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終章



 晴れ晴れとしたと言ってはおかしいかもしれないが、心を迷わす霧が晴れたかのようなすっきりとした気持ちは、言葉にせずとも顔に出ていたのかもしれない。頷く義兄の――もとい兄の、自身の心を写し取ったかのような笑顔を見上げながら、メイヴェルは思っていた。
「大丈夫、だな」
 疑問系ではない。判りきっている事を確認するようにアーロが言うので、メイヴェルは笑顔のまま頷くと、正面に向き直った。
 扉を前にすると、表情は自然と引き締まる。少しだけ考え込んでしまった。この扉の向こうに居る人に、何と言うべきか。すでに決めていたからこそ、ここまで来たつもりだったが、いざ目前にすると迷いが生まれてしまう。
 そんなメイヴェルを優しく戒めるのは、やはりアーロだ。何も言わないけれど、温かな手はそっと背中を押してくれて、力付けられた気がしたメイヴェルは、ひと呼吸挟んでから扉を開けた。
 突然開いた扉に振り返った父は、顔を上げた母は、メイヴェルを目にして息を飲む。凝視する様子は、睨まれているようにも感じたけれど、違う事は判っていたから、メイヴェルは堂々と部屋の中に足を踏み入れた。
「メイヴェル……」
 先に声を出したのはウォレスだった。
 メイヴェルから見れば、母と共に自分の命を闇の眷族に捧げようとした人。けれど、別の視点から見れば、メイヴェル以上の被害者でもある。
 だからメイヴェルは決めていた。父を、許そうと。もしあのまま闇の眷族に食い殺されていれば、そんな事はけっして考えられなかったと思うのだが、助かった今ならばそう思える。
 怯えるように見つめてくるウォレスを見つめ返す。けれど、できたのはそこまでだ。声が素直に出てこない。足りない勇気や度胸を補おうと、メイヴェルは背後に立つ兄に手を伸ばし、指先で袖を掴んだ。
「お父様」
 囁き声のようにかすれていたが、静けさに包まれていた部屋の中においては、相手の耳に届ける事も難しくなかった。
「まだ、そう呼んでもらえるとは思わなかったよ」
 緊張していたウォレスの表情が、少しだけ緩む。わずかに覗く笑顔を見て安堵している自分自身に驚いたメイヴェルは、同じだけの微笑みを父親に返そうと努めた。
「だって、お父様は何も悪くないもの」
 ウォレスは小さく首を振った。
「そう言ってもらえるとも思わなかった」
「でも、そうでしょう? だから、私に、そんな権利があるとすればだけど――私は、お父様を許す」
 呆然としたウォレスは、しばらく硬直してから目元を覆った。幼き日のメイヴェルやアーロの頭をよく撫でてくれた、大きな手で。
 泣いているのだろうか。唇を噛みしめる様子からは、こらえているようにも見えるけれど。
「お父様が、何か罪の意識を抱えていて、償いのために動きたいと思うなら、一番辛い目にあっただろう人のためだけに、動いてほしい。私の事なんて、何も気にしなくていいから」
「メイヴェル……」
 震える声は、メイヴェルの名を呼ぶだけで途絶えた。けれど「ありがとう」と、「すまない」と、続けようとした唇は、音を出さずに動き続ける。
 黙っていると、つられて泣いてしまいそうだ。メイヴェルは深呼吸し、言葉を続ける事にした。
「私ね、<守護者>になろうと思うの」
 深呼吸を、もう一度。
「私の中にね、亡くなったコーラルお兄ちゃんと同じ力があるの。だからって、コーラルお兄ちゃんの心を継げるとは思ってないし、立派な、闇の眷族と戦えるほどの<守護者>になれるかも判らないけど……でも、修行をしてみようって思ったの。私にも、何かできるかもしれない、誰かを助けられるかもしれない」
「立派な志だね」
「そうして強い人になれたら――許せるかもしれないから」
 メイヴェルは俯き、固く目を伏せる。アーロから受け取ったものだけでは足りず、全身から勇気をかき集めて、それから顔を上げて、母を見た。
 まるで赤ん坊のようだった。誰かに救われる事を待っているだけの、無力で哀れな生き物にしか見えなかった。だからと言って胸に湧き上がる感情は、哀れみだけではないのだけれど、憎悪だけに支配される事はなかった。
「私、今はまだ、お母様を許す事ができない。寄り添って支える事どころか、謝ってもらう事すら、受け入れられそうにない。でも、このままじゃいけないと――これで終わらせては、いけないと思うから」
 怯えて縮こまっていたシェーラも、メイヴェルの声で少しは目が覚めたのだろうか。縮こまっているのは相変わらずだが、その理由が変わっているのだと、蒼白から紅潮へと変化した顔色が物語っている。
 彼女は恥じたのだ。自分がどれほどの醜態を晒しているのか、ようやく気付いたのだ。
「だから、今は少し、距離を置かせてください」
「メイヴェル、ごめ――」
「謝らないで!」
 メイヴェルは怒鳴り、シェーラが紡ぎかけた言葉を遮った。
「そんなに簡単に、謝る事なんて、許さないから」
 怒りを半分、願いを半分込めた瞳でメイヴェルが睨むと、シェーラは唇を引き締め、メイヴェルに伸ばしかけた手を自身の胸元に引き寄せた。
 メイヴェルは無言で待った。待ち続けた。母が、何と言うか。母が選ぶ言葉によっては、ここで永遠の別離となるかもしれないと思いながら。
「行ってらっしゃい、メイヴェル」
 やがてシェーラは、沈黙を乗り越えて言った。
 他にも何か言いたそうだった。けれどシェーラは、全部飲み込んだようだった。言ってしまえば楽になれるだろうに、それが自分の最低限の役目だとばかりに。
 だからメイヴェルは言えた。精一杯の笑みを浮かべて。
「行ってきます。お父様、お母様」

