終章
1
頬を撫でる風の清冽な冷たさと、その風によって揺れる髪が首筋に触れるくすぐったさに、意識が少しずつ呼び起こされる。それでもメイヴェルは、重い瞼を持ち上げる事が億劫だったので、身動きひとつ取ろうとはしなかった。
気が変わったのは、毛布のはじが少しだけ引き上げられ、首周りが暖かくなった心地よさによって、わずかに体が軽く感じたからだ。一瞬だけ固く目をつむり、反動で目を開けようとする。
同時に、足音が鳴りはじめた。それはメイヴェルが目を開くごとに、少しずつ遠ざかっていく。
窓から差し込んでくる光の眩しさに怯んだメイヴェルは、もう一度目を閉じようと考えた。けれど、窓に歩み寄った少年の髪が、陽の光を浴びて金色に輝いていて、けれど本当は金色ではないと知っていたから、慌てて上体を起こした。
衣擦れの音に気付いたのだろうか。少年はすぐさま振り返ると、窓を閉める事を忘れ、メイヴェルに駆け寄ってきた。メイヴェルが眠っていた寝台の端に片手をついて身を乗り出し、メイヴェルの顔をごく近くから凝視した。
「おにい……」
「何考えてんだ、ばーか!!」
間近から怒鳴られ、メイヴェルは反射的に身を竦める。耳も覆ってみたのだが、時すでに遅かったようで、耳の奥ではアーロの声が小さくこだましていた。
「声、大きいよ」
「大きくもなるっつうの!」
もう一度怒鳴ってから、アーロは大きくため息を吐き、寝台の端に腰を下ろす。少し丸まった背中や、わざとらしくメイヴェルから反らされた横顔は、声と同様に怒っているようだったけれど、それ以上の感情が秘められているようだった。
アーロが何も言わなくなったので、メイヴェルはアーロの全身を見回す。服の下の事はよく判らないが、元気に怒鳴っている様子を見る限り、大きな怪我はなさそうだ。顔や首を見る限りでは、包帯が巻かれている様子もないし、裂傷の跡も残っていない。
「よかった」
ひとりごちて胸を撫で下ろすと、すかさずアーロの怒鳴り声が響く。
「よくねーよ!」
「どうして? ふたりとも助かったんだから、別にいいでしょ」
「結果的にはそうかもな。でも、お前、死ぬかもしれなかったんだぞ!」
「でも、何もしなかったら、お兄ちゃんは確実に死んでた」
きっぱり言い切ると、眉間に深い皺を刻んだアーロは、再び怒鳴りつけようと大きく息を吸い込んだが、そのまま吐きだした。重くなった頭を支えるように、両手で顔を覆う。
深すぎるため息に納得がいかず、メイヴェルは唇を尖らせる。
「少しは、俺の事も考えてくれよ」
「考えてなかったら、あんな無茶な事しないよ」
「そうじゃなくてさぁ……結果的には良かったし、もしお前の魔法が発動しなかったとしても、俺ひとりが死ぬんだからいいよ? お前は魔力が暴走して、俺も傷が治らなくて、ふたり一緒に死んじゃったとしても、まあ何にも知らずに終われるんだからましかもしれないよ?」
「なら」
「でも、お前だけが魔力の暴走に飲まれて、俺の傷がふさがって、俺ひとりだけ生き残る可能性が一番高かったはずなんだ」
メイヴェルのものよりもずっと大きな手に覆われたアーロの顔は覗けず、彼が今どんな表情をしているのか、メイヴェルには判らなかった。
だが、しっかりと発言しているようでいて微かに震えが混じるその声に、彼の現在の表情が透かし見える気がした。
きっと今アーロは、寂しい目をしているだろう。出会った日に見せていた、自身の存在の嘆くかのような悲しい輝きを瞳に宿して。もしメイヴェルが無茶な行動の末に命を落としていたら、彼を捨てた母親と同じだけの心の傷を、メイヴェルが与える事となったかもしれない。
それに気付いてしまえば、メイヴェルが言える言葉はただひとつだった。
「ごめんなさい」
素直に謝罪の言葉を口にし、しかしそれだけでは納得行かなかったメイヴェルは、一呼吸おいてから続ける。
「でも、私の気持ちも判ってよ」
「はぁ……?」
「放っておいたらお兄ちゃんが死んでしまうかもしれない。そんな状況で苦しかった私の気持ちも、判ってよ」
それは「同じ立場だったとしたら、きっと同じ事をしたでしょう?」と訊ねる事と同意だった。
アーロは慌てて顔を上げ、驚いたような呆けたような表情で、じっとメイヴェルの目を見下ろしている。何か言おうとして口を開き、しばらく硬直していたが、やがて「悪かったよ」と、かろうじて聞こえる程度の声量で呟いた。
「お前や先輩を騙すような事をして、心配かけて、ごめんな」
「ヨシュアにもそうやって謝った?」
「まさか」
