INDEX BACK NEXT


三章



「なんだか、懐かしいよ」
 離れていたのは十日にも満たない期間だと言うのに、麓の街にたどり着いた時にエイラが強く抱えたのは、懐古の念だった。療養中、ルシアンや村人が気遣ってくれたので、かなり快適な時間を過ごしていたはずなのだが、慣れない場所で長く暮らしていたのだ。精神的に疲弊していたのかもしれない。
「もう少しで、もっと懐かしい師匠や弟弟子に会えるよ――と」
 住み慣れた家と修行場がある、山の中腹の方向を見つめていたヨシュアは、ふと眉間にしわを寄せた。口元を押さえ、何か考え込んでいる。
「どうかしたのかい?」
「うーん、したような、してないような」
 曖昧な回答に少々苛立ったエイラは、ヨシュアを強く睨みつけた。エイラがそうしてヨシュアを無言で責める事はよくある日常で、すぐに察したヨシュアは、肩を竦めてから応じる。
「ま、避けられない事だし、だったら心がまえはしておいたほうが良いだろうからね。一応言っておくよ。たぶん、戻ったら、師匠の弟子がひとり増えてる」
「たぶん?」
「<守護者>の才能ある女の子を、アーロが一緒に連れてっているはずだからさ。長年つきあってても師匠の考え方とか判らない事多いし、何らかの理由で弟子入りを断っている可能性もあるから、一応『たぶん』をつけておいた」
 説明にひとまず納得してから、エイラは次の質問を投げかけた。
「才能のあるなしを、君たちで判断できるのかい?」
「普通はできないだろうけど、今回ばかりは誰でも判るよ。その子、すでに契約済みなんだ。大地の王と」
「なるほど」
 理解した事を簡潔に告げる自身の声を耳にして、無理に平然ぶっているなとエイラは思った。
 大地の王、その単なる呼び名を聞くだけで、胸が騒いでしまう。首から下げた、もはや力を失った宝玉を握りしめる。そうして脳裏によみがえりかけた少年の面影を、エイラは必死に消そうとした。
 しかし、続いてヨシュアが口にした言葉が、消そうとしていたものを呼び戻す。
「その子、コーラルの父親違いの妹でね」
 胸の中で騒ぐものが、大きくなった。それは亀裂のような痛みへと化し、内側から大きくエイラをゆさぶった。
 家族とは、コーラルが何よりも求め、何よりも拒絶したものだ。稀薄すぎる繋がりだった。半分とは言え血の繋がった妹が居るなどと、エイラは聞いた事もなかったけれど、彼は知っていたのだろうか? 知っていたとすれば、余計に悲しいような気もするけれど。
「そう……なのか」
 エイラは長くゆっくりと息を吐いた。そうして、乱れた心を少しでも落ち着けようとした。
「その子、コーラルに似てるのかい?」
「容姿の話をするなら、かなりね。兄妹である事を疑うのはちょっと難しいかも、ってくらいには、ふたりとも母親似だから」
 言葉にこもる力は自然で、当たり前の事実を当たり前に語っているだけのように聞こえる。けれどそうではないのだと、苦々しくゆがむ表情が、語らずともエイラに伝えてきた。
「会ったんだね。コーラルの母親に」
「会ったよ。色々隠して我慢して、半年くらい使用人をした」
「よっぽど嫌だったんだね」
「判る?」
「判るよ。顔に出ているからね」
 ヨシュアは両手を彼自身の輪郭に添え、筋肉を動かし無理矢理笑顔を作った。
「正直者だなあ、俺」
 嘘つけ、と、とっさに思ったエイラだが、そこはあえて何も言葉にしなかった。
「今もまだ、憎いのかい?」
 作った笑顔がこわばる。力を失った両手がすべり落ちると、現れたのは表情をなくした真顔だった。「んー……」と、意味のない音を響かせながら空を見上げ、何度か瞬きをしたかと思うと、盛大なため息を吐く。
「否定したら、嘘になるよなあ」
 軽く首の後ろを掻きながら、ヨシュアは呟いた。独り言だったのか、エイラに伝えるつもりだったのか判らない掠れた声は、確かにエイラの耳に届いた。
「でも、あの女もようやく反省したみたいだしさ」
「許してあげるのかい?」
「まさか」
