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二章 約束




「……探索に来て良かったよな」
 洞窟の最奥に広がる光景を目にした瞬間、カイは呟いていた。
 一見しただけでは、さほどおぞましいと言える光景ではない。洞窟を深く潜り続け、最終的に到達した楕円状に広がる場所に、十数個にも及ぶ球体と、蟻を二匹発見しただけだった。
 蟻の体長はリタの半分ほどで、力いっぱい噛み付けば、人間の腕程度ならば噛み千切れそうな歯も持っている。一般の蟻と比べてしまえば充分化け物だが、これまで戦ってきた魔物と比べれば、明らかに小さく、弱かった。おそらくは、昨日かそれ以前に倒した魔物の子供で、球体は卵であろう。
「そうだね。明らかに、繁殖してるよね。昨日案内してくれた人、凄く嫌そうにしていたけど、感謝してもらわないと」
 リタは同意しながら、腰の剣を引き抜いた。
「とりあえず、潰そうか」
「数は多いけど昨日よりは明らかに楽そうだな」
 カイもリタに倣って剣を抜いた。
 もちろん、昨日折ってしまった愛用の剣ではない。昨日アシェルに戻ってセウルに報告と事情説明をしたところ、快く譲ってくれたのだ。アシェルの町の衛視たちが使っている一般的なもので、予備として倉庫に数本眠っていたものの一本らしい。
 刃の長さ、剣そのものの重さ、柄の形や細さなど、あらゆるところが愛用の剣と少しずつ違うため、使いやすいとはけして言えないが、贅沢は言っていられない。同じ剣を準備するためにトラベッタに戻るわけにもいかないし、戻ったところで剣が直せるかどうかも、同じ剣が手に入るかどうかも判らないのだ。先の事はともかくとして、今はこの剣に自分を馴染ませるしかないだろう。幸いにも、今日の相手は昨日ほど強敵ではなさそうだ。
 体が小さい分すばしっこく感じる魔物を、使い慣れない剣で捕らえた時、すでにリタはもう一匹の息の根を止め、卵の方の始末をはじめていた。すでに孵っているものがいる事から予想した通り、生まれる寸前の卵ばかりで、潰れた卵からはほぼ蟻の形をしたものがこぼれ出てきている。
「これ、全部孵ってアシェルを襲ってたらどうなってたかな」
「間違いなく全滅だろうな。魔物に慣れてるトラベッタでも、どうなる事か」
「だよね。あたしたち、町の英雄になってもよくない? ま、こんな通りすがりの町で英雄になっても、あたしの方が忘れちゃうだろうし、ちゃんと報酬払ってくれればそれでいいけど」
「冷たい意見だな」
 カイは率直な感想を口にしてみたが、リタは機嫌を損ねる様子はなく、むしろ楽しそうに笑みを浮かべて、切り返してきた。
「あたし、何か間違った事言った?」
 カイは柔らかな笑みを浮かべ、首を左右に振った。
「俺も同意見だよ。アシェルの町を助けられた事は純粋に嬉しいけど、トラベッタに帰りたいって気持ちの方が強い。俺が守りたいのは、やっぱりトラベッタなんだな――それが理解できただけでも、この仕事に意義はあったのかもしれない」
「じゃ、報酬いらない?」
「それは別問題だ」
 ふたりは顔を見合わせ、ひとしきり笑った。魔物は滅び、互い以外の生物が存在しない洞窟の中は寂しいほど静かであったはずなのに、笑い声が絶えないその時間は、むしろ賑やかと言えた。
 最後の卵を潰し終え、こびりついた魔物の血を拭い、剣を鞘に納める。ほぼ同時に作業を終えたふたりは、どちらからともなく来た道を振り返った。
 並んで、ゆっくりと歩き出す。暗い洞窟の中である事は変わらないが、魔物が残っていない事を判っている今、往路ほど緊張感に包まれていなかった。心なしか足取りと気分が軽くなっている。
 カイはリタの横顔を見下ろした。誇り高く胸を張って歩く少女の表情は達成感に満たされて明るく、空色の瞳は眩しいほど輝いている。
 だが、カイは直感的に思った。何か物足りない、と。
「ほとんど分岐のない道のりだったし、分岐がある所も、しらみつぶしに全部探索した。完璧な仕事だよね」
「そのつもりだ」
「これでアシェルに魔物は来なくなるだろうし、アシェルに帰ったらこの仕事は終わりかな。もう二、三日、様子見で残る事になるかもしれないけど」
「そうなるだろうな」
 カイははじめ、リタの横顔を眺めながら、彼女の表情に欠けているものは何なのだろうと考えていた。しばらく考えて、欠けていると言うよりは余計なものが加味されているのではないかと思い至った頃、突然大きな瞳に睨み付けられ、思わず仰け反った。
「凄い生返事だけど、あたしの話聞いてる?」
「え……あ、うん」
「本当かな」
 真っ直ぐに見上げてくる瞳に、思考を傾ける方向が強引に変更された。
 少し前、具体的にはそう、昨日からだ。何かがカイの中で引っかかっており、しかし何が引っかかっているのかは判らなかった。気持ちが悪く、はやく答えを知りたいと思ったのだが、どれほど考えても答えは判らない。そうして考えるだけ無駄だとの結論に至り、無理矢理忘れ去った問題を、目の前につきつけられたのだ。
