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四章



 いいかげんもう無理だろうと、アーロは思いはじめていた。心が折れると言うのは、まさにこの事だと。
 逃げ、隠れ、休み休み戦ってきたが、もう限界だ。四肢がまるで金属の塊になったかのように重い。手も足も、自分の思い通りに動いてくれる気がしなかった。
 こんな事なら昼間、師に課された修行である山登りを、まじめにやらなければ良かったと思う。そうであればもう少し、体力がもっただろうと思うのだ。
 アーロは柔らかな土に腰を下ろして足を放り出し、木の幹に寄りかかる。草や土の匂いが混じる夜の冷たい空気が、体を冷やしてくれるのが心地よかった。このまま眠ってしまえたらどれほど楽だろう――朝になったら風邪をひいているかもしれないが、今の状況を思えば、それですら幸せな事に思える。
 これまでの間に何人と戦ったのだろう。十を過ぎたあたりから数えるのを忘れてしまったのではっきりとは思い出せないが、三十に近い気がする。囲まれた時に目にした以上の人数を戦闘不能にしたと思うのだが、見えてないところに何人居たかが判らない以上、素直に喜べなかった。実は全部で百人居ました、などと言われたら、心は折れるどころか粉々に砕け散るに違いない。
「お兄ちゃん、大丈夫?」
 傍らに膝を着いたメイヴェルが、伸ばした袖を握りこんでからアーロの顔に触れる。汗を拭いてくれているのだと気付くと、苦しさで強ばっていた表情が自然と緩んだ。
「当たり前だろ」
 妹の顔を見、声を聞くだけで、失われた気力がみるみる蘇ってくる。それどころか、体力までも回復している気がした。もう剣を持てないのではないかと言うほど弱っていたはずの握力を取り戻し、剣を振り回したい気分になる。
 そうして、守りたい存在がある幸せを全身で感じていたアーロは、しかし次の師の言葉を聞いて、少なからず気落ちした。
「近付いてきてるねぇ。四人、かな。いや五人か」
 同じく気落ちしたのだろうか。隣に座るヨシュアが静かに息を吐いた。その横顔には、疲労の色が浮かんでいる。
 メイヴェルはアーロの袖を掴んだ。目を固く閉じ、アーロの肩に額を預け、強く祈っているようだった。おそらくは、気付かず通り抜けて欲しいと。それはアーロの望みでもあった。できる事ならば戦わず、次に備えて体力の回復に勤めたい。
 だがそれも難しそうだ。徐々に近付いてくる集団の、丁寧に周囲を探る様子を感じて、アーロは早々に諦めた。
 これまでさんざん、紐やら落とし穴――メイヴェルの力で穴を掘り、アーロが周囲と同化しやすい色に染めた布を被せた、やはり簡易なものだ――やらの罠にはめてきた。ゾーグの音響の王の力で別の方向に気を引いた事もあった。そうした中で彼らは、学習したのだ。棒や剣などで足下に仕掛けがないか探している。音に惑わされないよう、しらみつぶしに目で探す。更に、視覚的なごまかしを警戒しているのか、何もなさそうに見える場所を棒などでつついていた。そこまでやれば、時間はかなりかかるだろうが、いずれ見つかるのは確実だ。
 ヨシュアが短剣を構える気配がした。この兄弟子も諦めて、今戦う覚悟を決めたのだろう。
 アーロも剣の柄に触れる手に力を込める。強く握ったつもりだが、指先の感覚が鈍っていて、上手く握れている自信がなかった。
「メイヴェル」
 妹の耳に唇を寄せ、小さな声で囁く。
 小刻みに震えていたはずの体を一瞬強ばらせてから、メイヴェルはゆっくり顔を上げた。大きな瞳は潤んでいて、今にも涙がこぼれ落ちそうだった。
「心配するな。俺たちに任せとけ」
 少しだけ間を空けて、メイヴェルは頷いた。きっと本当は不安で仕方がなくて、任せたいなどと思っていないのだろう。
 けれど、ここで頼ってもらえなければ、兄としての立場がないではないか。
 残った力を奮い立たせ、アーロは立ち上がる。ヨシュアが立ち上がったのもほぼ同時で、ふたりはどちらからともなく目を合わせた。
 敵との距離は縮まっていた。目算では、十歩ほど。まだ少し遠い。動き出すのは、一瞬で間を詰められる距離に近付いてからだ。
 音を立てないよう静かに、ゆっくり、呼吸をする。そのたびに、向こうが動く音がする。距離は九歩、八歩、七歩――もう少しだ。
 先頭の男が持つ棒が、たん、と土を叩く音が、動き出す合図だった。アーロとヨシュアは同時に飛び出し、男たちは小さく唸った。
 ヨシュアが全体重をかけて棒を踏むと、先頭の男が動けない事に動揺する。男が「棒から手放せばいい」と気付く前に、アーロの剣が男の肩を貫く。
 その剣を引くよりも早く、横から刃が襲ってきた。受け止める事もその場で上手く避ける事もできないと、瞬時に判断したアーロは、全力で後退する。