 その時ヨシュアが見せた冷笑は、自分に向けられたものではないと判っていても心に痛みが残るほど、暗いものだった。
「馬鹿馬鹿しくなっただけだよ。そもそもあんな女、憎む価値なんかなかったんだ。愛する価値なんか、もっとなかった」
「そう、か」
「で、エイラは?」
「ん?」
「エイラはまだ憎い?」
 問われたエイラは、静かに首を振ってから返答を紡いだ。
「私は元々憎んでなんかいないよ。ただ、後悔を引きずっているだけだ」
 ヨシュアは慌てた様子でエイラに振り返った。
「なんで」
 また真顔になっている。どうやら本当に判らなくて、不思議で仕方がなく、知りたいらしい。
 判らないものなのだなあ、と、エイラは少しだけ驚いた。何でも判り合っている間柄だとは思っていないけれど――そもそもそんな間柄は存在しないだろうけれど――それでも、このくらいは伝わっているかと思っていたのだ。
「もっとたくさん愛してあげればよかった。大切にしてあげればよかった。そう、今でも思うんだよ。コーラルが、母親の愛情を求めなくても満足できるくらい……ってね」
 正直な想いを吐露すると、急に気恥ずかしくなって、エイラは歩みを早めた。たとえ横からでも、顔を覗かれたくなくて、少しだけヨシュアより前を歩く。
「判ってたよ、あいつは」
 靴音だけが数十歩ぶん響いてから、唐突に届いたヨシュアの声は、涙がこぼれそうになるほど優しかった。
「エイラが愛してくれた事も、大切にしてくれた事も、判ってた。でも、それでも、実の母親の愛情を特別に思いたいくらい、幼かったんだろうさ」
 判ってる。
 本当はそんな事、言われなくとも判っている。
 自分の想いがコーラルに伝わっていなかったなどと、はじめから思っていない。ただ、勝てなかった事が悔しいのだ。親とか、血とか言ったものに。それらが、特に子供時代において絶対的な力を持つ繋がりだと知っていても。
 子供じみた感情だ。愛情など、ひとりからしか受けられないものでも、受けていけないものでもないし、その強さで勝ち負けを競うなど馬鹿げている。そう、頭では理解している、理解しているけれど――どうしてこんなにみじめな気持ちになるのか。
「エイラが気にする事じゃないよ」
 労りの気持ちから出た、優しい力の込められた言葉。
 けれど今のエイラには、苛立ちを助長させ、怒りを呼び寄せる言葉にしか聞こえなかった。
「でも、君は気にするんだろう?」
 足を止めたエイラは振り返り、ヨシュアをきつく睨みつける。
「エイラ」
「ずるいんだ、君は。そうやって私をコーラルから遠ざけて、コーラルを独り占めしようとしてるだろう」
「うーん、そうかもしれない」
「否定もしないのか!」
「さっきも言っただろ、俺、正直なんだって。エイラが、コーラルの思い出を大切にしてくれるのは嬉しいけど、いつまでもコーラルにしばられてるのは、嫌だからさ」
「余計なお世話だ」
「ですよねー」
 おどけた口調は、ふざけているようにしか聞こえなかったが、見せる表情と合わせれば、拗ねているのだと判った。
 判ると、急に気持ちが冷めた。相手の子供っぽい態度を見る事で、自らの幼さを客観的に見る事ができるようになったからだろうか。
「言い過ぎたね。悪かった」
 自身の非を認めたからにはと、すぐに謝ってみたのだが、唐突すぎたのかもしれない。エイラを見下ろすヨシュアの目は、丸くなっていた。
「これだからエイラはなぁ」
「どう言う意味だ」
「いい意味だよ。たぶん」
 本人に悪意はないのだろうが、何となく気に障る言い方だ。何か深く残るような言い返しがしたくて、ヨシュアの神経を逆撫でそうな言葉を探していたエイラは、しかし第三者に名を呼ばれる事で、思考に浸る事ができなくなった。
「エイラ殿!」
 振り返ると、そこに居たのは自警団の女性だった。エイラの護衛をしてくれた者のひとりだ。それなりの怪我を負っていたが、動けないほどではなく、エイラが村で療養している間に街に戻った彼女とはそれきりだった。
「こんにちは。先日は、お世話になりました」