「なんで。駄目だよ。ヨシュアも怒ってたし、すごく心配してたのに」
「いいんだよ。おとなしくぶん殴られといたから」
「ああ……」
それはどんな言葉を並べるより、頭を下げるより、よっぽどはっきりと謝意を伝えているのかもしれない。痛々しいのは嫌だから、メイヴェルにはできない事だが、ふたりはそれでいいのだろうと納得して、メイヴェルは小さく微笑んだ。
「私、どれくらい眠ってた?」
「丸一日と少しだ。あの晩から、二回朝が来てる」
「なんだ。そんなに長くないのね」
「長い。ものすごく長かった。俺にとっては」
「心配かけてごめんってば」
困惑したメイヴェルはわずかに笑みを歪ませる――それは、無意識に押し込めていた強い疑問が脳裏に浮かび上がってきた事による、ためらいから来ているのかもしれなかった。
「お兄ちゃん」
「なんだ?」
「お父様や、お母様は、今どうしているのかな」
アーロは表情を引き締め、真剣なまなざしでメイヴェルを見つめた。
「呼んでこようか?」
メイヴェルは即座に首を振る。
「ううん。まだ、気持ちの整理がついてないし。でも、お兄ちゃんに説明してもらえば、少しはつくかなあ、って」
「そっか」
アーロはいったん腰を浮かせ、寝台から離れたかと思うと、すぐ近くに置いてあった椅子に腰を下ろし、メイヴェルと真正面に向き合う形を取った。
「シェーラ様が闇の眷族に頼んだ事はふたつあった。ひとつは、ウォレス様の心を自分に縛る事。もうひとつは、ウォレス様の記憶から、ひとりの女性の記憶を消す事」
「その女性って……」
「ウォレス様が、シェーラ様と結婚する直前まで、結婚の約束をしていた人」
メイヴェルは膝の上に置いてあった手を、毛布を巻き込みながら固く握った。
「きっと、その女性の存在が怖かったんだろうなぁ」
「でも……そんな、そんな人がお父様に居たなら」
「うん。あの闇の眷族を倒したら、ウォレス様にかかっていた妖術が消えてさ、それで、ウォレス様は思い出したんだよな。自分のせいではないとは言え、結果的に、裏切ってしまった女性が居るって事をさ。それでウォレス様はとりあえず、その女性を捜すって言ってた」
メイヴェルは俯いた。
母であるシェーラに一番酷い裏切りを受けたのは、自分だろうと思っていた。けれど、父や父がかつて愛した女性が受けた仕打ちほど、酷いものではないのかもしれない。闇の眷族を倒し、命が助かった今となっては、なおさらそう思う。
「その女性が見つかったら、お父様は、お母様と離婚して、その女性とやり直すのかな」
「さあ、それはどうだろう」
アーロは首を傾げた。
「ウォレス様は、このままでいようと考えているみたいだけど」
メイヴェルは顔を上げた。
「どうして」
「はじまりは嘘でも、十七年近く家族をやってきたのは本当で、その想いまで消えたわけじゃない。だから、このまま家族を守り続けていきたいって。けど、それはあくまでウォレス様個人の望みであって、一番優先すべきは、元婚約者の女性だって言ってた。その女性が望む通りにするってさ」
「でも……もう十七年も経っているなら、その女性は、まったく別の人生を歩んでいるよね」
「だろうな」
「どこかで幸せになっているかなぁ」
メイヴェルが祈るように呟くと、アーロは突然、声を上げて笑った。
「絶対ないとは言わないけど、多分ないわ」
きっぱり言い切られ、メイヴェルは胸の奥が軋む音を聞いた気がした。
結婚の約束までした男に捨てられ、いきなり別の女と結婚されてしまったら、深く傷付くのは当たり前だろうし、長い事引きずっても仕方がないだろう。けれど、十七年もあれば、忘れて、別の幸せを見つけていてもいいのではないかと――思ってしまうのは、加害者がわに都合が良すぎる考えだと言う事だろうか。
「そうかな。やっぱり、そうなのかな……お母様や、私を、恨んでるのかな」
「かもな」
冷たさすら感じる素っ気ない返しをしてきたアーロは、対照的なほど暖かく優しい笑みを浮かべていた。
「でも、その女性にウォレス様との子供がいて、さ。その子供は、それなりに幸せで、お前たちの事を知ってても、恨まずに生きているぞ」
「そんなわけないよ」
「そうなんだって」
「どうして言い切れるの」
「だってお前は、その子の命を二度も助けた恩人なわけだし」
アーロが突然口走った事の意味がさっぱり理解できず、疑いの目を向ける事が、今のメイヴェルにできる精一杯だった。
「いや、そんな事どうでもいいのかな。関係あるのは、その子にとってお前が、命をかけても守りたい、大切な、可愛い可愛い妹だって事だ」
