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「野ばら、ローズヒップをホットで、レモングラスはアイスだって」
「はーい」
 とってきた注文を繰り返す桜に、できるだけ元気よく返事をする。
「あとバラのシフォンふたつね」
「はい!」
 続いて桜は、今の時間調理(と言ってもほとんど準備しているものを盛りつけるだけなんだけれど)を担当をしている一年の女の子たちにも指示をして、また離れていった。給仕係の彼女を、別のテーブルの客が呼んだのだ。
 なんだか忙しいな。
 大地が先頭に立って綺麗にした温室を、じっくり眺めている暇もなかった。お湯を注いで、ハーブティーを抽出している間だけ、ぐるりと見渡す余裕ができる、くらい。
 いつもこんなに忙しかったのかな。
 バイトを言い訳に、去年も一昨年も学祭はほとんど参加していなくて、でも今年は少し頑張ってみようかなと思って、積極的に関わってみたのだけど。園芸サークル毎年恒例の温室喫茶は、いつかのための予行演習になるかもな――なんて、下心ありまくりな気持ちで。
「野ばら、次、ミントをアイスで」
「はーい」
 桜もなんだかぐったりしてる。朝からずっと、テーブルとここを行ったり来たりしてるんだから、当たり前かもしれないけど。
「お疲れ、桜」
「ほんとだよーもー! 野ばらのせいだかね!」
「え、何で私」
「去年とかこんなに忙しくなかったもん」
「そうなの?」
「そうだよ。メニューが普通だったし、大しておいしくもなかったからだろうけど」
 それは。
 私のハーブティーとかケーキとかが、おいしいって言ってもらってる、と思っていいのかな。
 自意識過剰かもしれないけど、少し照れてしまって、私は無言でローズヒップとレモングラスを桜の前に置いた。
「あーでも、一番は大地くんかな。見た目が去年よりずっと綺麗だからね。ほら、ああいう風に」
 温室の中を覗いていた、ガラスの向こうの女の子が、隣の男の子の袖を引っ張って、入り口のほうに移動してくる。もうひとりの給仕係のコが近付いて、開いているテーブルに案内した。
「通りすがりの客の心を掴んで、入っちゃった客の胃袋を野ばらが掴んじゃってるわけよ。そしておみやげにハーブの鉢を買っていってくれると。完璧な流れだね」
 桜はトレイに私が用意したお茶と、後輩が用意した、クリームを添えたシフォンケーキを乗せて、疲れた顔をすまし顔に変えて、テーブルのほうへ向かった。
 どうしよう。
 想像していた以上に、嬉しい、かも。
「にやにやして気持ち悪いぞ」
 後頭部を軽く叩かれる。柔らかものがぶつかっただけだから、あまり痛くなかったのだけど、一緒に投げかけられた言葉のほうが少し痛かった。
「ん」
 振り返って文句を言おうとしたけれど、口を開くよりも先に大地は、私の前に一冊の本を差し出してくる。それこそが、私の後頭部にぶつかったものであり――
「持ってきてくれたんだ」
 私は本を受け取った。
 ガーデニングの本。
 ちゃんと勉強しようと思って、通信教育の資料を取り寄せているところなんだけど、ちょっとでも事前に知識があったほうが、より判りやすいかなと思って。
「俺が最初に買った、初心者向けの奴。最初はそのくらいのほうが判りやすいだろ」
「ありがと」
 素直にお礼を言ってみると、大地はにこにこして、ぽん、と、私の頭に手を置いた。
「頑張れよ」
 何これ。私のほうが年上なのに、子供扱いされてるみたいで、なんか気に入らない。
「言われなくても頑張るけど」
 だから、感じ悪い返ししかできなくて、それでも大地は優しく笑っているから、更に悔しくなった。
「ここ、忙しいんだから、どっか行ってて」
 私は背中を押して、大地を追いやる。「はいはい」と大地は笑いながら温室の外に歩いていった。
 ガラス越しにも見えなくなってから、私は借りた本を、そっと胸に抱きしめる。
 頑張ろう、と、素直に思った。
 全てはここから、はじまるんだから。

 温室喫茶が大盛況だったからか、打ち上げの飲み会でのみんなのテンションは、ものすごかった。今まで参加したサークルの飲み会では、一番かもしれない。バイトがあるから、時々しか参加してないせいで、そう感じるのかもしれないけど。
