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二章



 出会った頃のコーラルは八歳で、はじめはわがままな子だと思った。エイラがゾーグに近付くのをひどく嫌がり、あからさまに邪魔する事もあったのだ。「これじゃ修行になんないよ、邪魔するなら追い出すよ」と、ゾーグがコーラルにげんこつをくらわせてからは、ぴたりとなくなったけれど。
 年下のわがままならば弟妹たちで慣れていたエイラだから、その程度でコーラルの事を呆れたり嫌ったりはしなかった。むしろ、一緒に暮らすのだから仲良くしようと、少しずつ距離を縮めようと努力した。やがて向こうから声をかけてくれるようになった時は、妙に誇らしい気分になったものだ。
 生い立ちを話してくれるようになったのは、いつだったか。乾いた表情で「母親に捨てられてここに来たんだ」と語るコーラルの、平然を装う無表情が悲しくて、ぼろぼろと泣いてしまった事を覚えている。仲の良い大家族で育ったエイラには、想像した事もない絶望で、だから勢いまかせにコーラルを抱きしめて、「私がお母さんになってあげるよ」などと口走ってしまったのだった。
 照れくさい思い出だ。けれど、悪い思い出ではない。その日を境にコーラルは、エイラに懐いてくれた。女の子みたいに愛らしい顔で、笑いかけてくれるようになった。あんまりにも可愛かったから、ぐしぐしと頭を撫でてみたら、力一杯嫌がられたけれど。
 しかしエイラは誇りと共に、拭いきれない罪悪感を抱え続ける事となった。エイラ自身が悪い事をしているわけではないし、謝ろうものなら逆に怒らせてしまうだろうと判っていたから何も言わなかったけれど、家族からの手紙を受け取る時は、申し訳ない気持ちでいっぱいになるのだ。できる限りコーラルの目に付かないようにしてみたけれど、暮らすには充分だが広い家と言うわけではなかったし、人が訪ねてくると目立つから、隠す事は難しかった。しまいには、コーラルのほうが気を使って、手紙が届くとエイラから距離を置くようになった。住居の裏にある大木に寄りかかりながら、夕焼け空を見上げるコーラルの横顔が、どれほど切なかったか。
 だから、ある時コーラル宛に母親からの手紙が届いた時、エイラは全力で喜んだ。驚きすぎて惚けていたコーラルの代わりに、はしゃぎ回った。少しだけ頬を紅潮させたコーラルが、「部屋で読んでくる」と逃げるように立ち去った時も、小さな背中を眺めて気持ち悪いくらいにやけていたものだ。
 本当は、コーラルは捨てられてなんかいないんだ。
 きっと、何かの事情があって離れて暮らさないといけなかっただけなんだ。
 たった一通の手紙は、希望の灯火であった。寂しがりやな少年の、欠けてしまっている幸せのかけらがようやくつぎなおされるのだと、エイラは信じた。
 実際は、ただでさえ欠けていたものを、粉々に砕くものだったけれど。

 コーラルが手紙の内容について何も語ってくれなかった時に、察するべきだったのかもしれない。
 けれどエイラが最初にコーラルの異変に気付いたのは、朝食の準備が終わりかけた頃、壁の向こうから激しい音が響いた日だ。
 まだ火を使っていなかったから、エイラはすぐに音がした方に駆けつけた。そこに立ち尽くしていたのはコーラルで、彼の足下には、鏡が転がっていた。
「どうしたんだい、コーラル」
 エイラは慌てて駆け寄ると、しゃがみこんで鏡を拾う。同時にちらりとコーラルの顔色を伺ってみると、歪んでしまうほどに唇を引き締めている様子が目に映った。
「ごめん。何でもない」
「何でもないならびっくりさせな」
「だから、ごめんってば」
 エイラは語り終える前に声を重ねられた事に対して抱いた少々の不満を、ため息に託して吐き出してから、金属を磨いただけの鏡に目立った傷がない事を確認し、元の場所に戻した。
 そうする事で鏡に映るのは、いっそう口元を歪めた、コーラルの顔。
「鏡が嫌、だとか?」
 率直に訊ねると、コーラルの表情が驚愕によって緩んだ。
「いや……別に……」
「口と違って、表情は正直だなあ」
 コーラルは息を飲み、再び口元を歪めてから、顔を背けた。
「別に嘘なんか言ってない。俺は鏡が嫌なんじゃないんだから。ただ、何て言うか……自分の顔が嫌いなだけで」
「なんで。もったいない。せっかく綺麗な顔に産んでもらった――」
 声にしてから気が付いた。自分が吐き出した言葉が、とても軽薄で、考えなしで、残酷なものかと言う事に。
 途中で噤んでみたけれど、遅すぎたのは明白だった。コーラルは表情を緩めた。今度は、驚きによってではない。笑うためだった。
 けれどその笑顔に心がこもっていないのは明らかで、今にも泣き出しそうだった。エイラは自分がしでかした事に驚き、恐怖し、何とか取り返そうとコーラルに手を伸ばした――が、遅かった。エイラより少しだけ早く動き出したコーラルは、背を向け、エイラから遠ざかっていったのだ。

