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序章


 噎せかえるような熱気が、エイラの眼前に迫っていた。
 まだ触れていないと言うのに、一帯に広がる紅蓮の炎はエイラの皮膚に強い熱を伝えてきて、それだけで焦げ付いてしまいそうなほどだ。だと言うのに、緩やかに流れる風は炎を煽る事でいっそう大きいものと変えようとしていて、エイラは今にも飲み込まれそうになっていた。
 だがエイラは動けなかった。恐怖に身が竦んでいたのだろう。大地の<守護者>の力で足を地面に縛りつけられたかのよう――エイラが唯一知る大地の力の使い手は、けしてエイラにそんな事をしないけれども――に、微動だにできなかった。群青色の瞳を見開いて、みずみずしい草木ですら一瞬で飲み込んでしまうほどに力を増した炎を、見つめる事しかできなかった。
 師は何を考えてこんな事をしたのだろう。ごく一部だけ妙に冷静だった思考――命の危機かもしれない状況で、動かずに考える事を選んだ思考を、冷静と言ってよいか判らない――が、そんな事を考えはじめる。そして、瞬きひとつ終わらぬうちに、答えを出したのだった。
 師は、ゾーグは、何も考えていなかったのだろう。倒すべき闇の眷族を前にして、炎の<守護者>たる己の力を思う存分ふるってしまっただけなのだ。そして、七匹ほど居た闇の眷族全てを焼き付くしてもなお余力を残した強すぎる炎は、周囲の草木を巻き込んで、ここまで大きく育ってしまった。
 どうにかしないと。私が、どうにかしないと。
 そこまで到達したところで、エイラの思考は真っ白になった。ひときわ強く吹いた風をはらんで膨らんだ炎の壁が、エイラに向けて舌を伸ばしてきたからだ。
 熱によってにじみ出た汗が輪郭を伝い、鎖骨にこぼれ落ちる感覚だけが、妙にはっきりとしていた事が不思議だった。「逃げないと」と思ったのはその後だ。逃げるためには、足が言う事を聞いてくれるかどうか、確かめないといけない――
「エイラ!」
 かすれた声がはるか頭上からエイラの名を呼ぶ。
 びくり、と、体が震えた。それを境に、エイラは思考も体も自由を取り戻した気がした。
 気付けば風は凪ぎ、直前までエイラの鼻を撫でていたはずの炎が後退していた。熱を伝えてくる距離にある事は変わらないが、エイラの命を即座に奪う事はなさそうだ。
「落ち着いて、エイラ! エイラなら、この状況をどうにかできるから! って言うか、エイラじゃないとどうにもならないから!」
 頭上から届く声が、声変わり途中の兄弟子のものだと判断できるまでの落ち着きを取り戻したエイラは、視線を空に向ける。風をまとって空中を自在に移動する少年の、柔らかな栗色の髪が炎の明かりに照らされて煌めく様子が目に映ると、心は急速に穏やかになった。
 そうだ。何とかしよう。自分なら、何とかできる。自分はそのために、まだ修行中の身でありながら、師に着いてきたのではなかったか。
【水の王よ】
 両手を天に向けて伸ばし、エイラは叫ぶ。つい十日ほど前、ようやく契約にこぎつけたばかりの、水の王に届ける言葉を。
【エイラの名において、恵みの雨を地にそそげ!】
 すぐに空気が変わった。身を刺すほどに冷たい雨が、エイラの周囲に降り注いだ。すると、炎は雨に熱を奪われ、広がったのとほぼ同じ勢いで収束していき、やがて黒い煙を立ち上げるだけとなった。
 安堵して、エイラは長い息を吐く。全身から力が抜けた。叶うならばその場に崩れ落ちてしまいたかった。足下の土が水を吸ってぬかるんでいたから、膝をつく気にはならなかったけれど。
「エイラ!」
 風が動き、濡れたエイラの体を撫でる。まだ猛威を振るっていた頃の炎に焼かれ火傷をおっていた鼻先が心地よかった。
「大丈夫!?」
 栗色の髪の少年が、エイラの目の前に着地した。多量の水のせいで不安定になった地面に足を取られながら、エイラに向き直る。
「大丈夫だよ。それより、ありがとう。炎に飲まれそうになった私を助けてくれたのは、君だろう? 風で、炎を押し返して」
「それはそうだけど」
 少年は慌てた様子で、身につけていた皮の外套を脱ぐと、エイラの肩にかける。
 驚くほど温かかかった。自分が降らせた水によって、かなりの体熱が奪われていたのだと、エイラはこの時ようやく自覚する。