 特に大地の周りが賑やかだった。今年の温室喫茶の成功の立役者は、大地と私って事にされてるけど、大地は一年だし、男だし、私と違ってサークルにまめに顔出してるから、私以上にみんなと親しいし。標的にされてしまうのも無理はない。
 でも……やたら飲まされてるけど、大丈夫なのかな。そんなに強いほうじゃないみたいだし。できるだけ断ろうとしているっぽいけど、ほとんど断れていない。
「でもさー、知らなかったよ正直。野ばらがあんなにハーブに詳しいなんて」
 桜が私の隣に移動してきて、話しかけてくる。私は大地に向けていた視線を、桜に移した。
「ハーブ好きだって、言ってなかったっけ?」
「聞いてた気がするけど、なんかもっと緩い感じだと思ってて。気が向いた時にお茶飲むくらいの」
「あー」
「私も飲んだ方がいいかな。最近肌の調子が悪いし」
「それなら……そうだなあ」
 ビタミンCが豊富なやつをおすすめしたほうがいいかな。そもそもの肌荒れの原因が便秘とかだったら、そっちを解消するやつをおすすめしたほうがいいかな――なんて、ひとりで考え込む。
 三秒くらい無言でいたかな。その間に、突然わっと騒がしくなって、どたどたどた、と雑な足音。
 びっくりして振り返ると、大地は居たはずの場所から居なくなっていた。
「あー、大地くん、トイレ行きか」
「え、大丈夫なの?」
「ダウンかもね」
 ツブれちゃったら、大地、どうやって帰るんだろう。雨宮の叔父さんちは、ここからけっこう遠い。大学まで二時間近くかけて通ってるはずだし。
 ここまで酔っぱらってたら、誰も車で送ってなんかくれないだろうし(送ってくれると言っても全力で遠慮したい)、タクシーはもの凄い金額になりそうだし。
 しょうがないな。借りもあるし。
 私はちらっと、自分のバッグに目を向けた。その中には、さっき借りたばかりの、ガーデニングの本が入ってる。
「私、そろそろ上がるね」
「何で? 今日バイトないっしょ?」
「あれ、ひとりで帰すわけにはいかないでしょ。一応身内だし、面倒見ないと」
「そうだねぇ」
 桜がなんでかにやにや笑ってるのを無視して、私は自分の荷物を手に立ち上がると、大地の荷物をひっつかんだ。

 とりあえず大地を畳の上に転がしてから、台所に向かう。グラスに水をたっぷり入れてから居間に戻ったけれど、大地は微動だにしていなかった。
「大地、水飲める?」
「んー……」
 多少意識はあるらしい。声をかけると、起きようともがいた。でもそれだけ。手とか腕とかに上手く力が入らないみたいで、ちゃんと起きあがれない。
 まったく、手のかかるやつだな。
 仕方がないから手を貸してあげて、背中を支えてやりながら、水を飲ませた。三分の一くらいは上手く飲みこめずににこぼしている。あーもう、拭かないと。
 布巾をとりに行こうと手を離すと、大地はまたまた畳の上に倒れ込んだ。
 これは、完全に、駄目だな。
「大地、布団ひいてあげるから、それから寝なね」
 取ってきた布巾で、塗れてしまったテーブルや畳を吹きながら声をかけると、大地は首を振る――振ろうとして、小さくもがく。
「かえる」
「帰れるわけないでしょ、その状態で」
「かえる……」
 そう言い張るのは勝手だけど、自力で歩くどころか、起きあがる事もできないでしょうが。何考えてるんだか。
 カッコ悪いところ見せて恥ずかしくて、意地になってるのかも。でもこっちだって、こんな状態の従兄弟を放り出すわけにもいかないし。雨宮の叔父さんちまで送るくらいなら、泊めたほうが楽だしなあ。
 なんて考え込んでいるうちに、寝息が聞こえはじめた。
 なんだ、寝ちゃった。
 じゃあ、ここに布団ひいてやるか。それで転がしてやれば充分だよね。着替えさせてやる義理はないし。居酒屋を出る前に、シャツの上のほうのボタンとかベルトははずしてあるから(男子がやってくれた)、そんなに寝苦しくもないはずだし。
 放り出しっぱなしの自分と大地の荷物と、テーブルを部屋の端に寄せる。その時大地の荷物の中に携帯を見つけて、はっと、思いいたった。
