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二章



「やっちゃってから言うのも何だけどさ」
 エイラに引かれるままついてきながら、ヨシュアが話しかけてくる。不安げな、少し弱々しい声。エイラの機嫌を伺っているようだ。きっと表情も、声音に似た様相なのだろう。この時のエイラは振り返る気すら起こらなかったので、予想でしかないが。
「エイラが困ってそうな空気を感じたから勢いで割り込んだんだけど、あの人って、性格悪いわけじゃないし、それなりに金持ちだし、真面目だし清潔感あるし、見た目だって悪くないし、けっこう条件いい男だけど……もしかしてまんざらでもなかった?」
 本当に、今更な問いだ。エイラは呆れて盛大にため息を吐き、肩を落とした。
「そうかもね」
「え、本当に!? 俺、邪魔だった? 嘘だぁ!」
 エイラは頭を抱え、もう一度派手にため息を吐く。
「君は本当に可愛くない弟弟子だよ。アーロは生意気なところもあるけどすごく可愛いのになあ。コーラルなんて、兄弟子なのに可愛かった。弟みたいで」
「弟扱い、ねぇ?」
 含みのある言い方に苛立って、エイラはヨシュアから手を放すと、振り返る。口調にそっくりな、唇の端をつり上げた含みのある笑みが視界に入ると、苛立ちが更に増した。
「何か言ったかい?」
「いやいや、怒らないでよ。嬉しいんだって。エイラはまだ、コーラルの事覚えてるんだなーってさ」
「当たり前だろう。それとも何だ、君の目に映る私は、死んだ弟弟子をあっさり忘れるような、薄情な人間なのか?」
「いやいやいや」
 エイラがきつく睨み上げると、ヨシュアは慌てて首と手を振って否定した。
「記憶から抹消したとか、そう言う意味ではなくて……ほら、エイラは以前さ、家の裏の大木の根本に、よく花を供えていただろう? あれって、コーラルに向けてだったんじゃなかったのかな、と」
 少しだけ間を空けてから、エイラは無言で頷いた。
 失踪したままのコーラルに、墓などあるわけもなかったから。だから――エイラの中で一番印象の強いコーラルは、あの木によりかかるコーラルだったから、エイラはあの木を墓標の代わりに決めたのだ。寂しかったコーラルの魂が少しでも慰められるように、頼りない己の心が少しでも励まされるようにと、花を手向けていた。
 もうやめようと、決意したあの日までは。
「でもいつからかやらなくなったからさ。もう、引きずるような想いはなくなったのかなーって思ってたんだけど」
 感心したような呆れたような、不思議な気持ちでエイラは呟いた。
「よく見てるね」
 ヨシュアは満面の笑顔で頷いた。
「そりゃあ見てるよ。見守ってますよ。なのに、ねえ? エイラは未だに俺よりコーラルのほうが大切なんですよね?」
 冗談混じりとは言え、悲劇の主人公ぶった問いかけと表情が不愉快で、エイラは三度目のため息を吐く。
「本当に馬鹿だね君は。コーラルは思い出の中にしか居なくて、こーんな小さい時で止まっているんだよ? 比べてどうするんだ」
 エイラが自身の唇くらいの高さに手を持ち上げながら言うと、ヨシュアはもう少し上、エイラの目の高さで手を止めた。
「そんなに小さくないって。もう少しあったって。こんくらい」
「ないよ。ずっと見下ろしてたんだから」
「でもさ」
「一緒に暮らしてた私のほうが詳しいに決まってるだろう」
「いや、でもさ」
「って、そんな事はどうでもいいんだよ」
 エイラはヨシュアの手をはたき落としてから、腰に手を当てて胸を張る。身長差のせいで見上げる立場にありながらも、気分的には見下ろしながら、冷たい眼差しをヨシュアに注いだ。
「君はコーラルに囚われすぎだ」
 言い切ると、ヨシュアの顔つきが変わった。唇を引き締め、真剣な眼差しをエイラに落とす。
「私だって大差ないから言える立場ではないんだろうけどさ。でも、君ほどコーラルは死んだ死んだと言いながら、コーラルを生かしている奴は居ないから、心配なんだよ。あまり失ったものに引きずられすぎては駄目だ。そうなってしまうくらいなら、いっそ忘れたほうがいい」
 ヨシュアは少しだけ顔を背け、エイラと目を合わせるのをやめた。
「そう言うわけには、いかないんじゃない?」
 それはエイラに言ったのか、自分に言い聞かせたのか。
「そうかも、しれないね」
