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二章



 支えなくひとりで立てるようになるまで、目覚めてから二日かかった。思う通りに歩けるようになるまでには、更に二日。
 それでもまだ万全とは言い難い状態だった。明らかに動きが鈍っていて、歩くくらいならば問題ないが、軽く走るだけで息切れしてしまう。完全な回復にはもう少し時間が必要なようだ。
 とは言え、自力で動けるようになったのだし、そろそろ帰る事を考えたかった。世話になりっぱなしでは肩身が狭いし、エイラがここに居る限り戻るつもりがないらしいルシアンの事も気にかかる。まるで自分が引き留めてしまっているようで、何となく申し訳ない。それに、ゾーグ。ルシアンに頼み、自分の無事と帰宅が遅れる事を伝えてもらっているが、あまり遅すぎるとさすがのあの人でも心配するかもしれない――いや、あの人の事だから、やはり心配などしてくれないかもしれないが、生活力が皆無に近いゾーグがひとりでどうしているのだろう、家が荒れてはいないだろうか、と考えると、一刻も早く帰りたくなるのだった。
 ルシアンの厚意で、帰りも馬車に乗せてもらえる事が決まっているのだから、必ずしも体調が万全である必要はない。あと一日か二日休ませてもらったら、帰ろう。
 そう決意したエイラは、自分の意志を伝えようと、ルシアンを探した。世話をしてくれている村長の娘曰く、今は庭で過ごしているとの事。素直に言葉に従って、エイラは外に出た。
 村長の家とは言え、地方の小さな村だ。さほど大きいわけではない。当然庭の広さも狭く、一面に干された洗濯物が風にはためくと、道を探すのも大変なほどだった。
 洗濯物を避けながら歩くと、すぐにルシアンが見つかった。声をかけようと口を開くが、すぐに閉じた。ルシアンがひとりではなかったからだ。神妙な顔つきで、隣に立つ青年と何か話をしているようだった。
 戦いの時に見せた顔とはまた違った、けれどエイラが知らない顔。仕事をしている人の顔だ。ならば邪魔をしてはいけないと、エイラはふたりに背を向ける。
 だが、その直後。
「エイラさん!」
 ルシアンの声で名を呼ばれた。気を使ってみたつもりだったが、無駄だったらしい。
 仕事の邪魔をしたくはなかったが、声をかけられて無視をするのは、もっと良くない事だろう。そう考えたエイラが振り返ると、ルシアンは笑顔で手を掲げていた。
「では、ルシアン様。私はこれにて失礼いたします」
「ああ、気を付けて戻れよ」
 一礼してルシアンのそばを離れた青年はよく見ると、エイラの護衛を務めてくれた四人のうちのひとりだった。捕らえた暴漢を連行する役目を負い、街に帰ったはずだ。
 その彼が、ここに居ると言う事は――
「お加減はいかがです?」
「ご覧の通り、順調に回復しております。そんな事より、何か判ったのですか?」
「はい?」
「尋問の結果の、報告を受けておられたのでは?」
 エイラが問いを重ねるとルシアンは、押し殺しきれなかった困惑がにじみ出た笑みを浮かべつつ、肩を竦めた。
「残念ながら、情報は何も。どうやら……投獄中に自害したようなのです」
「ふたり、捕らえたのですよね?」
「ふたり共が、です」
 瞬間、震えが走る。錯覚かもしれないが、体温が下がったように感じて、エイラは熱を取り戻そうと、己の身を抱きしめた。
「いえ、こんな事で諦めたりしませんよ。もし他にも仲間が居るなら、そいつらもまとめて捕まえてやりますから!」
「ええ……頑張って、ください」
「! はい、ありがとうございます!」
 どこか強ばっていた表情が優しくほどけ、良く知る柔らかな笑みが現れる。少し近付かれたような気がして、急に居心地が悪くなるエイラだった。
「でしたら、やはり、街に戻ったほうがよろしいのではありませんか? 捜査するにも……部下の皆さんとも協力しやすいでしょうし」
「いえ、ですが、エイラさんおひとりを残して帰るわけには」
「私は大丈夫です。それに……私もそろそろ帰ろうと、考えています」
 ルシアンは目を見張ってエイラを凝視する。逃れるように、エイラは俯いて目を反らした。
「まだ万全とは言えませんが、ゆっくり休ませていただいたおかげで、もう日常生活に不自由する事はなさそうですし……あとは自宅で療養すれば充分かと」
「い、いえ、でも!」
 大きな手が、エイラの肩を掴む。ぐい、と強い力に押され、その反動で勝手に顔が上を向いた。視界に焦ったルシアンの顔が映る。
「放し、て」
「帰らないでください」
 熱と願いのこもる、強い声。
 エイラが動揺のあまり何も言えずに立ち尽くしていると、ルシアンは更に続ける。
「いえ、街に帰るのはかまわない。けれどどうか、私のそばに居てください」
 困った。