 そうか。多分これ、大地は、無断外泊になるよね。雨宮の叔父さんちに、一応連絡しておいたほうがいいよね……男の子だから、突然の外泊なんて気にしないだろうけど、無断だと何かあったかと心配するかもしれない。
 自分の携帯に雨宮家の番号なんて登録してないから、勝手に大地の携帯を開けてみた。あ、駄目だ。ロックかかってる。
 うーん。大地が一瞬でいいから起きて、自分でかけてくれるのがベストなんだけど無理だよなあ。
 ため息を吐いてから、おばあちゃんの遺品をまとめた棚に近付いた。確か、電話帳が残っていたはず。息子の自宅の電話番号なら、書いてあるだろうと思って。
 予想通り、書いてあった。叔父さんの携帯番号も並んで書いてあったけど、何となくそっちにはかけたくなかったから、自宅の番号を押した。
 コール、二回と半分。携帯の向こうから聞こえてきたのは、中年の女性の声――記憶に残る大地のお母さんの声を、少し老けさせた感じだった。
『もしもし』
「あっ……の、夜分遅くにすみません。お久しぶりです。野ば」
『野ばらちゃん?』
 名乗りきるよりも前に、名前を呼ばれた。電話に出た時よりも、柔らかい声で。
 優しい声だな、と感じてしまう。私を追い出した人のひとりのはずなのに、それが不思議。
『どうしたの? 何かあったの?』
「その、今日、学祭の打ち上げがあって……大地がずいぶん飲まされたみたいで。近くに居たのに、止められなくてすみません」
 電話の向こうから、苦笑混じりのため息が聞こえた。
『しょうがないわよ。そう言うの、上手く断るのを覚えるのも勉強のうちでしょ。それで? 大地は今どうしてるの?』
「あ、うちに居ます。帰れそうにないので、今日は泊めようかと思いまして、それで、連絡を……」
 沈黙が流れた。
 私は伝えるべき事は伝えたつもりで、なのに叔母さんは何も言ってくれない。「よろしくね」とか、ひと事言ってくれれば、そこで話を終わらせられるのに。
 どうしよう。このまま「それでは」とか言って切っていいものかな? でも、無言のまま通話を続けるのも、気まずいし……。
『野ばらちゃん』
「はっ、はい!」
 戸惑っていると、急に名前を呼ばれた。でもそれは、最初に私と気付いた時の声と明らかに違う。冷たく感じるような――え、怒ってる? のかな?
 私、何か怒られるような事言ったかな。
『そんな事してくれなくていいから。大地を放り出してくれる?』
「はい?」
『その辺の道ばたでいいから』
「いえ、でも、ひとりで歩けないくらい酔ってますよ? 外で寝たら風邪引いちゃいますし、危ないですよ」
『いいから』
 いいわけないでしょ。
 起きたら荷物なくなってたり、変な事件に巻き込まれたり――なんて事は、こんな田舎でそうそうないとは思うけど、もう夜はずいぶん寒いし、体調を悪くするのは確実だ。大地の事なんて、私が気にする事でもないのかもしれないけど、今からそんな事するのは、ちょっと気分が悪いと言うか、罪悪感抱える事になりそうと言うか。
『野ばらちゃん、今ひとりで暮らしているんでしょう?』
「はい」
 誰のせいでですか、と言いたい気もしたけど、必死に飲み込んだ。
『だったらやっぱりね。ほら、ご近所さんの目もあるし』
「え」
 ちょっと驚いて、変な声を上げてしまった。
 一瞬だけ頭が真っ白になったけど、元に戻れば、叔母さんが何を言わんとしていたのか、すぐに理解できた。
 ああ、そう言う事ね。年頃の男女をひとつ屋根の下に置いとくのは体裁が悪い、と。そう言いたいわけだ。
 古くさい考え方とは思うけど、ご近所さんには叔母さんと年頃が同じか上の人が多いし、夏に大地が庭いじりに来た時も勘ぐってくる人居たし、言われてみれば多少面倒かもしれない。
『それじゃ、せっかく野ばらちゃんをお義母さんに預かってもらったのに、意味がなくなってしまうでしょう?』
 今度は声すら出なかった。
 完全に言葉を失って、携帯を握りしめたまま、硬直した。
 叔母さんが言った事を、よく理解できなかった。
 どう言う意味? 私が雨宮家から追い出されて、おばあちゃんが引き取ってくれた事に、何か理由があったって、そう言う意味?
