探るように。
「野ばらに、言いたい事があって」
「そう」
私は別に、言いたい事も聞きたい事もなかったのだけれど、大地を追い出す気力もなくて、ただ顔を反らした。
「俺、あれからずっと考えていたんだ」
目の端に映る大地の拳が、ぎゅっと強く握りしめられる。
「俺たちは、無力だよ。社会的にはまだまだ子供で、金もないし、大人が決めた事に逆らう事はできない」
そんな事、いちいち大地に言われなくても、判ってる。
嫌と言うほど、思い知ってるよ。
「でも、だからって、何もできないわけじゃない。ほんの小さな事でも、できる事はあるはずだ」
ああ、駄目だ、と思った。大地は判ってない、って。
大人の都合に逆らえないのは、きっとみんな同じ。でも、大人の都合が自分にとっても都合が悪いかどうかは、人によって違う。
大地は判らないから、知らないから、ここまで恵まれてきたから、そんな夢みたいな事が言える。
「アンタに何ができるって言うの?」
自分の中に湧いた、静かな怒りをぶつけるように、意地悪く訊く。
すると大地は、熱のこもった言葉を吐き出した。
「花を」
一度、途切れる。沈黙の中で、正しい言葉を探り当てるかのように。
「家は守れない。庭だって、潰されてしまう。でも花なら。ばあちゃんたちが残した、思い出の花を、守ろう、野ばら」
大地は身を乗り出して、ぐっと私に顔を近付けて、見つめてくる。けして反らさず、瞬きすらせずに、真っ直ぐに。
力強かった。全部諦めて、そうして楽になろうとしていた私を責めているみたいだった――逃げる事を許さないとばかりに、大地は、私の心を引き留めるんだ。
「そりゃ、全部は無理だ。ばあちゃんたちの庭は広すぎるから。だから、好きなのを選んで――」
私は首を振った。強く、強く。
選ぶなんて、無理だ。おばあちゃんは、どの花も大切にしていた。同じように愛情を注いで育てていた。なのに、どれかを選ぶなんて、私にはできない。
「来て」
大地は私の手を掴んだ。
戸惑う私を引っ張り上げて立たせると、ゆっくりと歩き出す。
縁側から、庭へ。冬の弱々しい日差しに照らされたそこは、他の季節に比べると、寂しいとしか言えない光景が広がっていた。
「これにしよう」
大地が足を止めたのは、バラの株の前。今はぼさぼさに枯れていて、少し葉が残っているだけの。
咲いているところを見た事もあるけれど、とても地味な花だった気がする。花屋に飾られているような、華やかなものではなかったはずだ。
「ノイバラって言ってさ、在来種なんだよ。色んなバラの先祖になったバラ」
「ノイバラ……」
「強くてよく育つし。葉っぱの形に特徴があるから、園芸種のバラと見分けるの簡単だし。これなら、ばあちゃんの思い出と、他の植物が混ざったりしない」
私はしゃがみ込んで、今はまだみすぼらしいノイバラを、じっと見つめた。
大地が強いと言うのなら、この子は本当に強いんだろう。
思い出の地と離れて、寂しい想いをしても、それでも強く育って、花を咲かせてくれるんだろう。
「うん」
私が頷くと、頭上から優しい声が降ってきた。
「いいのか?」
「うん、お願い」
もう一回頷いて、
「あ、でも」
もう一度ノイバラを見つめて、その大きさに唖然とした。
新しいアパートには、とても置けない。それに、こんな大きな株を植え変えられる鉢なんて、そもそも持っていない。
「鉢上げするには大きすぎる、だろ」
「うん……」
弱々しく頷く私に、なおも大地の優しい声が降りてくる。
「だから、大学とサークルにはもう話通して、調整しておいた。園芸部の圃場の一角に、移植させてもらえる事になってるから」
「えっ」
私が顔を上げると、大地はにぃっ、と、得意げな笑顔を見せた。
「頼もしいだろ」
さっき大地は、子供だから力なんかないって言っていた。それでも小さな事ならできる、と。
本当にその通りだった。大地は信じる通りに動いて、やり遂げようとしている。
それは、大きな力ではないのかもしれない。けど、何よりも凄くて、頼もしい力だと、思った。
クリスマスが間近に迫った、十二月二十二日。ノイバラの株は、家の庭から、大学の圃場へと移植された。
都合のついたサークルのメンバーのほとんどが集まって、手伝ってくれた。掘り起こすのだって私と大地だけじゃ難しかったし、大学に運ぶための足もなかったし、――とにかく、本当に助かった。ありがたかった。
「いつか、引き取りに来ような。必ず」
新たな居場所に落ち着いたばかりのノイバラを見つめながら、大地がそんな事を言うから、私はゆっくり首を振った。
「どうしても引き取れって言われたら引き取るけど、よければ寄付したいと思ってる。ここで、いつまでも咲続けてくれるなら、私はそれが一番いい」
「いいのか?」
静かに、ゆっくりと、でも強い想いを込めて、私は頷く。
「誰かの都合でたらい回しにされるなんて、可哀想、でしょう?」
大地はしばらく無言だったけど、やがて小さく頷いて、「そっか」とだけ返してきた。
伝わったんだ、って判った。
それが嬉しくて、無意識に口元が綻んだ。
移植が終わった後は、うちでクリスマスパーティーをした。