 乾いているはずの青い目が、光の加減で潤んでいるように見えて、エイラは思わず腕を伸ばし、撫でるように軽く頭に触れる。
「あれ。今日のエイラなんか優しいなー。縋りつきたくなってしまう」
「そのくらいなら、許してあげない事もないよ」
 珍しく優しい事を言ってあげたから、驚いたのだろうか。ヨシュアは一瞬だけ目を見開く。けれどすぐに目を細めて、ゆっくりと首を振った。
「すっごく、すっっっっごく嬉しいけど、やめとくわ。俺はコーラルじゃないからね」
 エイラは本日何度目か判らないため息を吐き出しそうになったが、飲み込んだ。もはや、ため息を吐く事すら馬鹿らしい気がしたからだ。
「君さ、私が、全然関係ない人と恋に落ちたらどうする? たとえばルシアン様とかさ」
「ん?」
 ヨシュアは曖昧に微笑みながら答えた。
「まあ……エイラが望んでそうなるなら、しょうがないんじゃない?」
「なるほどね」
 エイラは腕を組み、俯いた。
 期待していた答えではなかった。けれどある意味で、予想通りの答えだった。納得するような腹が立つような、はっきりしない感覚に苛まれる。
 結局この男は、コーラルの呪縛から逃れられないだけなのだろう。と、エイラは考える。
 エイラにやたらとつきまとうのも、コーラルの思い出を共有できる相手がエイラしか居ないからなのだろう。ゾーグもコーラルの事を知ってはいるけれど、居なくなった弟子に固執するような人ではないから。自ら失踪したとなれば、なおさら。
 エイラは思う。自身が冒されている「コーラル病」はそうとうだが、ヨシュアのほうがより重症だ、と。ふたりはそれほど仲が良かったと言う事だろうか。
 ヨシュアがゾーグに弟子入りしたのは、コーラルの死を水の王に告げられた後の事。それまで街で暮らしていたヨシュアの存在をエイラは知らなかったから、コーラルとヨシュアがどのような日々を過ごしていたかも、当然知らない。エイラが知る、家の中や、修行場や、仕事中のコーラルと、街に下りたコーラルとでは、見せる顔が違ったのだろうか。コーラルはヨシュアとどんな事を話し、どんな遊びをして、どんな風に笑っていたのだろう――知るわけもないけれど、今のヨシュアを見ていれば、すばらしく楽しい日々だったのだろうと想像するのはたやすかった。
「で?」
 ヨシュアはわずかに身を屈め、エイラの顔を覗き込んでくる。
「何だい?」
「俺、まだ、最初の問いに答えてもらってないんけど?」
 何の事だと、エイラは首を捻った。
 もう一度聞くのも悔しくて、身近な記憶をたぐり寄せる。やがて「エイラは未だに俺よりコーラルのほうが大切なんですよね?」とのヨシュアの言葉にたどり着くと、肩を竦めた。
 まったく、くだらない。どうしようもない問いだ。
「コーラルは、消える事をひとりで勝手に決めてしまった。残された私は、寂しくて悔しかった。だから……だからね、私は、コーラルなんて大嫌いだよ」
「ははっ」
 ヨシュアの乾いた笑いを乗せて、ゆるく流れる風が切ない色を纏った。
「でもね、ヨシュア」
 コーラルが消える後押しをしたのは自分だと、エイラは思っている。だからこそ後悔をいつまでも引きずり、心の中心にいつまでもコーラルを置いている。
 けれど、同時に恨みを抱いている。相談して欲しかった。謝らせて欲しかった。エイラの言葉で傷付いたなら、その傷を埋める手助けをさせて欲しかった――だが、コーラルはそれらの機会をひとつも与えてくれなかった。
 エイラがそんな風に考えていると知ったら、ヨシュアは軽蔑するだろうか?
 表面上はいつもへらへらして、けれど奥で何を考えているかをけして見せてはくれないヨシュアに、教えてやる気は毛頭ないけれど。
「私は君と居ても寂しいし、悔しい。だから、同じくらい嫌い。でも――同じくらい大切な、兄弟弟子だよ」
 正直な想いを吐露し、エイラはヨシュアを見上げる。
 エイラを見つめていた眼差しが、ふいに閉じられた。エイラが唯一ヨシュアの感情を知れる部分を、ヨシュア自ら隠してしまった。
 けれど、だからこそ、判る。彼は今、エイラに知られたくない感情を抱いているのだと。
 エイラは唇の両端を軽く持ち上げる。喜びゆえに、無意識にこぼれ落ちてきた笑みだった。
「ほんと、今日のエイラは優しいなぁ」
 ヨシュアは目元を覆いながら呟いた。
「泣いてしまいそうだ」


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