アスファルト

 じっとアスファルトばかりを見つめて歩くのは楽しいかと、誰だったか、俺に聞いた。誰か忘れたけど、たぶん神尾か内村。
 まあ楽しいわけないよね。ずっと同じ色だし、同じ景色だし。素人じゃあきっと、どこまで歩いたか判らなくなるよ。俺はもうすっかり慣れてしまったから、微妙な変化を発見する事に小さな楽しみを見つけられるくらいにまでなったけど。
 楽しくは、ない。
 けど、とても楽なんだ、俯いているのは。
 こんな事正直に言うと、神尾なんか「自分で言うなよ!」なんて騒ぎ出して面倒だから言わないけどさあ。
 俺たち全員、あのろくでもない先輩たちよりテニス上手いけど、中でも俺が一番上手いだろ。
 それになんか俺って、普通の奴に比べてずっと顔、いいみたいだし。
 みんな嫌な目見ているのは同じだから、わざわざ言わないけどさぁ……多分俺が一番目、つけられてるんじゃないかなあ。なんか殴られる時も顔が多い気がするし。
 だから、俯いているのは、楽なんだ。
 俺の顔を見なければ、俺が顔の事で騒がれなければ、あいつらも少しは機嫌がよくなる。
 それに、余計な、見たくないものが目に入らなくて、俺も気分がいい。
 ……こんな事を言えば、神尾たちは笑うかな。
 俺は一面に広がるグレーが、とても綺麗に感じるんだ。

 転入生の橘さんの存在はとても頼もしかった。
 俺たちは俺たち自身が望んでいた体制を手に入れて、毎日楽しくやっている。
 世界が明るく、綺麗になっているんだから、もう俯く必要はない。そう、ある日突然気付いたのだけど――もうその頃には、すっかり癖になっていて。
「よ、おはよう! 深司!」
「ああ、おはよう。神尾」
 以前、ひとりで朝部室に着きたくないからって(六人でもロクな目にあわないけど、ひとりだともっとロクな目にあわないから)、家が割と近い神尾と、近くの十字路で合流するようにしたんだけど、その習慣が今もこうして続いているのと同じで。
 治すのめんどくさいから、今まで通り。それでいいだろ?
 薄汚いアスファルトを見下ろしながら歩くのも、そう悪いもんじゃない。足元見るから、転ぶ事はまず無いし。
 たまに、人にぶつかったりするけれど。
「おい、深司!」
 神尾が俺の名前を呼んで、足を止める。
「え?」
 って気付いた時には、もう遅かった。けっこう大きな衝撃を頭に受ける――誰かに、ぶつかったんだ。
 あー、頭痛いなあ。なんだよ。前見て無い俺も悪いけど、俺だけのせいじゃ無いぞ。そっちこそちゃんと前見て歩けよな。
「お、おはようございます、橘さん! 大丈夫ですか!?」
「おはよう神尾」
 あれ? 橘さんだったんだ、ぶつかったの。それは、悪い事しちゃったなあ。
「あー……おはようございます、橘さん。すみません、ぶつかってしまって。大丈夫ですか?」
「伊武……」
 橘さんは「おはよう」とも「気にするな」とも言わなかった。それなら怒られるのかな、と思えば、それもない。
 顎に手をあてて(顔に手をやるのは、橘さんの癖っぽい)、ちょっと考え込むそぶりを見せて、それから急に俺の頭を両手でがしっと掴んだ。
 何する気ですか、橘さん。
「な、何する気ですか橘さんっ」
 俺がわざわざ言わないでおいた事を、神尾が言うし。当事者でも無いのにそんなに慌てるなよ。橘さんが意味も無く技をかけてきたりするわけないだろ。
 でもまあ確かに、何をする気なのか気になるのは間違いないから、俺も聞いてみるか。
「たち……」
 橘さんの手から、俺の頭に軽く力が伝わった。
 力に引っ張られて、俺の顔は上を向いた。
 灰色ばかりを映していた俺の両目に、橘さんの微笑みと、眩しいほどの青空が映る。
「……ばな、さん?」
「前から気になってたんだよ。お前下ばっかり見てるだろう」
「はあ……」
 ああ、気にかけてくれてたんだ。さすがだなあ橘さん。
「上を見ろ。大した変化のないアスファルトを見て歩くより、空を見て歩いた方が気持ちいいだろ? それに今みたいに他人にぶつからなくてすむ」
 ああ。
 さすがだなあ、橘さん。
 俺、忘れていたんですよ。橘さんがアスファルトの暗さを知らない事が当然のように、青い空を見上げる事の意味も、空の明るさも、当然のように忘れていたんです。
 空が、そして橘さん自身が、あんまり眩しいから、まともに目を開けていられない。俺は何度も何度も瞬きをして、確認するように橘さんの手が離れると、一回だけ小さく頷いた。
「はい。そうですね、橘さん」
 俯かずに、橘さんの目を見つめて。
 すると橘さんは浮かべる笑みを強くして、俺の頭をがしがしと撫でた。
 髪、乱れるんですけど。
 まあ別に、そんなの気にしてないんで、いいですけどね。
「判ればいい。ほらいくぞ、ふたりとも」
『はい!』
 俺と神尾の声が重なって、俺たちふたりは、先を歩く橘さんの背中を追う。
 まったく、どうしてだろう。
 どうして橘さんはいつも、俺自身が気付いていないくらい奥底に眠った願望を、叶えてくれるんだろう。
 俺に空を仰がせてくれた橘さんのために、俺ができる事はなんだろう。
「橘さん」
「なんだ?」
「次は絶対全国、行きましょうね」
 橘さんは一瞬だけ振り返り、いつもより少しだけ子供っぽく、笑う。
「当然だろ」
 はい。そうですね、橘さん。


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