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一章



 まるで互いの手を絡ませようとばかりに、木々は枝を存分に伸ばしている。そこからは瑞々しく生い茂る沢山の葉が広がっていて、どれほど見上げても、青い空を見る事は叶わなかった。
 まだ陽が昇りはじめたばかりで、空の下に居たとしてもやや薄暗い時間帯だから、ときおりこぼれ落ちる木漏れ日だけでは足下がおぼつかない。故に各々明かりを持つようにした。エイラは念のため、蜜蝋を灯した燭台を。
 すでに朝なのだから、通常闇の眷族が出てくる事はあり得ない、と言うのが常識だ。しかし、常に太陽の光が届かない場所ならば、昼夜関係なく闇の眷族が出現するとの説もある。木漏れ日が届く以上、この森の中が常闇とは言えないのだが、過去の例から異界への門ができるのは特に暗い場所だと知っていたので、油断はしたくなかった。自分だけが闇の眷族に襲われるだけならばともかく、同行者は巻き込みたくない。
 こっそりとため息を吐きながら、エイラは周りを見る。エイラを守るように前後左右、自警団の兵と思わしき人々がついていた。それは問題ではない。はじめから説明されていて、受け入れたのはエイラだ。しかし――先頭を進むルシアンの背中を見つめ、エイラはもう一度ため息を吐く。まさか彼まで一緒とは考えていなかった。
 気を使ってくれたのか、護衛四人のうちひとりは女性だったので、移動中は彼女とばかり話をし、事情を聞いた。なんでもルシアンは、自警団の長らしいのだ。代々領主の家系の誰かが勤める役との事で、実力で選ばれたわけではないらしいのだが、「ああ見えてなかなか腕が立つんですよ」と彼女は教えてくれた。即座に「立たなくていいのに」と思ってしまった。だったら「足手まといなので」などと言って、追い返せたのに――ルシアンに守られる立場にはなりたくない、と言うのが、エイラの本音だ。借りを作りたくない、とでも言えばよいのか。
「エイラさん、問題の泉が見えましたよ」
 先を行くルシアンが足を止め、松明を高く掲げた。
 ひと呼吸挟んで、エイラは土を蹴る。ルシアンの横まで小走りで移動し、水面を見下ろした。
 森の中でもひときわ鬱蒼と茂る木々に囲まれ、まったくと言って良いほどに太陽の光が下りてこないそこは、黒い水がたまっているように見える。けれど光に照らされると、急に青く明るく輝きだし、やはりただの水であるのだと教えてくれた――底に沈む、一点の暗闇以外は。
 今にも全てを飲み込んでしまいそうな、純粋な黒がそこにあった。松明や蜜蝋の輝きなど、ものともしない絶対の闇。
 目的の場所を見つけたエイラは、燭台を地面に置いてから、水面にかざすように手のひらを下にし、両腕を伸ばす。ゆっくりと深呼吸をしてから、呪文を紡いだ。
【水の王よ。エイラの名において、清浄なる水の流れを我が支配の元に】
 静かな世界にエイラの声が響き渡ると、まず水面が小さく揺れる。
 徐々に大きくなっていく振動は、そこにある水全てを動かすまで強くなり、やがて泉は見えない力によってふたつに分断された。異界への門、暗き穴へと続く通路を、エイラのために開いたかのように。
「凄い……ですね」
 驚愕半分恐怖半分と言った顔で、ルシアンが呟く。他の者たちも、感嘆の声を上げていた。
 エイラとしては、この程度の事で驚かれてしまうと、どうしていいか判らなくなる。水を自在に操る力を持っているからこそ、エイラはここに来た――来なければならなかったのだから。
「皆さんはここでお待ちください」
 ルシアンと護衛たちに向き直り、エイラは言った。
「何か、私たちにお手伝いできる事は?」
「作業自体難しいものではありませんから、大丈夫です。より集中できるよう、ひとりにしていただきたい。それに、着いてきていただいて、万が一水が私の支配から離れるような事になった場合、皆さん溺れてしまうかもしれませんから」
「そうかもしれませんね」
「ご理解いただきありがとうございます。では、申し訳ありませんが、少々お待ちください」
 軽く礼をしてからエイラは、拾い上げた燭台を手に、水が作った道に足を踏み入れた。
