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四章



 全力で駆け下り続けてきたせいで、呼吸は激しく乱れていた。肩が上下し、肺が苦しい。
 人気のなさを確認したエイラは、近くにあった木に寄りかかると、自らの胸ぐらを掴むように胸を押さえ、可能な限り音を殺しながら、ゆっくりと深呼吸をした。途中噎せ込みそうになったので、その場にうずくまり、腕を口に押し当てた。
 落ち着いたところで、また立ち上がる。振り返ると、街の灯りがすぐそこに見えた。あともう少しだと実感できると、残った力を振り絞るは容易だった。
 歩みを進めるとほどなくして、土の傾きがなだらかになる。やがて平地にたどりつくと、安堵感が心に生まれた。だが、面倒なのはここからだ。今まではそこかしこに生えていた木々がエイラの体を隠してくれたが、山を下りてしまえばそれがなくなる。街の門をくぐるまでの間、エイラを守ってくれるものは何もないので、追っ手に見つかってしまう可能性が高い。
 ここに下りてくるまでの間にも、水の王や音響の王の力を借り、できる限り捲いてきたつもりだが、体調が万全まで回復していない事もあって、脚力と持久力においてエイラのほうが劣っている。開いた差をまた詰められた可能性は充分に考えられた。
 だが、ここで足を止めるわけにはいかない。見つかろうと何だろうと、何とか街に入れれば――門まで辿りつければ。
 最後の木があるところまで歩いて下りたエイラは、そこでもう一度木に寄りかかった。山に振り返ってみるが、近くに人が居る様子は見えない。とは言え向こうも隠れながら移動しているであろうから、確信は持てなかった。
 もう一度音響の王の力を借り、音で探ってみるべきかと考えた。だが、ここに至までに魔法を使いすぎていて、あと何度も魔法を使えそうにない。残った力を今使っていいものか、後にとっておくべきか――
 迷っている間にも追っ手との距離が縮まっているかもしれない、と考えが至った瞬間、エイラはすぐに走る事に決めた。最後に一度だけ深呼吸をして、思い切り地面を蹴った。
 人の声も足音も響く様子はない。よかった、これならきっと大丈夫だ。同じ速度で走りながら、エイラは口元を緩める。みんなの元に帰り、襲撃者を退け、またいつもの日常を取り戻すまでもう少しだと、無意識に喜びがこぼれ落ちていた。
 だが、門までの距離があと半分ほどになった頃だろうか。風を切る音がエイラの耳に届く。徐々に近付いてくるそれに、走りながら振り返ると、エイラより二歩ほど後ろの地面を、一本の矢が抉った。
 見つかった。
 走り続けているのに、急に寒くなった。流れ落ちる汗が冷たいものに感じた。
 落ち着け、と、自分に言い聞かせる。この闇夜に、わざわざ矢を使っている。足では追いつけない、それなりの距離がまだあいているのだろう。ならば、狙いをつけさせなければいいだけだ。
 エイラはヨシュアの宝玉を握り込み、自らが放つ灯りを消した。自分の周りが見えなくなっても、街の灯りがすぐ近くに見えるから、どこに向かって走ればいいかは判る。足下がやや不安だが、たとえ転んだとしても、矢に狙われるよりはましだろう。
 かすかな灯りだったはずだが、なくなった時の闇の濃さに、一瞬だけ息が詰まる。意識して呼吸し、顔を上げた。街の灯りだけを見て、ひたすら走ろうと決めた。
 重厚な音が響いたのはそれからすぐ後の事だ。街を囲む外壁の一点から、強い光が溢れだして、ああ門が開いたのか、と気付いた。
 けれど、なぜ。
 夜は外部からの出入りを制限するため、基本的に門を閉めているはず。門のすぐ横にある、人間ひとりが通れる程度の通用口が、事情に応じて開く――エイラもそこを通してもらうつもりだった――事はあれど、門そのものが開くとは、かなり例外的な状況だった。
