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三章



 アーロが修行場や住居から離れていたのは、十日ほどのはずなのだが、もっと長い時間が過ぎている気がする。
 それはこの十日間が、良くも悪くも充実していて、とても十日間とは思えないほどの密度があったからだろうか。それとも――十歳から六年過ごした場所に帰ってきたと言うのに、家の中で待ち受ける人物のかもしだす空気が懐かしいどころか、刺すように冷たいせいだろうか。
「た、ただいま帰りました!」
 師ゾーグは屋内だろうと関係なく、いつも通り深々とフードをかぶっていて、顔がほとんど見えない。だと言うのに睨まれているような気がして、アーロは身を竦ませた。
「アンタ、誰だい」
 背筋が凍るほど冷たい声。半歩下がった位置からアーロの袖を掴んでいるメイヴェルが、びくりと体を震わせる。
 アーロはメイヴェルの背中を少し押す事で、妹を隣に並ばせた。
「俺の腹違いの妹です。名前はメイヴェル」
「ほう。で?」
「はい?」
「そっちの小娘の名前は判ったよ。で、アンタは誰だい?」
「ええー!」
 予想外の返答に、アーロは声の裏返った悲鳴を上げた。
「誰って、俺ですよ! アーロですよ! 今は師匠の唯一の弟子の!」
「おや? そうなのかい? おかしいねぇ。アタシの弟子はみーんな卒業しちまって、今はひとりも居ないんだけど」
「え……」
「ついこの間までひとり居たんだけどねぇ。アイツは勝手に出て行っちまったし」
「いや、それ、それが……」
 俺ですよ、と言いたい気持ちを飲み込んで、アーロはとりあえず深々と頭を下げた。
 これはやばい。完全にやばい。
 正直なところアーロは、エイラにたっぷり怒られる事だけしか、予想も覚悟もしていなかった。ゾーグはきっと笑ってあっけなく許してくれるだろうと、勝手に思い込んでいたのだ。何の根拠もなく――なんとなく、そう言う人だろうと思っていたのだ。
「師匠の許可を得ず、勝手に出ていって無茶をして、すみませんでした」
「そうそう、この間、この家に泥棒が入ったみたいでねぇ」
「宝玉もお借りしましたすみませんでした! しかもいくつか力を使い切ってます本当にごめんなさい!」
 本能的な恐怖を感じた時、脳裏をよぎったのは祖父の遺言で、アーロはひたすら謝る事しかできなかった。頭を下げるだけでは足りないと感じると、しまいには床に両手をつける。
 長い沈黙。頭を下げたままのアーロに、ゾーグの表情を伺う事はできない――いや、顔を上げていたとしても、フードに隠されていて見えやしないのだが。
「ところでそこの小娘」
「は、はい」
「名前判ったってさっき言ってたじゃねーかよなんでまだ小娘呼びなんだよ」ととっさに思ったアーロだったが、ここは空気を読んで声には出さなかった。
「飯は作れるか?」
 メイヴェルは怯えつつも、小さく頷いた。
「家事はひと通り、教えてもらってます。あまり上手ではないかもしれませんが」
「まあアタシよかマシだろ。何か、食いもん作ってくれ。材料はそこの箱に入ってるから」
「お……俺も、お手伝いさせていただけますでしょうかー!」
 おそるおそる顔を上げ、アーロが問うと、ゾーグはゆっくりとした動きで首をアーロに向けた。普通の動作なはずなのだが、なぜか不気味だ。
「アンタが食う分はないよ」
「っ……! いえ、はい、判ってます。でも」
「じゃあ勝手にしな」
 その声が、先ほどまでに比べて遙かに柔らかくなっている事にアーロは気付いた。優しい、と言えるほどではないが、怒りはだいぶ収まっているのではないだろうか。
「はい! ありがとうございます!」
 アーロはもう一度深々と頭を下げてから立ち上がった。
 師を怒らせたのは自分の身勝手な行動だ。ならば、本当に許されるために、少しでも師の役に立ち、信頼を取り戻さねば。料理を作る事、自分だけ食事を抜く事が、信頼につながるかどうか判らないが、とにかく今やれる事を懸命にやるしかないだろう。
 それに、メイヴェルひとりだけに仕事をさせるのは可哀想だし。
「お兄ちゃん、お料理できるの?」
 アーロの袖を引きながら、メイヴェルが訊ねてくる。
「まぁ、そこそこ。ここに居る時は毎日エイラの手伝いさせられてたから。先輩だって修行中はそうだった。『ただ飯が何の労力もかけずに出てくると思わない事だね』って言いながら見せたエイラの笑顔の怖さ、今でも忘れないよ……って!」
 メイヴェルと連れて台所に向かいかけたアーロは、重要な件を忘れている事を思い出し、振り返る。