 多量の水分を含んでぬかるんだ土を踏みしめながらゆっくり進む。ところどころにある水藻に足を取られないよう、滑らないよう、注意を払いながら。その途中、分断した水を眺め、思っていたほど深くないのだなと感じた。エイラの背丈よりいくらか深いくらいだ。広さも大した事がないし、「溺れる」は言い過ぎたかもしれない。彼らに多少なりとも水泳の心得があるならば、だが。
「さて、と」
 暗き口を開く闇の前に到達すると、足を止めた。ぞわりと、肌が泡立つ。まがまがしい空気が、穴の向こうからせり上がってきて、今にもエイラを飲み込んで引きずり込もうとしているようだった。
 さっさと塞いでしまおう。改めて強く思ったエイラは、異界への門を観察する。門を塞ぐためにまずすべきは、囲むように魔法陣を書く事だ。しかし、ぬかるんだ土に細かな文字を刻むのは、いささか難しい。
 直接書く事を諦めて、エイラは背負った荷物から一枚の布を取り出して広げた。エイラが今必要としている魔法陣がすでに書かれいるそれをかぶせ、穴をふさぐ。
 本来ならば魔法陣は、効力をあげたい場所に直接書かなければ意味をなさない。しかしひとつだけの例外を、エイラたちは発見していた。
 アーロの魔法だ。色彩の王の力で魔法陣を書いた紙なり布なりを目的の場所に広げると、直接書いたと同じ力を発揮する。これはとんでもなく便利で凄い発見だ、と、エイラやヨシュアは感動して大騒ぎしたものだが、当のアーロはまったく興味を示さなかった。それも当然かもしれない。未だ一人前と認められない彼が使う魔法陣と言えば、王たちを呼び出すための魔法陣のみなのだが、それに使ってみたところで、意味がなかった――魔法陣に意味がないのか、全ての王がアーロの呼びかけに応えなかっただけなのかは判らない――のだから。
 塩を買って帰るのはやめよう。エイラは唐突にそう思った。そんな形でアーロにお仕置きしても、少し笑って終わりだ。アーロが反省するきっかけになるかもしれないが、エイラには何の特にもならない。むしろ塩代で財布が痛む。
 代わりに、大量に魔法陣を作らせてやろう。今までは「字の羅列とか細かい模様とか入れるの大変なんです。集中力必要だし時間がかかるし、つまり体力の消耗が激しいんです。ほとんど一日仕事ですよ。俺、まだ修行中の身なのに。こんな事より、早く一人前になるための修行をさせてくださいよ」などと文句って逃げる事が多かったが、知った事か。修行から逃げた者に修行の大切さを語られても、もう良心が痛む事はない。
 ひとりで小さく笑ってから、エイラは布の端に膝を着いた。ひとつ、大きく息を吸って、魔法陣に向けて両手を広げる。
【水の王よ。契約者たるエイラの声を、太陽に届けよ。我らが大地と闇の世界を繋ぐ門を封じる力を、ここに授けたまえ】
 魔法陣が、光を放ちはじめた。はじめは優しく包容するような淡さだったが、やがて力を増し、強く眩しいものとなった。
 唐突に昼が訪れたかのような明るさだ。エイラは目を伏せ、集中し、祈る強さを増した。
 あとは、待つだけだ。エイラにできるのは、場所を示す事だけ。大いなる力によって道が塞がれるまで、ここに居続ける事がエイラの仕事だ。
 光のおかげだろうか。道が閉じかけているせいだろうか。いつの間にか、悪寒が走るほどの嫌な空気が消え去っている。少し気が楽になり、エイラは少しだけ表情を優しくし――余裕が出たからだろうか、小さく耳に届く喧噪に、気付いてしまった。
 慌てて振り返り、目を開ける。水の道の向こうに、人影が見えた。エイラが認識している護衛は五人だったはずだが、明らかにそれ以上の数が居る。低い位置に膝を着いているエイラの目に全てが映る事はなかったが、戦っているだろう事は判った。
 金属音がいくつも響く。その中には、悲鳴も混じっている。エイラの護衛たちのものか、彼らを襲う者かの判別がつかず、もどかしい気持ちを抱ええながら、エイラは見守るしかなかった。
 封印が終わるまで、力の流れを導き続けなければならない。だからエイラはそれまで、この場を離れる事はできないのだ。


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