 目を凝らし、そこに何があるかを確認する。どうやら人影のようだ。ひとりやふたりぶんではなく、数十人ぶんありそうな気がする。距離を詰めると、よりはっきり見えるようになり、彼らが自警団である事が判った。中心に居るのは――ルシアンだ。
「ルシアン様!」
 その姿を見つけ、思わず、大声で呼んだ。頼りたかった人が思ったよりも近くに居た幸運に、叫び出したいほど感謝したくて。
「エイラさん!?」
 声に振り返ったルシアンの、驚いた顔、声。足を止めたエイラは胸をなで下ろし、再び息を整えるために呼吸を繰り返す。ルシアンの向こうに、先ほど忠告をくれた女性の姿を見つけるまで。
 そうだった。うっかりしていた。ルシアンは、エイラに隠し事をしていたのだ。あの襲撃者たちの正体や目的を知っていながら、エイラに何も教えてくれなかった。
 どうして秘密にしていたのか、その理由は判らない。だが、思うのだ。理由如何によっては、この人は頼れないのかもしれないと。
「どうしました、エイラさん。先ほど、修行場のほうに戻られたとお聞きしましたが」
「え……ええ……」
 迷う。だが、どうしようもなかった。自警団以外の誰に戦力を借りれると言うのだ。
 万が一ルシアンが駄目だったとしても、他の自警団の者たちには頼れるかもしれない。そう覚悟を決め、エイラは他の者たちにも聞こえるよう、はっきりとした声で答えた。
「一度戻りましたが、襲撃にあいました」
「まさか」
「闇の眷族を神の使いと崇める者たちでした」
 ルシアンは唇を歪め、自警団の者たちは騒然とする。やはり、彼らみんなが知っているようだ。<守護者>を狙う者たちの存在を。
「今宵何か動きがあったようだと報告を受けて来てみましたが、やはり」
 ひとりごとを呟いた後、ルシアンは再びエイラに問いかけてくる。
「上にはまだどなたかか残って?」
「師ゾーグと、弟子が三人。ヨシュアと、アーロと、弟子入りしたばかりのメイヴェルです。彼らはできる限り隠れてやり過ごしていると思います。私は救援を呼ぶためひとり下りて参りました」
「判りました。あとはお任せください」
 ルシアンは力強く頷き、部下たちに振り返った。
「当初の予定通りだ。みな、邪教の使徒たちの捕縛に尽力せよ!」
 自警団の者たちはそれぞれルシアンの声に応じると、山に向けて進んでいく。「すぐ近くにも居るようですから、気を付けてくださいね」と、エイラは彼らの背中に呼びかけた。
「エイラさんがご無事でよかった」
 門付近に残ったのが、エイラとルシアンふたりだけになると、ルシアンの声が急に柔らかくなった。
「戦いながら走り抜けてこられたのでしょう。ひどくお疲れの様子です。すぐそこの自警団の詰め所でよろしければ、場所をお貸しできますので、ゆっくりお休みになられてくださ……」
「どうして、です」
 耐えきれず、エイラは厳しい声音で問いかけた。
 ルシアンの顔をまっすぐ見上げ、きつく睨む。するとルシアンの瞳は、動揺をはっきりと映し出して瞬いた。
「なぜ教えてくださらなかったのですか。あの時、あなたはご存じだったはずです。私を、私たちを狙う者たちの正体を、目的を。それを事前に知っていれば、私たちは……!」
 ルシアンが目を反らした。
 大きな手で、大きな剣の柄を握る。ゆっくりと剣を抜き、構えると、刃が鈍く光った。
 エイラは息を飲み、けれど気持ちだけでは負けまいと、視線を緩めなかった。
「なぜ、貴方は、ここに居るのですか」
 新たな問いを投げかける。一番知りたい事を、聞きたくて。
「それは、もちろん」
 風を切る音。
 けれど先ほどの矢の時と比べて、強さも、激しさも、遙かに上だった。
