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五章 守り人の地




 客室に腰を落ち着けてから、シェリアはずっと窓の外を眺めていた。
 ザールの風景は、塔の最上階にあるシェリアの私室から見えるセルナーンと、大きく違っている。多くの木々によって緑色に染めあげられている点は同じだが、ザールのそれは人の手によって整えられた美ではなく、自然が思うがままに枝を伸ばした結果広がった深い森なのだ。
 セルナーンからほとんど出る事の無いシェリアにとって、規律のない植物の様子はもの珍しいものである。だが、長い時間見つめ続けたところで、風や動物たちが小さく揺らす以外に、何の変化が起こるわけでもない。並の人間ならばすぐに飽きている状況だが、シェリア身じろぎひとつすらせずに、森に視線をそそぎ続けていた。
 飽きるわけがなかった。そもそもシェリアは、何も感じていないのだ。目に映る広大な森を、美しいとも恐ろしいとも思う事なく、ただひとつの情報として受け止めているだけだった。
 やがて少しだけ顔を上げ、黄金の月が輝く様子を目に止めると、夕焼けがとうに失われていた事に気付く。
 普遍や緩慢な時の流れと言ったものに疑問や不服を抱く事のないシェリアだが、他にする事が無いわけでもないのに、無意味な時間を過ごす事には、さすがに疑問を抱いた。傍らの円卓に置いておいた読みかけの本を手に取ると、続きに目を通した。
 二行ほど進めたところで、シェリアの脳裏には本の内容と全く関係のないものが浮かんだ。
 今朝早く、セルナーンを発つ直前の、双子の妹の顔だった。リタはシェリアの荷物の中に本が入っている事に気付くと、「これから魔物退治に行くって言うのに、本なんて持って行くの?」と訊いてきたのだ。
 よく意味が判らなかった。魔物退治に行くから、何だと言うのだろう。ザールが読書を禁じているわけではないし、魔物と対峙する瞬間まで本を読もうと考えていたわけでもない。
 では、本を携帯する事に何の問題があるのだろうか――シェリアは疑問を抱いたが、誰かに投げかける機会を得る事無く、すぐに結論を出した。
 ハリスや他の聖騎士たちは、シェリアに何も言わなかった。対してリタは、セルナーンではないところで育ち、頻繁に不可思議な言動を繰り返す娘だ。どちらが正しいかは明白で、つまりは今回も、リタ特有の妙な発言だったと言う事だ。
 何の問題もない。シェリアは納得し、再度本に集中した。
 しかし、十行と読まないうちに、扉が一度だけ強く叩かれた。シェリアは音で乱される程度の弱い集中しかできない娘ではなかったが、わざわざ訊ねてきた人物が誰かも判らないうちに無視するような娘でもない。
「どなたです」
 シェリアは訊ねた。叩き方だけでは、誰が扉の向こうに現れたのか判らなかった。ハリスはこのように乱暴な叩き方をしない。いや、ハリスに限らず、どんな聖騎士でもしないだろう。
 では、カイやリタだろうか。それも少し違う気がした。
 しばらく扉を見ていたシェリアだったが、返事が来ないため、本に視線を戻した。入れ、とももちろん言わない。問いに答えない人物とは、扉を間に挟んだままで充分だと判断した。
 沈黙は、三行読み進める程度にしか続かなかった。
 扉の向こうで何か重い荷物が転がされる音がしたかと思うと、強い破壊音が響き、扉が開かれる。扉はそのまま閉じたり開いたりを繰り返しており、鍵と取っ手の部分が壊れている事をシェリアは理解した。先ほどの破壊音の正体はこれなのだろう。
 シェリアは壊れた鍵から、扉を開けた影に視線を移す。
 シェリアよりもいくつか年若そうな少年だった。シェリアほど細くはないが、背の高さはシェリアと同じか少し高いくらいで、屈強とはほど遠い印象だ。蜂蜜色の髪が頬にかかる様子が誰かに似ている気がすると思ったが、答えを導き出す前に、少年はシェリアに飛びかかってきた。
 目を伏せる事も避ける事もせず、怯えもせず、シェリアは少年を真っ直ぐに見つめていた。淡い色の瞳の奥に宿る、深い闇の光を。
 首を絞めようとしたのだろうか。少年の両手は、シェリアの首に絡もうと伸びたが、触れるよりも先に神の守りが働いた。