 得体の知れない不愉快な気分が胸の中を占領しはじめ、カイは自身の胸元を抑えた。まったく気分が悪い。だが、どうして気分が悪いのかも、どうすれば解決するのかも、やはり判らないままだった。
「カイはこの仕事が終わったらトラベッタに帰るんだよね、もちろん」
「ああ」
「そうだよね」
 短い間表面に出ていた怒りが、リタの表情から消えた。
「君はこれからどうするんだ?」
 話の流れから自然に湧き出てきた問いが自身の唇から放たれた瞬間、カイは唐突に悟った。疑問に思っていたふたつの問いの答えが、目の前に揃って置かれた気分だった。
 リタは仕事を完璧に終えた事に誇りを抱き満足している。それは間違いない。それによって浮かぶ明るい表情の中に、隠れるように混ざりこんだ感情――不安なのか寂しさなのか、カイに具体的な事は判らなかったが、どちらにせよ、仕事が終わった後の事を未だ定めていないせいだろうと予想が付いた。実に簡単な答えだ。
 そして、答えどころか問すらもはっきり理解していなかった、もうひとつ問題。
「どうしようかって考えていたんだけど、やっぱり――」
「あのさ」
 リタの答えをわざと遮ってカイは続けた。
「俺は昨日からずっと引っかかっていた事があって、その答えが今ようやく判ったんだが」
「それは、自分から聞いてきた質問に答えようとしているあたしの声を遮ってまで言わないといけない事?」
「だと思う。君のこれからに関わるかもしれないし」
 リタは息を飲んで間を開けてから続けた。
「一体、何?」
「いや、だから……」
「何で口ごもるの」
「その……俺には、君を口説く権利があるんじゃないかって、思って」
 カイは手袋をはずし、剥き出しになった暖かな手で、そっとリタの手を取る。少女の手は、カイよりも少し冷たかった。
 大きな瞳を更に大きく見開いたリタは、しばらくの間は呆けた様子でカイを見上げていた。カイの言葉を消化し、言葉の意味を脳の奥まで浸透させるには、多くの時間が必要だったようで、リタが瞬時に顔中を朱に染め上げたころには、ふたつの手の温度が同じだけになっていた。
 リタはカイの手を振り切る。自由になった両手で、熱を計るように己の頬に触れる。カイの視線から逃れるように顔を反らしてから、続けた。
「そんな、義務みたいに思わなくてもいいよ。ただの偶然、うん、偶然なんだから」
 カイは静かに息を吐いてから返した。
「放っておけば数日後には半永久的にさようならできる相手に、果たす義務なんてどこにあるんだ」
「……で、でも」
「義務とかではなくて、俺は心から、このまま何もせず、数日後に半永久的にさようならする事を、嫌だと思ったんだ」
「ま、待って」
 リタは言いながら片手を突き出し、カイの言葉を遮ろうとした。しかしそれでもカイが言葉を続けようとすると、カイの唇に両手を押し付け、力ずくで声を止める。
 唇に触れる手は、震えていた。
「それ以上は言わないで。今は、まだ。今言われたら、あたし、絶対、流されるから。それが凄く嫌だから。自分が何なのか、この力が何なのかも判らないうちに、この力に踊らされているみたいで、凄く癪に触るんだよ。魔物狩りになったのはいい。あたしがこの力を利用してやってるんだから。でも、今、あんたを選ぶ事は、あたしがこの力に利用されているような、そんな気になる」
 カイがリタの手の下で、唇を硬く引き締めると、リタは片腕を自身の胸元に入れ、首にかけたメダルを取りだした。
「これね、エイドルードに仕える、それなりに偉い人しか貰えないものなんだって。これを、あたしを抱いていた男が持っていたんだって。その人を知る手がかりになると思うから――だから、あたし、この仕事が終わったら、王都セルナーンに行って、男の事を調べてみようと思ってる。少しは判ると思うんだ。そしたらあたしの事も、少しは判ると思うんだ」
 リタは大きく息を吸ってから続けた。
「だから、ごめん。自分でも凄く我侭だって判ってるんだけど、その後、あたしトラベッタに行くから。その時に、続きを聞かせてくれたらって……」
 ゆっくりと、リタの手が離れていった。困惑の色を濃く浮かべた空色の瞳が、カイの表情を確かめるように見上げてきて、カイは微笑む以外の表情を選ぶ事ができなかった。
「待ってるよ。トラベッタで」
 リタの事をひとつずつ知るたびに、彼女の強さや優しさが、眩しかった。
 その強さや優しさを守るために、セルナーンに向かう事が必要だと言うのなら、引き止める事などカイにはできない。快く送り出してやらなければならないのだ――それがどんなに辛い事でも。
 だが、辛くはない。カイはリタに拒絶されたわけではないのだ。彼女なりの精一杯で、繋ぎ止めようとしてくれて、それは我侭なのだと、言ってくれた。
 嬉しいと、心から嬉しいと、そう思えたのだ。


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