 二度と目を開けられないかもしれないと思いながらも、無意識に目を閉じていた。けれど、痛みも、脱力感も、何もない。代わりに聞こえたのは、低い悲鳴。エイラは慌てて目を開き、そして、見た。
 ルシアンに負けず劣らず長身の男の首元に、大きな刃が突きつけられている。突きつけているのはもちろん、ルシアンだ。
 相手の人物はいつの間に近付いていたのだろう。いや、それ以上に、何者なのだろう。ようやく我に返ったエイラは、握りしめていた光を解放し、相手の顔を確かめた。
「貴方は……!」
「この者をご存じですか?」
 男を睨みながら、ルシアンはエイラに問う。自分のほうを見ていないと判っていながら、エイラは頷いていた。
 もちろん、知っている。ここしばらくは仕事と療養で住居を離れていたので顔を合わせる機会がなかったが、それまでは五日に一度、必ず顔を合わせていた男だ。名前は、そう言えば聞いた事がなかった。でも、感じのいい人だと思っていた。麓の街から重い荷物を運んで来てくれているのに、いつも笑顔だったから。
「定期的に、うちに荷物を届けてくれている……」
 その青年が、エイラを? ルシアンを? 襲おうとした。この状況で――つまり彼も、襲撃者の仲間、なのか? 教団の者、と言う事だろうか。
「なるほど。そう言う立場の者なら、貴女がたの動向を掴みやすいでしょうね。エイラさんもアーロくんも不在なら、ゾーグ殿はひとり。殺害するはたやすい、と判断したのでしょう」
 ルシアンの予測に、青年は何の反応も示さない。だが当たっているのだろうと、無表情を貫こうとしている青年の態度を見て、エイラは確信していた。配達に来てくれている時の、朗らかな笑顔はどこにもなかった。
 体が震える。ずっと監視されていたのだ。それに気付かず、平和な日常を送っているつもりでいたのだ。なんと、恐ろしい事だろう。
「放しやがれ、この野郎!」
 剣を片手に持ち変えたルシアンは、あいた片手で青年の腕を掴んだかと思うと、あっと言う間に捻りあげる。
 青年は呻き声を上げ、巨体は地面に伏した。その背中を押さえつけるように、屈みこんだルシアンは膝を乗せる。
「この者からも詳しく話を聞いたほうがいいようです。捕らえて、そこの詰め所の者に預けてきますから、エイラさんもご一緒に」
「いえ」
 エイラは強く首を振った。不思議そうに見上げてくるルシアンの眼差しとは、けして目を合わさずに。
「私は、師や弟弟子たちの元に戻ります」
 ルシアンの瞳に宿る光が、少しだけ陰ったように見えた。
「みんなはまだ、戦って、逃げて、隠れている最中なんです。私も、彼らと一緒に」
「そう、ですか」
 小さくため息を交えてから、ルシアンは続けた。
「時間がないでしょうから、一番最後の質問にだけお答えしますね」
「え……」
「私がここに居るのは、貴女がたを狙う者たちが今夜動いたとの情報を掴んだからです。貴女を、守りたかった。それだけです」
 困ったような、寂しそうな、それでいて優しい微笑みは、ルシアンがいつもエイラに見せるものと何ら変わりない、真摯なものだった。
「この者を拘束したら私も行きます。あとの言い訳は、その時にさせてください」
 疑った罪悪感と、信じていいのかと言う不安と、まだ疑い続ける警戒心とがない交ぜになり、エイラは一瞬戸惑う。けれど、今自分が一番したい事は、仲間たちの元に駆けつける事なのだと思い出せば、頷く以外の選択はできなかった。
「では、後ほど」
 短い挨拶をして、エイラは踵を返す。
 希望が見えてきたからだろうか。下りてきた時よりもずっと力強い足取りで、再び走りはじめた。


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