 まさか、今、ここで、そんな事を言われるとは思わなかった。
 何と返せばいいのだろう。考えてみても焦っているせいか、ちっとも良い案が浮かんでこない。そもそもエイラは、こう言う状況に陥りたくないからこそ、ルシアンと心の距離を置こうとしたのだ。自分はルシアンに男としての興味を抱いていないのだと、惚れたの好きだの言われてもけしてなびきはしないのだと、態度で現し続けてきたのだ。雇い主の息子と気まずい関係になるなんて、面倒にもほどがあると思っていたから。
 こうなってしまった以上は、はっきり断るしかないのだろう。けれど、上手く断れる気がしない。「嫌です」と言って?「どうして嫌なんですか」とでも聞き返されたら、確実に言葉に詰まる。正直言って自分でも、なぜルシアンが駄目なのか、よく判らないのだ。大切にしてもらって悪い気はしていないし、居心地だって悪くない。ルシアンを選んで幸せになっている自分を、想像できない事もない。今すぐ結婚しろと言われているわけでもあるまいし、彼の手を取ってみてもいいのではないか、と思う。上手くいけば幸運ではないか、と。
 けれど、それでは駄目なのだ。
 心に刺さったままの棘が、血を流して訴えるのだ。
「エイラさん、どうか、私と……」
 突如鳴った激しい音が、耳を突いた。
 音と同時に、庭と道を遮る板の壁が振動する。そしてふいに現れる、揺れる影。それはルシアンの背中の向こうに、ふわりと身軽に着地した。
 声も出せないままエイラは、何度か瞬きをしながら凝視する。目を丸くしたルシアンも、突然何が起こったのかを確かめるために振り返った。
 人が立っていた。首の後ろでひとつに括った黒髪を揺らしながら、切れ長の青い目をこちらに向けている。睨んでいるのだろうか、はじめは鋭い目つきだったが、エイラが名を呼ぶと、すぐに柔らかく細めてくれた。
「ヨシュア?」
「何でここに」と問うより早く、ヨシュアが口を開いた。
「どうも、不法侵入失礼します! 先輩がなかなか帰ってこないので、迎えにきてみました!」
「え……っと……?」
 どうやら戸惑っているのはルシアンも同じようだった。
「いや、え、何で? 何でだい君は、どこか働き口を見つけたはずじゃ……」
「事情があってと言うか、もともと期間限定の働き口だったから、あっさり無職に逆戻り。せっかく暇になったんだしと、エイラに会いに帰ってみたら、居ないとか言われて悲しかったなあ」
 笑みや口調の軽さとは対照的な、一歩一歩力強い足取りで近付いてきたヨシュアは、エイラの肩に手を伸ばす。
 だが、ヨシュアの温もりはエイラに伝わってこなかった。それもそのはずだ。彼はエイラの肩を掴んだのではない。エイラの肩を掴む、ルシアンの手首を掴んだのだ。目だけが笑っていない笑顔で、ルシアンを見上げながら。
「そう言うわけで、うちの先輩、連れ帰らせてもらいますね」
「いや、しかし……」
 戸惑いながらも返事をしようとするルシアンの声を、エイラは遮る。自由を取り戻した手で、ヨシュアの後頭部を力一杯はたく事で。
「馬鹿か、君は! 馬鹿なのか!」
 まったく予想をしていなかった衝撃なのだろう。呆けたヨシュアの体が、驚くほどたやすく揺らいだ。やがて現状を把握したヨシュアは、後頭部をさすりながらエイラに向き直る。
「半年ぶりの再会の挨拶がこれって、いくらなんでも酷すぎない?」
「ちゃんと受け入れて欲しかったら、常識くらい守れ! そもそもどうして壁を越えてきた! ありえないだろう!」
「いやあ、ちゃんと入り口から入ろうと歩いてたら、なんかエイラの気配を感じたからさ。あんま高くないから、越えられそうだなと思って、近道を」
「思ってもやるな! 馬鹿だ、やっぱり馬鹿だな君は!」
 エイラはまだ何か反論をしたげに口を開閉するヨシュアの後頭部を掴むと、無理矢理頭を下げさせた。
「申し訳ありません、ルシアン様。不承の弟弟子が、とんだご無礼を」
「いえ、それは別に、構わないのですが」
「そのようなお優しい心遣い、この男に対しては一切不要です。本当に申し訳ありません。私が責任を持って連れ帰りますので! 来い、ヨシュア!」
「はーい」
 ルシアンに礼をしてからエイラは、ヨシュアの首根っこを掴んで歩き出す。大股で、乱暴に、踏みしめる地面に怒りを叩きつけるように。
「まったく、何を考えてるんだ。信じられない。ありえない。馬鹿だ、どう考えても馬鹿だ」
 ぶつぶつと不満ばかりを呟きながら、けれど内心では、戸惑いや緊張がかき消えた事に安堵していた。
 だけど、と、エイラは心の中で呟く。ヨシュアに感謝などしてやらない。絶対に。この男を調子づかせてたまるものか。


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