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五章 守り人の地




 物事を単純に考えすぎたのかもしれない。
 カイはザールへの道程の最中、馬車に揺られながら、昨日の選択を早速後悔していた。
 確かに、大神殿やセルナーンを離れられた事は、良い気分転換だ。気が乗らない勉強から解放された事は清々しい。馬に乗ったハリスが馬車と並走している姿がちらりと見えるのも、はじめから予測していた事なので、大した問題ではない。
 予想外にカイを責めたてたものは、馬車内の気まずい空気だった。
 シェリアと、リタと、カイと。三人きりで限られた空間に閉じ込められるのは、少し考えればあらかじめ予想できた事である。そこまで思考が回らなかった昨日の自身の愚かさを責めながら、カイはどうしようもない息苦しさに必死に耐えていた。
 どちらか一方とふたりきりならば、こんなにも苦しむ事はなかっただろうに。カイは頭を抱えるふりをして、気付かれないようふたりの少女の横顔を覗き見た。
 もしリタだったならば。カイは、不機嫌そうにそっぽを向いて外の景色を眺めている少女と、会話をしようと必死に努力しただろう。以前彼女の部屋を追い出されてからこちら、彼女はカイを避けるばかりなので、関係を改善するための機会としてこの時間を利用したかった。
 シェリアだったならば、何も考えずに静かな時間を過ごしただろう。無理に会話をする方が辛い相手であるし、トラベッタからセルナーンまでの長い時間のほとんどを無言で過ごした実績があるため、多少慣れている。
 三人で居るからこその苦痛なのだ。いっそ馬車を出て歩きたいくらいだが、カイはすでにそれが許される立場ではなかった。ならば逆に、第三者が馬車の中に入ってくれないかと願ったが、窓から外を覗き見たカイは早々に諦めた。まず断られるであろうし、適当な理由をつけて成功したとしても、入ってくるのは三人の護衛隊長の内の誰かだ。その内で改善と言えるのはルスターの場合のみだろうが、三人の中で最年少であるためにもっとも可能性が低い。
 危険な賭けに出るくらいならば諦めようと覚悟したカイは、ひたすら長い時間を耐えた。目的地であるザールに辿り着いた時は、泣きたいくらいに嬉しかった。
 真っ先に馬車を飛び出し、伸びをしながら深呼吸をすると、続いて降りてくるリタに手を差し出した。
「誰が見てるわけでもないんだから、形式にこだわる事もないでしょ。このくらい、ひとりで平気」
 リタがカイの手を借りずに馬車を降りたので、カイは行き場の無い手をそのままシェリアに貸す。シェリアは小さく会釈をし、カイの手を借りて馬車を降りると、最後に「ありがとうございました」と礼を言った。
「どういたしまして」と返しながら、カイの目はリタを追っていた。逃げるように距離を置いた少女は、カイたちの目の前にそびえる小さな城を見上げていた。
 小さな、と言っても、あくまで城としてである。大神殿での生活で見慣れた王城と比べてしまえば貧相だったが、トラベッタの領主の屋敷と比較するならば立派と言って差し支えなく、魔物に対する砦としての頑強さで言えば、明らかにこちらの方が上だった。もっとも、トラベッタは街そのものの防備を固め、館は激戦を耐えるものとして建てられていないため、比べる事が間違っているのだが。
「随分古い城ですね」
 城を指差しながら訊ねたカイに、ルスターは小さな笑みで応えた。捉え方によっては貶しているようにも聞こえる問いかけだったが、彼はそうは取らなかったようだ。
「歴史だけは長いのですよ。初代の大司教様が、アルケウス家の初代当主に、爵位や領地を与えたと同時に建築されたものですから。セルナーンに聳える王城と、ほぼ同じだけの時を過ごしている建物です」
「へえ……」
「狭いために閉塞感があるかもしれませんが、どうぞ、お入りください」
 使用人やルスターに案内されるまま、カイたちは城の中に足を踏み入れた。
 ルスターは狭いと言ったが、やはりあくまで城としての感覚であり、庶民の家で育ったカイの感覚では充分以上に広かった。年代を感じる建物ではあったが、手入れや掃除を怠っている様子はなく、綺麗で、魔物の問題を片付けるまでの滞在時間は、良い気分で過ごせるだろうと思える。
 周囲を見慣れたカイは、ふと思いついてルスターを見上げた。懐かしさがこみあげてくるのか、いつもの温かな目が細められており、いつも以上に優しく見える。
 案内役や通りすがりの使用人たちの、特に年配者の中には、顔見知りもいるようだった。懐かしそうに微笑みかけると、微笑みかけられた者たちは優しい笑顔で応えていたので、慕われていた事がカイにも判った。
 やがて辿り着いた広間には、ふたりの人物がカイたちを待っていた。