 少年の体は見えない力に弾き飛ばされ、瞬時に壁に激突した。後頭部と背中を強くぶつけたためか、少年は端整な顔を歪ませ、人のものとは思えない奇声を部屋中に響き渡らせた。
 シェリアは動じなかった。しばらくは、椅子に座ったまま少年を見つめていた。少年が飛び込んできた時か、それとも壁にぶつかった時の振動か、倒れて円卓から転げ落ちた燭台に灯る蝋燭が、絨毯を僅かに焦がしている事に気付くと、立ち上がって燭台を拾い上げた。
 その頃には、奇声は更に変化していた。もはや人の声と認める事はできない、怪音と言えるものだった。
 シェリアは橙色の灯りを手に、再び少年を見下ろす。壁を背もたれにして床に座り込む少年の体からは、扉を壊して進入してきた時の力強さが一切感じ取られなかった。
 力無く項垂れる蒼白の横顔の周囲に、黒い靄が漂っていた。薄く開かれたまま微動だにしない少年の唇から、徐々に吐き出されているようだ。自身と相反する、禍々しいものを肌で感じ取ったシェリアは、少年との距離を広げた。
「お前は何者です」
 少年は、シェリアが知る魔獣やその眷属である魔物と、大きく違っている。だが、少年が吐き出す闇は、魔物たちが持つものと同種のものだった。
「答えなさい。何者です」
 もう一度問い質したが、やはり答えは得られなかった。
 シェリアは少年に歩み寄ってから、ゆっくりと手を伸ばす。途中、シェリアを守る神の力が、少年が吐き切った黒い靄に反応し、弾けた。
 光に飲まれるようにして、靄は一瞬にしてかき消える。同時に禍々しい空気も失われた事が判ると、シェリアは伸ばしていた手を自身の胸に引き寄せた。
 全く動く気配のない少年に、もう一歩だけ近付いてみる。気を失っているのかと、目を凝らして観察してみたシェリアは、少年が呼吸すらも止めている事に気が付いた。
「シェリア様!」
 もう気にする必要もなかろうと、シェリアが椅子に座り直そうとした瞬間、部屋に飛び込んで来たのはハリスだった。彼は剣の柄に手をかけ、部屋の中を見回して少年の姿を見つけると、素早く床を蹴り、少年とシェリアの間に体を滑り込ませる。
 ハリスはしばらく少年を睨んでいたが、徐々に眼差しを柔らかくした。少年に何かしらの不審を抱いたのか、一歩ずつゆっくりと近付くと、少年の顔を覗き込む。すると行動が突然早くなった。剣から手を離し、少年の顔や首筋に触れて何かを確認すると、すぐに立ち上がりシェリアに振り返る。
「シェリア様、この少年は」
 シェリアは椅子に座り直すと、閉じてしまった本を手に取り、先ほどまで読んでいた場所を探した。
「魔獣の眷属です。先ほど扉を壊し、わたくしの部屋に入って来ました。何をするつもりだったかは判りませんが、わたくしに飛びかかってきました」
「シェリア様の御身は、ご無事ですか?」
「もちろんです。わたくしにはエイドルードの加護があります。その者は神の力に罰せられ、倒れました。倒れた後、魔物のものと酷似した闇の気が吐き出されましたが、それも神の力の前に消滅しました」
「ご無事で何よりです」
 ハリスは優しい笑みをシェリアに向け、静かなため息を吐いた。
 ようやく続きを探りあて、読もうとしたシェリアは、ハリスが吐き出した息に引かれるように顔を上げる。
「疲れているのですか?」
「私が、ですか?」
「そうです」
「いいえ。シェリア様をお守りする役目も果たせなかった私が、疲労など」
「では、つまらないのですか?」
 再度シェリアが問いかけると、ハリスは何かに気付いたそぶりを見せた後、ゆっくりと首を振った。
「いいえ。面白いもつまらないもありません。今はただ、シェリア様がご無事であった事に安堵するのみです」
「そうですか」
 ため息には多くの意味があるのだと、漠然と理解したシェリアは、納得して本に視線を戻す。するとハリスは、シェリアの前に跪き、礼をした後、少年のそばに戻った。
 ハリスは崩れ落ちたままの少年の体を軽々と抱き上げた。「失礼いたしました」と挨拶をして部屋を出て行こうとしたが、入り口近くで足を止めたまま動かなかった。


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