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二章 約束




 注意しろと何度言われたか知れないし、以前の自分は、無意識に距離を置こうとするほどに彼女を恐れていた。
 だと言うのに、カイはこの一瞬、全てを忘れてしまっていた。彼女が魔物と戦うために素手であった事、汗を拭こうとして手袋をはずしたまま戦闘に突入したため、自分も素手であった事、何人もの男たちが彼女に触れようとして、強大な力に拒絶されてきた事。
「駄目!」
 その力によって幾度も苦痛を味わってきたリタは覚えていたのだろう。カイが少女の腕を掴む瞬間、悲鳴にも似た叫びでカイを制止しようとした。自らが闇の底に落ちていく事よりも、カイが自分に触れようとしている事の方を、より恐れているようにも見えた。
 なぜ『駄目』なのか、なぜ触れられる事を恐れるのか――リタを助けたい一心であったカイにはその程度の事すら思いつかず、リタの腕を掴んでいた。
 ずしり、と少女の重みがカイの腕にかかった。
 小柄で細身な少女は、思っていたよりもずっと軽かったが、咄嗟に腕を伸ばしただけの不自然な体勢で引き上げる事はさすがに不可能だった。カイは一度体勢を整え、息を吐き切ってから再び息を吸うと同時に力を込め、リタの体を引き寄せた。
 リタの両腕が地面を掴めれば、もう安心だった。溝の底の魔物は最後に残された力で暴れただけなのか、もう二度と地面が揺れる事はなく、少女は自身の両腕で自らの体を引きずり上げ、その場に座り込む。
 全身を小刻みに振るわせながら、リタは空色の瞳をカイに向けた。そこに浮かべる感情は恐怖でも怒りでも感謝でもなく、ただ強い驚愕のみだった。
「あ」
 カイはようやく気付く。自分が布一枚すらも隔てずに、リタに触れてしまったと言う事実に。
「えっと、わ、悪い。俺、自分の手が魔物の血で汚れてるなんて事、咄嗟だったからすっかり忘れてた。君も汚れてしまったな。すまない」
 眼差しを重ね合わせる事で、リタの動揺を受け取ってしまったカイは、混乱しているせいか考えついた中で一番どうでもいい事を口にしていた。カイが触れてしまったせいで彼女の腕が魔物の体液で汚れたのは事実だが、その結果命が助かった事を考えれば、取るに足らない問題である。
 カイは戸惑った。ただ真っ直ぐに見つめてくる空色の瞳を黙って見つめ返す事は息苦しいが、新たな言葉は全く口をついてくれない。仕方なく、魔物の血に塗れた自身の手を見下ろす事で、リタの視線から目を反らした。
「なんで」
 ほぼ放心状態となっていたリタは、小さな唇からようやくその言葉だけを紡ぎだした。
「……なんで、だろう?」
 どうしようもなくなって、カイは笑った。笑いながら、投げかけられた問いをそのまま返すしかなかった。
 カイはこれまで、魔物を吹き飛ばすリタを何度も見てきたが、男を吹き飛ばしているリタを見た事は一度も無い。アシェルに来た時にすれ違った男の態度や、何よりもリタの辛そうな語り口調から、彼女の言葉を信じただけだ。
「彼女はずっと嘘を言い続けていたのではないだろうか」と、カイは一瞬だけリタを疑った。しかし、未だ夢を見るようにカイを見つめ続ける少女の眼差しは、やはり偽りとは思えなかった。
 では、どうしてだろう。どうして、数多の男たちの中で自分ただひとりが、リタに触れられるのだろう。
「今まで、みんな駄目だった。生きてる男の人は……カイって、実は女の子」
「それは絶対ない」
「じゃあ、死体が動いてるの?」
 リタの手がおそるおそるカイに伸びる。
 柔らかな指が存在を確かめるようにカイの輪郭に触れた後、頬を撫でた。カイに体温や脈がある事を確かめているのかもしれない。
「とりあえず、今までに死んだ記憶は無い」
「じゃあ、人形?」
「いや、それは、ないだろう」
「じゃあ、どうして」
「……どうしてだろう」
 同じ問答に戻ってしまい、カイは苦笑した。
 つられるように僅かに笑ったリタだったが、まだ信じられないようで、カイの顔に触れていた手を、今度はカイの手へと移した。
「汚れるぞ」
 魔物の血に塗れたカイの手はお世辞にも綺麗とは言い難かったが、リタは気にする様子を見せなかった。力無く投げ出されたカイの手に自身の手を重ね、やはり何も起こらない事を確認すると、俯く。
「意味、判ら、ない」
 リタの唇から、短く切り刻まれた言葉が零れ落ちていった。
「なんで、カイは、平気なの。カイだけが……やっぱり、意味、判らない」
 俺だって判らないよと思いながら、思った事を口にせず、カイはリタを見下ろした。
 リタの瞳は、散らばる石の欠片を見つめていた。だが、意識してそれを見ようとしているわけではないのだろう。これまで信じ込んできた運命が否定された現実をしっかりと受け止め、自身の中で整理するために、彷徨っていた視線をそこに定めたにすぎないはずだ。
 カイはしばらくの間、ひとりで戦うリタを見守っていたが、やがてこの洞窟が魔物の巣であった事を思い出すと、ゆっくりと立ち上がった。リタを助ける際に放り投げたリタの剣を右手で拾い上げ、もう一方の手を、未だ立ち上がろうとしないリタへ差し出す。
「リタ。とりあえず今日はアシェルに帰ろう」
 疲れて、混乱したままで、魔物が出るかもしれない洞窟に居座るのは危険だ。一度戻って、荷物も、気持ちも、できる限り整理をつけた方がいいだろう。
「うん」
 リタは僅かに戸惑ったが、カイの手を借りて立ち上がった。照れ臭そうにしつつも、人の温もりに触れる喜びに酔うように強く手を握ってきたので、カイも同じだけ強く少女の手を握り返した。
 するとリタは顔を上げ、カイを見つめ、小さく笑う。
 カイも微笑み返した。どうしてか、魔物を倒した時よりも、満たされた気分だった。


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Copyright(C) 2007 Nao Katsuragi.