 ひとりは立派な髭をたくわえた三十半ばの男性で、左腕を肩からつり、右膝に痛々しく包帯を巻いていると言うのに、カイたちを前にすると、杖と女性の支えを受けて立ち上がろうとしていた。咄嗟にカイが「座っていてください」と言うと、申し訳なさそうに頭を下げ、元通り椅子に腰掛けた。彼がアルケウス家当主の後見人でありルスターの義弟でもある、ユベール・リデラだろう。
 ユベールの傍らに立つ女性は、儚げで綺麗な女性だった。ゆるく波打つ蜂蜜色の髪が、見慣れた人物と同じであるためか、とても印象的だ。よく見ると、線の細い柔らかな面立ちもルスターと似ていて、彼女がルスターの妹、レイシェル・リデラであるのは疑いなかった。
「エイドルードの御子様、聖騎士の皆様、ザールまで遠路はるばるお越しいただき、ありがたく存じます。このように見苦しい格好で応対します無礼をお許しください」
 ユベールとレイシェルは同時に頭を下げた。
「本来ならば当主であるランディ・アルケウスと共にお迎えするところなのですが、現在ランディは起き上がれる状況にございませんので、私たちのみで失礼いたします」
「とんでもない。突然の魔物の来襲のご苦労、お察しします。どうぞ、ご自愛くださるよう」
「勿体ないお言葉です」
 隊長であるハリスは、間違ってもカイにかける事はない、心からの労わりの言葉を述べると、しばし考え込むそぶりを見せた。
「魔物について、詳しい状況のご説明をいただきたいのですが、そのご様子では椅子に座っての長話も辛い状況でしょう。どうぞ、寝室なり私室なりでお休みになられてください」
「お心遣いはありがたいですが……」
「もちろん、猶予があるとは言い難い状況ですから、ご説明はいただきます――ルスター」
「はい」
 ハリスに名を呼ばれるたルスターは、妹夫婦への労わりに溢れていた眼差しを厳しくし、ハリスに向き直った。
「親族である君にならば、楽にした状態で話をしても多少は気楽だろう。君が話を聞いて、私に報告してほしい」
「はっ、了解いたしました」
 小気味良い返事が響くと、隅や部屋の外に控えていた使用人たちがカイたちに近付いてきた。ルスター以外の者たちを客室に通すつもりなのだろうが、彼らに従ってすぐに部屋を出る気になれなかったカイは、ユベールと、今にも立ち去ろうとするシェリアの間で視線を行き来させる。
「シェリア」
 扉の向こうに消えそうになった少女を、カイは呼び止めた。カイの呼びかけをけして無視する事のない少女が向ける無表情は、なぜ呼び止めるのかとカイを責めているようにも見えた。
「君の力。トラベッタで見せてくれた、君の癒しの力だよ。あれを、ユベールさんたちに使ってあげたらいいんじゃないかな」
 出立直前のトラベッタには、蘇らせるだけで胸に痛い思い出ばかりだ。だが、悪くない思いでもいくつかある。魔物に噛み千切られかけた右腕の痛みが、シェリアの力によって瞬時に癒されたのも、そのうちのひとつだった。
「なぜ、です?」
 眉ひとつ動かさず、無言のままカイを見つめていたシェリアが、ようやく口にした言葉はそれだった。
「え?」
「わたくしがあの者に力を使う事の、何が『良い』のでしょうか」
「何って……」
 相手がシェリアでなければ、わざわざ説明するほどの事ではない。慌てて言葉を模索する自身が滑稽だと思いながら、カイはさりげなく頭を抑え、シェリアから目を反らした。
 自分が他者から見て間抜けなのは仕方がない。シェリアがこう言う娘だと知っていて、ろくに考えもせずに提案をしたのが悪いのだと、思う事ができる。
 だがシェリアの反応は、仕方がないとは思えなかった。父の遺体を目の前にしたカイの時のように、不用意に他者を傷付ける事になりかねないのだから。
「魔物のせいで痛い思いをする人が、ひとり救われるじゃないか。それは良い事だと、俺は思うけど」
 子供に言い聞かせるようにカイが説明すると、シェリアは左右に首を振り、無言で否定してから口を開いた。
「いいえ、カイ様。わたくしの力は、偉大なる父、天上の神エイドルードが残された力。故に、地上の民すべてに、公平に与えられるべきものです。目の前の者のみに恩恵を与えるわけにはいきません」
 か細いながら揺るがない声に紡がれた理由は、正しと認めるべきなのかもしれない。馬鹿馬鹿しいと鼻で笑い飛ばしても良かったのかもしれない。だがカイは、どちらもできずに硬直した。
「エイドルードは、地上の民を公平に救ってくれたわけではないじゃない」
 感情的にシェリアの理屈を認める気にはならず、だが否定してしまえばエイドルードを認める事になる気がして、一歩踏み込めずにいたカイの代わりに言葉を発したのはリタだった。カイとシェリアの間に入ってくる気丈な声は、カイを取り巻く息苦しい空気から、カイを救い出してくれる。