 それからコーラルが姿を消すまでの十日間、エイラとコーラルが言葉を交わしたのは、数えるほどしかなかった。「ご飯できたよ」とか、「お風呂沸いているよ」とか、最低限の連絡事項だけ。何とか謝りたいと思ったけれど、あからさまに避けられると、「謝りたい」と思うひとりよがりな気持ちを押しつける事になる気がして、距離を縮められなかった――その間にも、コーラルの異変は続いていたのに。
 たとえば、頬や顎のあたりにひっかき傷ができていた事とか。桶に張った水が不自然に辺りにこぼれていた事とか。食べ盛りの子供とは思えないほどに、食事を残すようになった事とか。
「おいコーラル。ちゃんと食え。明日の修行は体力勝負だぞ」
 最後の夜の事だ。半分以上のおかずと、ひと口しかかじられていないパンを残したコーラルに、ゾーグが声をかけたのは。躾どころか注意すら普段はろくにしない彼女がそんな事をするくらい、コーラルの様子はおかしかったのだ。
「うん、でも、いらない」
「コーラル!」
「気持ち悪くて、食べられないんだ」
「あ……具合が悪いなら、何か食べやすいものを作ろうか。何がいい?」
 エイラは食事を進める手を休め、急いで立ち上がったが、コーラルは静かに首を振るだけだった。
「何も、食べたくない」
「コーラル」
「寝る」
 それ以降は、エイラやゾーグがいかに呼び止めようとしても、コーラルは何の反応もしなかった。振り返る事、足を止める事すらせず、自室に戻って堅く扉を閉めてしまう。
「いいよ、エイラ。とりあえず自分のぶん食っちまいな。コーラルが残したぶんは、明日の朝食わせればいい」
「でも……」
「いいから」
 強い口調で言い切られ、エイラはしぶしぶ食卓に戻る。小さくちぎったパンを、何度か口に運び、スープで流し込むように飲み込んでから、再び口を開いた。
「師匠は、コーラルのお母さんの事、知ってます?」
「さあ。知らないねえ。あの子はあんまり話さないじゃないか」
「そうなんですけど……会った事はありますよね?」
「そりゃね。コーラルを引き取る時に、一度だけ」
「似てます?」
「コーラルにかい?」
「私が似てたらおかしいでしょう」
 ゾーグは僅かの間、匙を動かす手を休め、思い出すそぶりを見せた。
「言われてみりゃあ、そっくりだね。髪も目も鼻も口も。コーラルのほうがいくらか幼いだけ、かねぇ」
 エイラは俯き、ゾーグに見えないように唇を噛む。急に寒くなったような気がして、自身を抱いた。指先が触れた肌は、粟立っていた。
 コーラルは自分の顔が嫌いだと言っていた。
 それは、自分の母親が嫌いだと――鏡や水面に映るものを見るのも耐えられないほど――言っているのではないだろうか。
 だとしたら、十日前のエイラの発言で、コーラルはどれほど傷付いていたのだろう。あの時エイラが犯した罪は、エイラが思っていたより、ずっとずっと重いものではなかったか。
 そして、元より慕っていなかったとは言え、それほどまでに母親を忌むようになったのは、なぜか。きっかけがあるはずだ。おそらくは、はじめて届いた手紙なのだろうが、そこには何と書いてあったのだろうか。
 お節介でも、押しつけでも、この際何でもいい。明日になったら、必ずコーラルと話そう。強引に謝って、無理矢理話を聞こう。ひとりで悲しまないでと、ひとりで抱え込まないでと、この家に住む者はみんな家族なんだと、伝えよう。

 気付くのが遅かった。行動するのは、もっと遅かった。
 次の日の朝エイラが目覚めた時にはすでに、コーラルは居なくなっていた。
 ゾーグと共に山を駆け回ってみたけれど見つからなくて、麓の街でも見つからなくて――それでもエイラは、祈りながら待った。そのうちひょっこり帰ってくるだろうと。どこかでひとり心の傷を癒して、元気になってから、「心配かけてごめんね」なんて言いながら、可愛い笑顔を見せてくれるだろうと。

 冷たい現実を教えてくれたのは、予想外の人物だった。
 夜の海のように深く暗い青色の髪から覗く、昼の海のように鮮やかな緑がかった青い瞳を持つ青年。エイラの呼び出しに応えた彼は、エイラを見下ろしながら言ったのだ。
【そう言えば、君の師はゾーグだったか】
【はい】
【ゾーグのところの風と大地の<守護者>が亡くなったそうだな。闇の眷族との戦いに敗れたのか?】
 自身の右太股に刻まれた名の持ち主である青年の突然の発言を、エイラはすぐに理解する事ができなかった。
【誰が、です?】
【知らんのか?】
【私が弟子入りする前の兄弟子たちの事は、あまり。風の王と大地の王の双方と契約している<守護者>がいらしたのですね】
【いや、ゾーグのところではひとりだったはずだが? 名は――自分は知らぬが。大地の王は、契約したばかりだと】
「嘘だ!」
 反射的に、叫んだ。
 認めたくなくて、受け入れたくなくて、信じたくなくて、水の王の言葉を遮った。
【自分が、虚言を口にする意味があるとでも?】
 判ってる、そんな事。水の王は、くだらない冗談を言ったりしない。そして、<守護者>とは言え王たちから見ればちっぽけな人間でしかない者の事で、嘘を言う価値などないのだろう。
 けれど嘘だと思いたかった。嘘でないのなら――
【勘違いと、言う事は、ないのですか】
【どう言う意味だ?】
【なぜ、死んだと判ったのですか。彼は、コーラルは、行方不明で、私たちですら彼の動向を知らないのに】
【簡単な事だ。王と人との契約を破棄できるのは、王だけだ。王の意志なく契約が切れる理由はただひとつ。王に名を刻まれた体と契約者の魂とが分離した時――すなわち、死以外はない】
「嘘だ」
 エイラは強く首を振る。
「嘘だ」
 信じるものか。
「嘘だ……!」
 コーラルはいつか、帰ってくるのだ。
 必ず、必ず、帰ってくるはずなのだ――


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