「え、あの」
『ん?』
「私が、そちらから、おばあちゃんの家に移った理由って……」
 訊いてもいい事なのかな、とか、考える余裕もなく、訊いていた。
 だって、私、追い出されたんだと思ってた。本当の家族の中に偽物が混ざる事を疎んだ雨宮家が、私を追い出して、おばあちゃんに押しつけたんだって。新しい家族を作るために、古い家族である私を追い出した、お母さんのように。
 違うの?
 私、はじめから何か思い違いをしていたの?
『お義母さんから聞いてない?』
 私は一度頷いてから、ここで頷いても叔母さんには伝わらないと気がついて、「はい」と短く返事をした。
『野ばらちゃんが小学校六年生の頃だったかしら。お義母さんに相談したのよ。その……体の事とか、ね? 大人になるにつれて色々あるし、実の姉弟だったとしても難しい年頃だと思うのに、従兄弟同士でだともっと気になるだろうし……うちの家は狭いから、ひとりずつ部屋をあげる事なんてできないから、余計にね』
 ふふふ、と、叔母さんは少し恥ずかしそうに笑った。
『学校とかでからかわれる理由にもなるだろうしって。そしたらお義母さんが、野ばらちゃんを引き取ろうかって言ってくれて。そのほうがいいだろうって思ったの』
 叔母さんの説明は、驚くほどすんなりと、頭と胸に浸透した。
 顔、特に頬のあたりに、熱が集まっていく。急に、ものすごく恥ずかしくなって、逃げ出したい気持ちになった。
 追い出されたと思い込んで、小学校時代の友達たちと引き裂かれたのも悲しくて、勝手に恨んでいたけど――あのまま雨宮家で生活していたら、なんて、ちっとも考えた事なかった。でもこうやって、考えてみると、確かにって思う。叔母さんの言う通り、同居を続けるのは大変だっただろうって。
 そんな簡単な事、一度も考えつかなかったなんて。
『野ばらちゃん?』
「は、はいっ」
『遠慮しなくていいから。大地は男の子だから、追い出してくれて――』
 叔母さんの声が途中で途切れる。
 それは、叔母さんがしゃべるのをやめたからじゃない。携帯が、私の耳から遠ざかったからだった。
「大地」
「あ、俺。うん、今目ぇ覚めたわ」
 いつ起きたんだろう。大地は私の携帯を片手に、電話の向こうの叔母さんとしゃべってる――けど、本当に起きているか怪しい。座っているのにフラフラしてるって、どう言う事。
「ん、うん。今から友達の家にでも行くわ」
「どうやって! その調子じゃ、自力で歩くのも無理でしょ!」
「ああ、大丈夫、うん、気にすんな」
 何か、大地と叔母さんとの間で勝手に話がまとまりそうだけど、酔っぱらいの大地と、大地の状況が詳しく判ってない叔母さんとの間で、まともな判断ができるわけがない。
 私は手を伸ばして、大地から携帯電話を取り返した。
 ほら、私が取り返せる時点で、もうまともじゃないんだって。
「もしもし。代わりました。野ばらですけど」
『ああ、大地、起きたみたいね。本人も大丈夫って言ってるみたいだし……』
「酔っぱらいの大丈夫なんて信じちゃ駄目です! ひとりで立つ事もできないくらいなんですか! だから、うちに泊めますからね!」
 叔母さんと、それから、携帯取られてぽかーんとしている大地にはっきり聞こえるよう、大きな声で言い放つ。
『でも、大地は、男の子だし』
「もう、大地くんを少し信用してください! おかしな事にはなりませんし、私も気にしませんから! いいですね!」
『でも……』
「では、失礼します!」
『あっ』
 まだ電話の向こうから声が聞こえていたけれど、強引に切った。
 急に静かになる。大地はばつが悪そうに、かたく閉じた唇を歪ませている。
「布団敷くから、ちょっと端に寄ってて」
 少し意地になっていたのかもしれない。気にしすぎの叔母さんと大地に対して。自分の思いこみに気付いた恥ずかしさを、隠したかったのも手伝って。
 押入から布団を二組取り出して敷くと、大地は表情に浮かべる困惑を更に強めて、ぼりぼりと頭をかいた。
「野ばら」
「何」
「泊めてくれるのはありがたいけどさ、俺、一応、男なんだけど。もう少し警戒したほうがいいんじゃないの?」
