二章
2
ゆっくり瞼を持ち上げると、薄暗い世界が広がっていた。
最後の記憶の中にあったはずの、水や土や木々の匂いがしない。どうやらどこかの室内に居るようで、寝台の上に横たわり、柔らかな枕や毛布に包まれていた。薄暗いのは、窓から十分に日光が入ってこないからだろうか。だが、目覚めたばかりのエイラにはちょうどいい明るさだ。
ここは、どこだろう。
首を傾け、周囲を探ろうとする。すると唐突に、エイラの視界にルシアンが飛び込んできた。
「エイラさん、お目覚めですか!?」
身を乗り出し、真上からエイラを見下ろしてくる青年の問いに、エイラは小さく頷いて答える。声を出すのは、まだ少し億劫だった。喉が乾いているからだろうか?
「どこか痛いところとか、調子が悪いところとかは?」
間髪入れず投げられた問いには、少しだけ考えてから、首を振る事で答えた。全身がだるく、意識も少し危うく、調子がいいとはけして言えない状態だが、特別な原因があるせいではないだろうと思ったからだ。
眠る前の事はきちんと覚えている。謎の襲撃者が放った吹き矢か何かで毒を喰らったエイラは、命を落としかけた。コーラルが残してくれた力で救われたが、それでもすぐに意識を失ってしまうほどの負担だった。万全であるほうがおかしいだろう。
エイラは体を起こそうと身を捩った。腕に込められる力は僅かだし、頭は重い。
「エイラさん、無理はなさらないでください。まだ横になっていて」
厚意による制止を無視し、それでも起きあがろうとエイラがもがいていると、ルシアンの手が背中に触れた。足りない力を補いながら支えてくれる大きな手は、少しだけ頼もしかった。
上体を起こしたところで、ルシアンの手が離れる。これ以上の無理は手伝わないと、暗に伝えているのだろう。見守る眼差しは温かでありながら不安に満ちていて、エイラは見つめ返し頷く事で、青年の希望を裏切らないつもりである事を伝えた。
耳に届くため息。安堵したのだろうか。それとも、呆れたのだろうか。どちらでもいいか、とぼんやり思いながら、エイラは視線を動かし、ルシアンのすぐそばに水差しがあるのを見つけた。
エイラの目の動きに気付いたのだろうか。ルシアンはすぐさま水を汲み、エイラに差し出してくれた。礼の代わりに頷いて受け取り、ゆっくりながら飲み干す。求めていた水分を得て、喉が嬉しそうに鳴った。のしかかるような全身の重みが、少しだけ楽になった気がした。
「どうやら、随分とご迷惑をおかけしてしまったようですね。申し訳ありません」
喉が潤うと、しゃべる気力が沸いてきたので、今度はエイラから語りかけた。
「何を、おっしゃってるんです?」
「意識を失った私を、ここまで運んでいただいたのでは?」
「それはもちろんです」
「きっと私は、一日以上眠っていたでしょう?」
「丸二日、ですね」
「やはり、ご迷惑を……それに、<守護者>でありながら、新月の夜を寝て過ごしてしまったなんて」
「ですから!」
珍しく乱暴な声音でエイラの言葉を遮ったルシアンだったが、言葉に詰まってしまった様子で、それ以上何も言わない。苛立ちを解消するように頭を掻いている。
呆気にとられたエイラは、ただルシアンを見上げ、待つ事しかできなかった。青年がやがて落ち着きを取り戻し、再び話しはじめる時を。
「私たちが貴女にお願いしたのは異界との繋がりを断つ事です。貴女は仕事を完遂されていますよ。ですから、迷惑なんてかけられていないのです。迷惑をかけたのは、私たちのほうです」
今度はエイラが「何をおっしゃっているのですか」と言う番だったが、エイラが声を発するよりも早く、ルシアンは続けた。
「私たちの力不足により、暴漢からお守りする事ができませんでした。申し訳ありません」
ルシアンは深々と頭を下げた。
なるほど、エイラを守るのは自警団の仕事だった、と言いたいわけか。結果守りきれず、運が悪ければ命を落としていたかも知れない状況にまで陥った事を、申し訳なく思っている、と。言われてみればその通りかもしれず、エイラは素直に謝罪を受ける事にした。別にそんなものを欲してはいないが、きっとルシアンも、そのほうが気楽だろう。
「やつらは何者だったのか、判りましたか?」
「いいえ」
「何も話さなかったと? まさか全員殺してしまった?」