「いいえ、こちらこそ。エイラ殿がご無事で何よりです」
 女性はエイラと挨拶をしたあと、ヨシュアに視線を向けた。ヨシュアが何者なのか、少し気にかかっている様子だが、それよりも急ぎたい用件があるようで、すぐにエイラに向き直った。
「ルシアン様とご一緒ではないのですか?」
 エイラは小さく微笑んだ。自分では見えないが、その笑みに困惑がにじみ出てしまっただろう事は、隣で笑いをかみ殺しているヨシュアの反応で判った。
「そろそろ戻ろうと言う話になった時に、たまたまこの弟弟子が迎えに来てくれましたので」
「そうですか……では、入れ違いになっているかもしれませんね。ルシアン様からお話がありましたか?」
「何の話です?」
「エイラ殿を――ああ、やはり襲撃者たちの目標はエイラ殿だったのですが――襲った者たちの事です。何者なのか、何が目的なのか、少しは判りましたので」
 話だけだと言うのに、エイラはとっさに身構えていた。左手の中に、胸に下げた宝玉を握りしめる。
「聞いて、おりません」
「そうですか。やはり、入れ違いになったのですね。彼の到着は、今朝だったでしょうし」
 女性は「ここまで襲撃がなくて良かった」とでも言いたげに、安堵の息をもらしたが、エイラはとてもそんな気分にはなれなかった。
 入れ違い、と彼女は言う。それは、情報をルシアンにもたらしたものと入れ違ってしまった、と言いたいのだろう。
 だが事実はそうではない。街からルシアンに情報を持ってきた自警団の男性を、エイラは目撃している。彼がルシアンと話し込んでいた事も――その後、ルシアンが「何も判らなかった」と嘘を吐いた事も、知っている。
 どんな意図をもって、彼はエイラに隠したのだろう。心配かけたくなかった? 傷に障ると思った? 自分に都合のいい事ばかりを考えて、震えをもたらす悪寒を追いやろうとしたエイラだが、やはり無責任なほど楽観的にはなれず、湧き上がる不信感を抑える事ができなくなっていた。
「お話、聞かせいただけますか?」
 考えこみ、震えるだけのエイラの代わりに、現実を受け止めてくれたのはヨシュアだった。急いでエイラが顔を上げると、一瞬だけ、気持ち悪いほど爽やかな笑みをエイラに向けてから、女性に向き直る。
「ええ、知っておいた方がいいと思いますから。襲撃者は、とある教団の信者です。我々は便宜的に『異界教』と呼んでおります」
「それって……」
「詳しい事は判っておりませんが、闇の世界は楽園だとか、闇の眷族は人々を楽園へと導く神の使いだとか、だから闇の眷族の殺されるのは幸せな事なんだとか、そう言う教えをしているようで。若い女性の行方不明事件も、やはり彼らのせいのようです。若い女性を餌に闇の眷族を呼び寄せ、彼らにとっての幸福な死を与えてもらうため、とか」
 エイラとヨシュアは、同時に互いの顔を見た。重なる視線は、相手も同じ事を考えているのだと、容易に伝えてきた。
「つまり、彼らにとって私たち<守護者>は、忌むべき存在だと?」
「はい。ですからどうぞ、ご注意ください。山の方面も含めて見回りを強化していますが、隙を縫って強硬手段に出るかもしれませんから」
「ありがとうございます。この件、師には?」
「ちょうど食材の配達が向かうとの事で、手紙を託しました。読んでおられれば、ご存じかと」
 ヨシュアは肩を竦めた。
「師匠の事だから、怪しいかな」
「師匠は怪しくとも、アーロが居るなら大丈夫だと思うけれど……心配だね」
「そうだよな。急ごう。あ、情報、ありがとうございます。また何か判ったら、ご連絡ください」
「もちろん」
 女性と別れたエイラたちは、どちらかともなく走り出していた。颯爽と街を駆け抜け、師たちが待つ家に戻るために。
 胸騒ぎしかしなかった。だが、懐かしの家に戻るまでは、祈るしかできない。師が、アーロが、まだ見ぬメイヴェルが、無事である事を。


INDEX BACK NEXT 

Copyright(C) 2012 Nao Katsuragi.