「対策ならちゃんとあるけど?」
 首を傾げる大地に見せつけるように、布団と布団の間に、おじいさんとおばあちゃんの遺影を並べた。
「おじいちゃんとおばあちゃんが見てる前で何かできるもんならしてみなさい」
 大地は小さく吹き出して、両手を上げる。降参、の意味だろうか。
 枕に顔を埋めるように、片方の布団に倒れ込む――と、十秒もたたないうちに、寝息を立てはじめた。
 よくもまあ、その状態で、あんな強がり言えたものだ。
 私はため息を吐きながら、大地に掛け布団をかけ、その場を離れる。
 軽くシャワーを浴びたり、顔を洗ったりして、最低限の支度だけしてから戻ると、布団からはみだした大地の手が、私の布団の端っこを、きゅっと掴んでいた。
 雨宮家で一緒に暮らしていた頃を思い出した。まだ小さかった私たちは、ためらいもなく、同じ部屋で布団を並べて眠っていた。小さな大地は心細いのか、必ずと言っていいほどに、私のほうに手を伸ばして、布団の端を握っていたっけ。ちょうど、今やってるみたいに。
 酔っぱらいだから大丈夫だと思いつつ、起こさないように慎重に、私は布団の中に潜った。
 そうして目の前にきた大地の手は、あの頃よりもずっと大きくて、私はつい手を伸ばし、そっと触れてしまった。
 大きいだけじゃない。ごつごつしていて、力強くて、ずっと頼もしくなってる。
 うん、無理だなあ、と、素直に思えた。
 一緒に暮らして、一緒に眠るなんて、無理だったに決まってる――って。


 秋はそもそも、もの悲しい季節なのだろうけれど、自分の中にある寂しい気持ちが強くなる理由は、季節のせいではないのだと思う。
 赤く染まった世界と、冷たく吹きすさぶ風のせいで、思い出してしまう。ひとりきりになってしまった記憶を――おばあちゃんが亡くなったのが、一年前のこの季節だったから。
 今日はおばあちゃんの一周忌。去年はじめて着た喪服を、また着る事になった。目に映る人すべてが黒を着ている事も、気分が暗くなる一因かもしれない。
 でも、一年前より、ずっと良くなってる、そう思う。おばあちゃんの事を忘れるつもりはないけれど、一年と言う時間は悲しみを少しずつ浄化してくれた。雨宮家の人たちと顔を合わせる事も、苦痛じゃなくなった。私自身の心構えも変わってきているし――だから私は、勘違いをしていたのかもしれない。
 何があっても大丈夫、とか。
 どんな事でも乗り越えられる、とか。
 そんな風に、思い違いをしていたのかもしれない。

「野ばらちゃん、申し訳ない」
 食事の席で、正面に座っていた雨宮の叔父さんが、突然頭を下げてきた時に、嫌な予感がした。
「やめてください」
 とっさにそう言った。
 表向きは頭を下げないでくださいって意味に聞こえたかもしれないけれど、本当は違ったのだと思う。何か言うのを、何か悲しい事、私にとって都合が悪い事を言うのを、やめてくださいと、そう言いたかったのだと思う。
「あの家から、立ち退いてほしいんだ」
 けれど私は叔父さんの口をふさぐ事なんかできなかった。
 叔父さんが言い辛そうに、ゆっくりと吐き出したものは、想像や覚悟を遥かに凌駕していて、痛みを伴うその言葉に、息が詰まりそうになった。
 今まで、色々な目にあってきたと、思う。
 だから大抵の事を、耐えるか、受け流す事ができるくらいのものを、自分は持っているんだと思ってた。比較的気持ちが前向きになっていた最近は、なおさら。
 でも、それは。
「どうして、ですか?」
 気持ちは動揺していたけど、頭の中は妙に冷静で、このくらいは訊く権利があるだろう、と思った。
 雨宮の叔父さんは困ったように頭をかく。その仕草は、いつかの夜に大地が見せたものに似ているなと、ぼんやり考える。
「実はその……結構な額の借金が、あってね。弁済のために、まとまった金が必要なんだ」
 ありふれた理由だな、と思った。
 叔父さんはそれ以上詳しく説明しなかったけれど、きっと自分で作った借金じゃないんだろうなとも思った。この人は、姉に子供の養育を押しつけられるような人だから、他にも押しつけられたんじゃないかって。