「いえ、ふたりは何とか生きたまま捉えましたが、ここは――あ、ここは、封印の前日にも滞在した村なのですが、ご存じの通り小さな村ですから、拘束する設備もろくにありませんでしたので、比較的怪我の浅い者たちに、そのまま街へと連行してもらいました。今頃は尋問中なのか、すでに事情を吐いているのか……どちらにせよ、ここに残った私には判らない事です。早く真相が究明され、事件の解決につながると良いのですが……」
「そう、ですね」
そんな状況で、責任者であるはずのルシアンがこんなところに居て良いのかと思いつつ、エイラは頷いた。
「ともかく事件のほうは、我々にお任せください。エイラさんはゆっくり、養生してくださいね」
ひとりで立ち上がれるかすら疑わしい体調のエイラにとって、たいへんありがたい言葉だ。しかし、あまり長居しては悪いのではないかと不安になる。そんな不安が態度に出てしまったか、エイラが周囲をきょろきょろ見回していると、気付いたルシアンは小さく笑った。
「休んで、回復していただいて、また我々を守ってください。闇の眷族の驚異から」
気遣いの込められた言葉に少しだけ戸惑いつつ、エイラからも微笑みを返した。
「判りました。お心遣い、感謝いたします」
ルシアンは僅かに硬直してから、エイラに背を向けた。
「ええと、ここでお休みの間、身の回りの事などで何かありましたら、私に言ってくださっても構いませんが、私には言いにくい事もあるかもしれませんし、村長の娘さんがお世話してくれるそうですので、彼女にご相談ください」
「はい。ありがとうございます」
「私でよろしければ、いつでも呼んでください。何度か、顔を出させていただきますし。あ、どうしましょう。とりあえず何か、食事の準備でもお願いしておきましょうか? 二日間何も口にされていないわけですし」
「そうですね……軽くスープか何かをいただけると、助かります」
「判りました。伝えてきます。では、失礼いたします!」
まるで逃げ去るかのように、ルシアンは大股で部屋を横切っていく。あっと言う間に扉に到達し、手をかけようとした――ところで、エイラは慌てて声をかけた。
「申し訳ありません、あと、もうひとつ」
「はい、なんでしょう!?」
エイラは自身の胸元に手を置いてから続けた。
「私が身につけていた首飾り、どこにあるかご存じでしょうか。透明な石がついた」
「ああ、それでしたら」
ルシアンは落ち着かない手つきで懐を探ったかと思うと、すぐにエイラが求めるものを取り出した。
「エイラさんをこちらに運んですぐ、村長の娘さんに着替えをお願いして、元々着ておられた服は洗濯に回してくださったのですが、これはどうしましょうと問われて、とりあえず私が預かる事にしたのです。お返ししますね」
扉の前まで移動していたルシアンを呼び戻す事を申し訳なく思う。けれど宝玉を今すぐ取り戻したくて、エイラは黙って手を伸ばした。
宝玉は、再度歩み寄ってくれたルシアンの手から、エイラの手に移る。エイラは手の中の輝きを確認し、求めていたものである事を確信すると、両手で優しく包み込んでから胸に押し抱いた。
もう、魔力は感じない。毒に犯された体を癒すために、全ての力を使ってしまった。コーラルがエイラのために残してくれた、唯一のものを。
なくしてしまう事が怖くて、かすかな残り香までもがかき消えてしまう気がして寂しくて、できる限り使わないようにしてきたのに――けれど、使わずに死ぬわけにはいかなかった。エイラはまだ生きて、やらなければならない事がある。それにコーラルは、生きるためにこの宝玉を与えてくれた。だからきっと、コーラルも許してくれる。
「大切なものなのですね」
頭上から舞い降りる、僅かな寂しさが混じる優しい声に、エイラは頷いて答えた。
「私の命を救ってくれたものです。二度と同じ過ちを犯さないための戒めです。一番大切な思い出の主が、与えてくれた――」
それ以上は喉がつかえた。ルシアンに教えたいとは思えなかったから、泣いてしまいそうだったけれどけして泣きたくなかったから――声も出せなくなるなんて、体はおそろしいほど正直だ。
沈黙の中、足音が響きはじめる。ルシアンだ。足音は再びエイラから遠ざかり、扉に近付いていく。鈍い音と共に扉が開閉すると、音は部屋の中から消え去った。
ひとりきりになったエイラは、宝玉を包む手により強い力を込めた。
Copyright(C) 2012 Nao Katsuragi.