「あのですね、師匠。俺が妹を連れてきたのは理由がありまして」
「聞いてやらないといけないのかい?」
「ぜひ、聞いてください」
「めんどくさいから嫌だ」と言わんばかりの空気を無言で滲ませる師の態度に、アーロがたじろいでいると、メイヴェルがアーロより一歩前に出た。一瞬だけアーロの目を見つめてきたのは、「自分の事は自分で伝える」との意思表示だろうか。
「私、一人前の<守護者>になりたいんです。弟子にしていただけませんか」
 胸の前で握る拳が、かすかに震えている。率直に願いを告げる声も。自分の事を棚に上げ、「どれだけ怯えているんだよ」と思いながらアーロは、しかし勇気を出して行動する妹の姿を微笑ましく見守った。
 ゾーグはメイヴェルの目を真っ直ぐ見つめている――ように見えた。目の動きや、そもそも見えているのかも判らないけれど、なぜかゾーグの視線を感じるのだ。
「なるほどねぇ」
 しばらくしてゾーグがこぼした言葉は、メイヴェルの願いに対する答えと考えるには曖昧すぎた。
「あのですね師匠、メイヴェルは凄いんですよ。何が凄いかって言うとですね、すでに大地の王と契約済みなんです」
「判ってるよ」
「凄いでしょう!?」
「ああ、アタシの勘違いっぷりはただモンじゃない」
 突然師の声音に苛立ちが混じりはじめ、アーロは首を捻った。
「勘違い?」
「ああ、そうだよ。多分、お前を誘ったのは間違いだった」
「はい?」
「お前と会った晩、アタシが力を感じたのは、お前じゃなかった。お前のそば居た、そっちの小娘だったんだろうよ」
「ええー!!?」
 突然の新事実に、めまいがするほどの衝撃を受けたアーロは、強く首を振った。
「いや、だって、師匠、あの晩言ってたじゃないですか。俺の目を見て、そう言う目のやつはいい<守護者>になる、みたいな事! あれ、嘘だったんですか!?」
「いや、嘘じゃないよ。<守護者>になる奴はなぜか大抵青い目だからね。まさかお前の妹も青い目だとは思ってなかったからねぇ」
「え!? 色の話だったんですか、あれ!」
「他に何があるってんだい」
「意志の強さとか、大切なものを守りたいと思う願いの強さとか、闇の眷族を忌む心とか、そう言うの」
「そんなもん、ひと目見ただけで判るもんかね」
 言われてしまえば頷くしかない、完璧な正論だ。しかしすぐには受け入れ難い現実でもあった。
 ここで過ごした六年間は、無駄だったのだろうか。手に入るはずもない力を得ようとしていたのだろうか。はじめからメイヴェルをここに連れてきていれば、あっさりと闇の眷族を退けられたのかもしれない――
「それにしても、ヨシュアに続いて、すでに契約済みの奴が弟子入りたぁね」
「師匠、間に居る俺の存在を綺麗さっぱり抹消するのやめてください……って」
 アーロは周囲をきょろきょろと見回した。
「そう言えば先輩はどうしたんですか? 昨晩帰ってるはずですよね」
「よく知ってるね」
「麓の街までは一緒に帰ってきましたから。もう夕刻だったので、短い時間とは言え疲れているメイヴェルを連れて夜の山道を進むのは嫌だと思って、俺たちは街で一泊したんです。でも先輩は、一刻も早くエイラに会うんだとか言って」
「そのエイラがここに居ないと知って、夜の山道を駆け下りてったんだろうね」
 アーロは絶句した。そして、呆れてものが言えないとはこう言う事なのだと、妙に納得する自分に気付いた。
「先輩って……凄いですね」
「凄いの後に付くのは何だい? 馬鹿か? 阿呆か?」
「まぁ、色々ですけども」
「そんな事より早く飯作りな。アタシは腹減ってんだよ」
「はい、すぐに!」
 とげとげしい師の声に身の危険を感じたアーロは、メイヴェルの腕を引いて台所に向かう。
 どうやらエイラはずいぶん前から居ないようだ。汚れ物がずいぶんと積み上がっているし、鍋の底に少し残るものは、何日も前から放置されているように見えるが、何の食べ物だか判別できそうもない、とても料理上手なエイラが作ったとは考えられないしろものだ。
 新月の夜に合わせてどこかに仕事に行ったのだろうが、それにしても帰りが遅い。どうしたんだろう、と気になったアーロだが、ちらりと振り返って見える師は、空腹によってより機嫌を損ねているようで、とても質問を投げかける気にはならなかった。
 さっさと片付けて、料理をして。それから、離れていた間の話を聞こう。


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