 わざとなのか偶然なのか、ヨシュアがメイヴェルの前に姿を見せたのは、カドリーン家でやるべき事を全て終えたメイヴェルの心が、少し軽くなってからだった。
「おー、メイヴェルちゃん! 元気そうでよかった」
「ヨシュア!」
 メイヴェルの心など比べものにならないほど気軽な調子のヨシュアに、メイヴェルは駆け寄る。不満そうな顔をして、アーロも着いてきた。 
「ヨシュア、本当にありがとうね」
「何の事?」
「たくさんあるけど、特に言いたいのは、闇の眷族と戦ってくれた事と、回復魔法を使う時に助けてくれた事。ヨシュアのおかげで、魔力が暴走せずに、助かったから」
 ヨシュアは困ったように笑いながら、首を掻いた。
「いやー、そう言われちゃうと困るわ。暴走は、ちょっとしたし」
「そうなの?」
「そうなんだ。ごめんねー。完璧だったら、寝込む事にもならなかったはずなんだけどさ。しかも、暴走して溢れた魔力が、俺の怪我を治してくれちゃったりしてね。なんか、申し訳ないくらいなんだけど」
「先輩、はじめからそれ狙ってたんじゃないでしょうね?」
「俺が女の子にそんな無茶をわざとさせると思うのか!」
「男相手ならするんすか!」
「まあ、お前だったら間違いなく」
 ヨシュアがあまりにもあっさりと言ってのけるので、アーロは反論する気力すら失ったようだった。
「で、でも、よかった。ヨシュアももう、体は平気なのね?」
「ああ」
「よかった」
 ずっと重荷になり続けた事も、嘘吐き呼ばわりしてののしった事も、自分と違って優しいヨシュアは許すと言ってくれたけれど――何か役に立てる事があって良かったと、メイヴェルは心から思った。今はまだ弱く、できる事がほとんどないけれど、これから少しずつ返していけるかもしれない。いや、返していこう。
「で、お前らこれからどーすんの」
「俺は師匠のとこ帰りますよ。まだ修行中の身ですからね。こっぴどく怒られてぼこぼこにされるだろうから、帰りたくないけど、メイヴェルを連れていきたいし」
「そっか、メイヴェルちゃんは、<守護者>目指すのか」
「うん。なれたらだけど」
「なれるなれる。何なら、アーロより早く一人前に――」
「先輩」
「なんだ」
「泣いてもいいっすか」
「勝手にしろよ、放っておくから。じゃ、行こうかメイヴェルちゃん」
 アーロに冷たく言い放ったヨシュアは、すかさずメイヴェルの肩を抱いて歩き出した。
「え、先輩も来るんですか」
「ああ」
「就職活動は?」
「一度帰ってからなー。ほら、宝玉の力使っちまったし。エイラに詰めなおしてもらわないとな」
「そんなもんなくたって何とかなるでしょ先輩なら」
「いやいや。俺、エイラの愛がないと戦えないから」
「だから、宝玉に込められてるのはただの魔力で、愛なんてちっともこもってませんって」
「お前のはそうかもなー」
 上機嫌で歩き出すヨシュアの背中に、「間違いなく先輩もだっつうの」と呟いてから、アーロも歩き出す。最初は少し小走りで、メイヴェルに追いつき隣に並ぶと、唇を少し耳に寄せて囁いた。
「メイヴェル、俺、お前に言い忘れてた事があるんだけど」
「何?」
 メイヴェルが振り向いて見上げると、アーロは満面の笑みを浮かべて言った。
「十五歳の誕生日、おめでとう」
 少しだけ呆気にとられてから、メイヴェルも満面の笑みで返した。


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