「鼻。どうしたの?」
「え? ああ」
 少年の視線が、未だひりひりと痛む鼻先にそそがれている事に気付いたエイラは、覆うように手を掲げて隠した。
「さっき、ちょっとね。火傷した」
「うわ、ごめん! 俺の力、間に合わなかったんだ?」
「いや、充分間に合ったよ。君が助けてくれなかったら、全身焼かれていただろうからね。だからこのくらいの火傷は別に問題ない」
「駄目だって。痕が残るよ!」
「別にこれくらい――」
「駄目」
 ぐい、と顔を近付け、少年は間近からエイラを睨む。怒っているのか何なのか、目をつり上げて迫力を出そうとしているのは伝わってくるのだが、女の子みたいに可愛らしい容姿で見上げられても、怖いとの気持ちはちっとも湧いてこなかった。それどころか、微笑ましいあまりの笑みがこみ上げてくるほどなのだが、ここで笑っては余計に怒らせてしまうだろうと、エイラは必死に真顔を保った。
「ほら。手、どけて」
 睨んでも動じないエイラに苛立ったのか、今度は荒い口調で命じてきた。
 従う義務はない。だが少年は、エイラにとって一応兄弟子であるのだし、心配してくれている気持ちが強く伝わって来ていたので、エイラはおとなしく手を下ろす。
 代わりに、少年がエイラの鼻先に手をかざした。
【大地の王よ。コーラルの名において、この者に生命の力を分け与えよ】
 囁くような、優しい声だった。かすれた声の力もあってか、切なささえ感じるほどの。
 声と共に、足下から温かなものがせり上がってくる。少年が唱えた呪文の通りなら、力強き大地が秘める生命力。それはエイラの体を駆けめぐり、癒しの力を増幅させる。みるみるうちに鼻先の火傷が消えていった。
 痛みと共に傷が残るかもしれない可能性が消え、嬉しいと思う反面、少し悔しいと思うエイラだった。この子は、コーラルは、エイラよりふたつも年下のはずなのに、三年も前に風の王と契約を結び、ついひと月前に契約したばかりの大地の王の力も、完全に使いこなしている。そりゃ、師ゾーグに弟子入りしたのは、コーラルのほうが五年も前だけど――
「ありがと」
 だからと言って、すねたりなどしない。それはエイラにとって、年長者としての矜持だった。
「なんか、心配だなあ」
「何が」
「今日のエイラの仕事っぷりを見てるとさ。これからも仕事に行くたびに、どこかしら怪我してきそうで」
「危なっかしいって事かい?」
「うん」
 ずいぶんはっきりと肯定するものだ。不満を胸に抱えたエイラだが、しかし今日の自身がしでかした失態を思い起こせば反論できるはずもなく、頷くしかなかった。
「今日みたいに俺が一緒に行ければいいんだけど、いつもそうとはいかないだろうしなあ。沢山依頼が来るから、三人でひとつの仕事に行く余裕なんて滅多にないだろうし。もしエイラが誰かと組むとしたら、絶対師匠だろうし」
「どうして言い切れる?」
「エイラじゃないと師匠の尻拭いはできないだろ?」
 ため息を吐きながら、草木の燃えかすを指し示すコーラルに、エイラが返せたものは苦笑いだけだった。そうだった。師が、まだろくに力を使いこなせていないエイラを仕事に付き添わせたのは、これが目的だったのだ。
「久々に思う存分力が使えるって、楽しそうにしてたよね」
「そう言う事。ま、しょうがないか。家に戻ったら、師匠に宝玉をもらうよ。あの、魔力込められるやつ。それに大地の王の力を入れておくから、肌身はなさず、ずっと持ってて」
「心配性だなぁ」
「エイラが心配をかけてくるんだって。自覚してくれよ」
「はいはい」
 エイラは肩を竦ませ、得意げに笑みを浮かべるコーラルを置き去りに歩き出した。
 歩きながら、鼻先に触れる。つるつるとした手触り。本当に、火傷の痕は綺麗さっぱり消えているのだろう。
 けれどなぜかくすぐったく感じるのは、きっと気の迷いなのだろう。

 後になって、エイラは思い出す。コーラルが大地の王の力を具現させたのは、あの日が最初で最後だったなあ、と。
 コーラルはもう居ない。
 あの可愛らしい、年下の兄弟子は、自分自身の存在を消してしまった。
 消えてしまったのだ。自らの意志で。


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