力を貸してくれたお礼を何かしたくって、でも私にできる事なんて限られているから――できる事を精一杯やりたくて、私から言い出した事。
みんなものすごくはしゃいでて、おばあちゃんが亡くなってからずっとひとり静かに暮らしていた家が、嘘みたいに賑やかだった。楽しかった。その数時間だけは、忘れていた気がする。この家がもうすぐなくなってしまうと言う、悲しい現実を。
だからかな。みんなを送り出して、静かになると、現実はより重く、心に垂れ込めた。忘れていたぶんだけ、強まってしまったのかもしれない。
「野ばら」
大量に使った食器の、最後の一枚を洗い終えたところで、大地が私を呼ぶ。
「そっち、終わった?」
「ああ」
「そう。ありがとう」
大地は、みんなが帰った後も、片づけ手伝うよ、と残ってくれた。
片づけくらい、ひとりでできない事もなかったんだけど、甘えてしまった。量が多かったし、正直言って助かった。
「こっちももう終わりだから、あとは大丈夫」
気をつけて帰ってね、と言おうとした。大地の家まで、ここからけっこう遠いし。
だけど私がそう言う前に、大地は、
「今日、泊めてくれる?」
なんて言い出した。
一瞬、ものすごく戸惑った。何言ってんのこいつ、って。
「この家と、最後のお別れをしたいんだ。野ばらほどじゃないんだろうけど、俺にとっても、思い出深い場所なんだよ」
ああ、そう言う事、か。そうだね。大地だって、おばあちゃんの孫なんだから。
勝手に勘違いして、びっくりして、戸惑ってしまった事が恥ずかしくなって、私は大地から目を反らす。
「おそったりしませんから安心してください」
大地は、おどけた口調でそんな事を言い出すし。
私、そんなに判りやすかったかな。心の中まで見透かされた気になって、よりいっそう恥ずかしくなった。
「あと、お袋にも、ちゃんと了解は得てるし」
「そうなんだ。じゃあ、いいよ」
「念のため今夜も、じいちゃんばあちゃんにも見守っててもらうか」
「……本当に信用していいんだよね?」
訊きながら、私は笑っていた。
笑っている私を見て、大地も笑う。大口を開けて、声を響かせて。
ひとしきり笑ったら、どちらからともなく真顔になった。
キッチンはしんと静まり返る。ううん、キッチンだけでなく、家中が。
「家ん中、見ていい?」
「汚くても文句言わないなら」
「俺の部屋よりは綺麗だろ」
大地はもう一回だけ笑って、また、静かになった。
「私たちが遊びに来ると、おばあちゃん、このキッチンで、私たちのためにケーキ焼いてくれたよね」
「うん」
楽しみで、待ちきれなくて、おばあちゃんの後ろをうろうろして、「邪魔しちゃだめよ」って怒られたっけ。
濡れた手を拭いて、キッチンを出る。
ふたりで歩くと、木目の床がきしりと音を立てた。
「ここね、まだ、傷が残ってるんだ」
途中の柱の前で足を止めて、しゃがみこむ。
「ああ、背比べした時の」
「そうそう。この時は、私のほうが背が高いね」
「子供の頃の二歳差は大きいからな。しょうがない」
とか言って頷きながら、大地は悔しそうに、眉間にしわを寄せる。口で言うほど、「しょうがない」って思ってなさそうで、それがおかしくて、大地に気付かれないようにこっそり笑ってしまう。
笑っている間に、大地が先を歩いた。ほんの、数歩。大地の手が、静かに襖を開ける。
四畳半の、一番小さな部屋。今はおばあちゃんの遺品をしまっている部屋だけど。
「ここで、おばあちゃん、よくお花を活けてて」
「うん」
「それ、見てるのが、好きだった。こっそり、眺めるの。その時だけは、ちゃんとおとなしくできた。それくらい、好きだった」
「うん」
大地はそっと襖を閉める。
振り返ると、そこにあるのは、つい一時間前までみんなではしゃいでいた部屋。
大地が畳の上に踏み込んで、そのまままっすぐに進んで、縁側で足を止めたから、私は少しだけ遅れて、大地の隣に並んだ。
「ここで、花火、したよなあ。夏休みに泊まりにきてさ」
「したね。大地、線香花火の玉が落ちるの、異様に早くて」
「アレなんでだろ。何回やっても俺のが先に落ちたよな。野ばらに負けた気がして、すっげー悔しかった」
また、大口開けて笑う。
吐いた息が白く広がって、すぐにかき消えた。後を追うように、声の響きも空気にとける。
私は縁側から、庭に降りた。
大地も、降りた。
じっと眺める。おじいちゃんとおばあちゃんが、一緒に手入れしていた緑。今は色を失っているけれど、春や、夏や、秋ならば、いろんな色で溢れる植物たち。
「ここで……」
声はそこで途切れた。
想いも、息も、胸につかえて、何も言えなくて。
おかしいな。目と、頬だけが、すごく熱い。吐く息が白くなるくらい、空気はすごく冷たいはずなのに。手も、足も、首も、肩も、冷たいのに。
ああ、私、今、泣いてるんだ。
そう自覚した瞬間、涙はぼろぼろこぼれ落ちてきて――それと同時に、背中が急に温かくなった。肩も、腕も。
優しい温もりで、大地が私を包み込んでくれたから。
「っ……」
もう、意地を張る事も、できなくなった。
大地の腕に、温もりに甘えた。そのまま、気が済むまで、私は泣き続けた。
Copyright(C) 2012 Nao Katsuragi.