 可哀想だと思うべきなのか、ばかばかしいと思うべきなのかも判らなくて、でも、頷くしかないんだろうなと考えていた。だけど素直に頷けるほど、私にとってのあの家は、どうでもいいものじゃない。膝の上で握りしめた拳を、震わせる事しかできなかった。
 そんな時、隣に座っていた大地が、拳で机を強く叩いた。
「オヤジが勝手にできんのか、そんな事!」
 机が強く揺れて、お茶の表面が大きく揺れる。
「あれは元々ばあちゃんの家だろ!? って事は、遺産の半分は野ばらの母親のもんじゃないのか?」
 ああ、そうだ。そうだった。私もそう思っていた。
 あのおばあちゃんの家は、今は母親のものなんだろうって。だから、遠慮なく暮らしていた。あの人は何もしてくれなかったから、このくらい利用させてもらってもいいだろうって。
「いや、違う。姉さんはすべての遺産相続を放棄してたからね」
「なんでっ」
「野ばらちゃんの養育を俺が引き受ける代わりに、そう言う話になってた。だから、あの家は今、俺の名義になっている」
 これまでたくさんの事を知らされてきたつもりだったけれど、まだ知らない事がたくさんあるのは、私が子供だからなのかな。
 何だか情けない気持ちになった。この一年、雨宮家には世話にならない! なんて気持ちでバイト頑張ってたのに、知らないうちに世話になってたなんて。
「借金さえ返せてしまえば、あとは何とかなるんだ。だから、引っ越し先のアパートの家賃を上乗せして、引き続き仕送りはさせてもらうよ。野ばらちゃんが就職するまで、あと一年半くらいだしね」
 ただでさえ、お世話になっていた人に、そこまで言われてしまったら。
 観念して、黙って頷く以外に、何ができると言うのだろう。
「ありがとう!」
 叔父さんが私の手を取る。かたく握って、それからもう一度、頭を下げた。
 まるで、祈っているみたい。

「ただいま」
 誰も居ない家に帰る。
 暗くて、しんと静まり返った、冷たい場所。だけど長年暮らした場所。今は、私だけの場所。
 でも叔父さんと、出ていく事を約束してしまった。それも、できれば、今年中に、と。
 この家に帰ってこられるのは、あとどれくらいだろう。何十回――とにかく、数えられる回数なのは間違いない。
 イヤだ。
 イヤだ、イヤだ。イヤだ。
 叔父さんの前で飲み込むしかなかった言葉が、頭の中を回る。
 悔しい。
 まただ。また、こうなった。また、誰かの都合で振り回された。
 それは私が子供だからなんだ。私がちゃんとした大人だったなら、強い、誰かの力を借りなくても生きられる大人だったなら、こんな風にならずにすんだはずから。悔しいけど、悔やむ事しかできない無力が悪いんだ。従う事しかできないからいけないんだ。
 こんな想いをしたくなければ、従わなくてもいいだけの力を、手に入れないといけないんだ。
「はやく」
 吐き捨てるように呟いて、息苦しい喪服を脱ぎ捨てる。
 その途中、戸棚の上に置いておいた封筒が、視界の端を掠めた。
「大人にならなきゃ」
 夏の夜、私は目を開けたまま夢を見てしまった。
 学祭の日に、夢に向けて少しずつ歩き始めたはずだった。
 ガーデニングについて学ぼうと思って、大地に本を借りて――あと、スクールでちゃんと学ぼうと、資料を取り寄せていて。
 スクールから資料が届いたのは、三日前。丁寧に封筒を開けて、中身を確かめた。
 少し気持ちを落ち着けて、一昨日の夜、パンフレットの隅々まで目を通した。
 そして昨晩、間違えないよう丁寧に、申込書に記入した。返信用の封筒に入れて、封をして、あとはポストに投函するだけだった。
「馬鹿みたい」
 私には、こんな夢を見ている余裕なんかなかったのに。
 封筒を引き裂く事に、ためらいはなかった。紙が破れる音は、心地よさと痛みを同時に、私の胸に届けた。
 はやく。
 はやく、立派な大人に、ならなきゃ。


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Copyright(C) 2012 Nao Katsuragi.