「あたしは見てきた。神の恩恵にあやかれなかった土地を。魔物によって苦しんでた人たちを。神様だってそんなものなんだから、半分は地上の民であるあたしたちが同じ事して何が悪いわけ? いいじゃない。目に映る、手に届く限りの人をとりあえず助けたって」
 魔物狩りとして生きてきた日々の記憶を蘇らせながら、リタは強い口調で告げる。同時にシェリアに投げかける視線は、睨んでいるように厳しかった。
 当然シェリアは、その程度で怯む娘ではない。冷たい声で、声よりもなお冷たい、彼女の中の「常識」を語った。
「それは結界の外にあった人々の身勝手ではないでしょうか」
 苦しむ人々を目の当たりにしてきたカイたちは、呆気に取られ、息を飲むしかできなかった。
「神は結界の外の者たちに、中に入る事を禁じたわけではありません。結界の中に人が溢れていたわけでも、新たに人が暮らすだけの土地が不足していたわけでもありません。結界の外に居た僅かな者たちには、移住する権利を与えていました。ですが多くの者は、その権利を蹴り、結界の外に永住を決めたのです。彼らに神を不平と罵る権利があるでしょうか。神は、神が何よりも尊重した『安全』を拒絶し、別の何かのために生きた者たちを否定せず、許したのです。彼らは、神の寛大さに感謝するべきではないでしょうか」
 リタは目を丸くしてシェリアを見上げていた。
 カイも同じだった。だが、シェリアの導き出した結論に対して驚くだけではなく、半ば感心もしていた。感情的には笑い飛ばしてしまいたいシェリアの言への反論が、頭の中に浮かんでこなかった。
 カイは知っている。トラベッタに住む、優しい人たちを。生まれ育った大地を愛し、海を、海から届く塩の香りを、純粋に愛する人々を。だが、内陸ではなかなか手に入らない海産物で商売を起こし、それによって得る富への不純の愛に生きる者も知っているし、神の目から逃れるために結界の外に逃げたジークの事も知っている。前者はともかく、後者に対しても平等な恩恵を与えるべきかと問われた時、返すべき答えがカイには見つけられなかった。
「君の方が正しいのかもしれない。目の前の人をとりあえず助けたいと望む俺の心は、弱いのかもしれない」
 シェリアに投げた声が思いの他優しく、カイは我が事ながら驚いた。
「けれど、けして間違って居ないと俺は信じたい――そう思う俺を、君は許して、認めるべきだ。君が、君の語るエイドルードのように、寛大であるのなら」
 本音では、同じ心を知って欲しいと望んでいるのかもしれない。カイが望んでも手に入らない、多くの人を救える力を、貸して欲しいとも。
 だがそれは、シェリアをより不完全な存在にするためかもしれず、利己的で身勝手な心なのかもしれなかった。
「判りました」
 肯いたシェリアは、カイに背を背け、今度こそ広間を出て行く。
 残されたカイは同じく残されたリタに向き直った。
「悔しいけど、ずっとここに居たシェリアと、今までの生き方に背いてここに居る俺たちとじゃ、筋の通り方が違うのかもな。完全に負けた気がする」
「完全に、じゃない」
 リタの返事に驚いて、カイは目を見開いた。リタの部屋を追い出されたあの日から、リタからカイに声をかけてくれたのは、はじめての事だった。
「あんたが何も言わなかったら、シェリアはあたしを放っておいたりしなかったはずだから。その点は、感謝しておく」
「どう言う――」
 意味なんだ、と訊ねる前に、リタは床を蹴っていた。小走りでユベールの傍に寄ると、痛々しい膝に手を翳し、小さく何かを唱える。遠すぎてはっきりと聞き取れなかったが、神聖語のようだった。
 唱えたと同時にリタの手から生まれた光は儚いものだったが、間違いなく、シェリアが放つ光と同種のものだった。体を蝕む傷が多少は癒えたのか、杖頼みとは言え立ち上がる事ができるようになったらしく、表情をやわらかくしたユベールが、リタに対してしきりに頭を下げる。
 そう言えば、誰かが言っていた。リタとシェリアは同じだけの力を秘めているのだと。しかし、受動的に発動する破邪の力とは違い、癒しの光や裁きの雷は能動的に使わなければならなず、力を持っている事実や神聖語を誰かに教えてもらえる環境になかったリタには、知り得なかったのだと。
 リタは大神殿で過ごす日々の中、秘めた力を発動する術を、少しずつ習得していったのだろう。そしてシェリアは、そんなリタを制止しなかった。リタがどう動くか、予想できないわけがないだろうに。
 カイは廊下に飛び出した。遠ざかって小さくなった背中を見つけると、小さく微笑みかけた。


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Copyright(C) 2007 Nao Katsuragi.