 そうして生まれた空間に、ヨシュアが素早く体を滑り込ませた。短剣を逆手に握った拳を下から突き上げ、柄で男の顎を強打する。少しだけ浮き上がった男の体は、地面に倒れると、あとは悶えるだけだった。
「もう限界だ」と思っていたのは自分だけなのだろうか。兄弟子の未だ鮮やかな動きを間近で目にしたアーロは思う。
 だが、そうではないとすぐに知る事となった。
「先輩!」
 たったひとり倒しただけですでに肩で息をしはじめたヨシュアの反応は、普段と比べ明らかに鈍っていた。斜め後方から突き出された剣の気配に気付くのが遅れ、そこから無理に避けようとしたため、大きく体勢を崩してしまう。続いて振り下ろされる斧は、もう避けきれなかった。
 ヨシュアが短剣の刃で斧を受け止めると、激しい金属音が響く。一瞬遅れて、鈍い音。刃に亀裂が入り、金属片が地面に落ちる。
「先輩!」
 武器を失った兄弟子を案じたアーロは、斬り結んでいた相手を力で押し返してから、ヨシュアのそばに駆け寄る。
「馬鹿か、お前は!」
 しかし兄弟子からもらった言葉は、叱咤だった。
 ヨシュアはアーロの袖を掴み、引っ張る。強い力に引きずられ、アーロの体は二歩前進する。続いて、風を切る音。衣服が引き裂かれる音。押し殺した兄弟子のうめき声。わずかに視線をずらすと、鮮血がしたたり落ちていた。
「これは、やばい、かもなぁ」
 ヨシュアは左手で傷口を押さえながら、小さく呟いた。
 兄弟子が弱音を吐きたくなる気持ちも判る。ただでさえ疲れている状況で、武器を失い、怪我を負ったのだから。右の二の腕を少しと、今すぐ命に別状があるような大きな傷ではないが、戦いの中で利き腕の自由度が減るなどと、気にしないわけにはいかない。
 その怪我は、俺のせいだ。
 剣を構え、ヨシュアより一歩前に出たアーロは、敵を牽制する。無理かもしれなくても、残り全部を自分ひとりで引きつける覚悟を決めた。決めなければならなかった。
 まだ立っている男たちは、顔を見合わせた。自分たちが有利だと判っているのだろう。アーロたちにとびかかる機会を見計らっている様子だった。
 今のうちに、ひとりでも倒せれば。アーロは男たちをじっと見つめ、隙を探り、好機を伺った。まだ勝つ事を諦めていなかった――複数の足音が、耳に届くまでは。
 ヨシュアが息を飲む気配がする。男たちは勝利を確信して笑う。
 アーロは絶望して、剣を下ろそうとした。せめてメイヴェルとゾーグが見つかる可能性を下げるために、遠いどこかに移動しようと。そのくらい当たり前に、足音は敵の仲間だろうと信じ込んだ。エイラが順調に街までたどり着いていたとしても、まだ無理だろうと思ったからだった。
「動くな!」
 だから、響いた大きな声の中に、敵意やそれに類似する嫌な空気を感じなかった時、ひどく驚いた。素直に、言われた通り動くのをやめてもいいのではないか、と。
 あっと言う間に取り囲まれ、槍を突きつけられる。その時にはすでに明かりが届いていて、彼らが自警団である事が判った。ヨシュアは長い息を吐きながら刃を半ば失った短剣を投げ捨て、逆に襲撃者たちは身を寄せあい怯える事となった。
「皆さん、大丈夫ですか!?」
 自警団のひとりが、アーロたちに近寄ってくる。名前は忘れたが、見覚えのある男性で、心の底から安堵したアーロは、全身から力を抜いた。もはや立ってもいられず、その場に座り込んだ。
「大丈夫、です」
 アーロが答えると、自警団の男性は満足そうに頷く。そして、もはや逃げる事すら諦めた襲撃者たちを捕らえる事に力をそそいだ。
「お兄ちゃん! ヨシュア!」
 自警団が来てくれた事を理解し、安全を確信したのだろう。隠れていたはずのメイヴェルがいつの間にかそばに居て、アーロに飛びついてくる。
「助かったなぁ」
 圧倒的な人数差に抵抗する事もできず、順調に拘束されていく男たちをぼんやりと眺めながら、ヨシュアが呟いた。
「助かりましたね」
 言葉にすると、ようやく実感が沸いてくる。ああ、助かったのか。もう、戦わなくていいのか――全身を襲う疲労が一斉に主張をはじめ、もはやアーロは指一本動かせなくなっていた。
「正直俺、もう無理だと思ってたわ」
「俺もです」
「思ったより早く来てくれて助かったなー! さすが俺のエイラ! 愛の力は偉大だ!」
「まあ、愛の力が偉大であるのは否定しませんよ」
 エイラからヨシュアへの愛が役に立ったとは――そもそも存在しているのとも――思えないけれど、面倒くささが先に立ったので、アーロは否定的な言葉だけ飲み込んで返した。実際、愛の力は偉大だ。それがなければ、アーロはもっと前に倒れていたかもしれない。
 それに、自警団がこんなに早く動いてくれたのは、きっと。
 などと思ったが、それも飲み込んだ。ヨシュアの前で口にしようものなら、絶対に面倒な事になると確信していたからだ。


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