メイヴェルは丸く見開いた目でアーロを凝視した。
しばらくは見つめ返してくれていたアーロだが、やがて耐えられなくなったのか、小さく吹き出す。笑い声を噛み殺そうとしているのだが、口元と腹を押さえながらでは、あまり意味がない。
「えっ、待って、それは、つまり……え、本当、の?」
「半分だけどな」
「え、なんで!? なんで……え、なんで、今まで黙ってたの!?」
メイヴェルは毛布を翻し、寝台から身を乗りだし、唯一手が届いた腕に掴みかかった。
「いや、俺だって拾われた瞬間は知らなかったしさ、気付いた時にはもうすっかり家族丸ごと恩人だったし、そんだけ世話になっている家庭を壊すような事言い出すのは忍びなくてな。家庭崩壊されて、生活が成り立たなくなっちまっても困るし。でも、もう、いいかな、と」
確かに、色々と問題が明らかになったカドリーン家において、その程度の新事実はおまけ程度なのかもしれないが、メイヴェルにとっては違う。もはや、他の全てがどうでも良くなるほどに、大きな事件だった。
「じゃあ、お父様が探しているのは、お兄ちゃんの、お母さん……」
「そう言う事になるな」
アーロは頷いた。
「俺さ、多分、かーちゃんはもう死んでると思うんだ。っつか、あの日、死ぬ気だったから、俺を置いていったんじゃないかって。わざわざカドリーン家の前に俺を置いてったのは、婚約者を捨てた男でも血を分けた子供くらいは助けてくれるんじゃ――みたいな、賭だったんじゃないかな、と。ま、ウォレス様はかーちゃんの事忘れさせられていたんだから、俺の可能性なんかに思い至るわけもないんだけど、かーちゃんはそんな事知らなかったはずだし。しかもその目論見は完全にはずれて、俺を助けてくれたのは、諸悪の根元の罪悪感だったわけだけど。あ、シェーラ様は、俺の事、はじめから判ってたみたいでさ」
「なんで」
軽い口調で語る兄の態度に、押さえきれないほど強い疑問が沸き上がり、メイヴェルは口を挟んだ。
「なんでお兄ちゃんは、お母様の事、恨まないの」
率直に訊ねると、アーロは少し戸惑い、腕を組む。
「そうだよなぁ。俺はこれまで、シェーラ様が家の中に入れてくれたから助かった、って思ってたわけだけど、そもそもシェーラ様がこんな事しなけりゃ、俺はかーちゃんと一緒にはじめっからカドリーンの家の中に住んでいたわけで、恨むのは簡単だよなあ。いや、今だって、まったく恨んでないわけじゃないんだぞ。やっぱ顔見るといらつくし」
「うん」
「でもなぁ」
アーロは少し俯いて、けれどどこか遠くを眺めるように、目を細めた。
「シェーラ様がこんな事してなかったら、お前は生まれてないんだよなぁ」
酷い不意打ちだ、と、メイヴェルは思う。
予想もしていなかった方向から、涙腺を刺激する言葉が降ってきた。この短い数日間にふりかかってきた災難など、なかった事にできしまえるほどに、優しくて温かな。
アーロが帰ってきてから泣いてばかりだから、今度こそ我慢しようと思っていたが、できなかった。涙は自然と頬を伝い落ちていた。それに気付いたアーロは顔を上げ、小さく微笑むと、大きな手でメイヴェルの頬を撫で、涙を拭ってくれた。
「かーちゃんには悪いけど、俺、ひとりでウォレス様の息子になるより、メイヴェルが居てくれたほうがずっといいや」
「お兄ちゃん……」
「だから、本当に可哀想なのは、かーちゃんなんだ。かーちゃんだけなんだ。だから、ウォレス様やシェーラ様には、たとえ無駄足でも、かーちゃんを探してほしい。ひとり寂しくどこかで死んでいるなら、丁重に弔ってほしい――せめてそのくらいは、望んだっていいよな」
泣きすぎて、鼻が痛くて、ろくに声が出せない。だから代わりにメイヴェルは、しきりに頷いた。何度も、何度も――アーロが、優しく抱きしめてくれるまで。
赤子をあやすように、頭を、肩を、背中を、軽く叩いてくれる手の温かさが、余計に涙を引きずり出す。泣きすぎて干からびてしまうかもしれない、と、ふいにメイヴェルは思った。そうなったら、兄のせいだ、とも。
「つーわけで、さ」
アーロの手がメイヴェルの首で止まる。生まれた時から刻まれていた印が消え去った、白い肌の上で。
「嫌がったって、もう無理だからな。俺はこれからも、いつまでも、お前の兄ちゃんなんだ」
嫌なわけがない。
それどころか、ずっと望んでいた事だった。何よりも嬉しい――数日遅れの誕生日祝いだと、メイヴェルは感じていた。
Copyright(C) 2012 Nao Katsuragi.