溺れる魚

 太一のヤツ、練習中から元気がなかったから、ちょっと心配してはいたんだが。
 練習後、着替えを終えたヤツらから順に帰っていく中で、何やら思いつめたような顔をして立ち尽くしていた太一は、ある時はっと気付いたと思うと、きょろきょろと部室の中を見回し、それから何か決意したような強い視線になって、俺のそばに近付いてきた。
 そんな太一の一連の行動に気付いてなかったふりをしつつ、心の中では身構える俺。千石とは違う意味で、太一の行動は読めないんだよな。
「あの、南部長!」
「ん? どうした太一」
 俺が太一を見下ろすと、太一はやたら真剣な顔で、胸の辺りで拳をふたつ作りながら、訴えはじめた。
「人間は、歩くです」
「ああ、そうだな、歩くよな」
「でもたまに、転んだり、倒れたりするです」
「まあそうだな、たまにだけど」
 実は太一はしょっちゅうなんだが、まあそんな細かいツッコミはいらないか。
「じゃあ魚も溺れる事があるですか!?」
 多分太一は、それに関してけっこう本気で悩んでいるんだろう。
 子供が色んな事に興味を持って、疑問を抱くのはいい事だと、誰かが言っていたような気もするし、子供の質問にどう答えるかが、親の腕の見せ所だとか言っていた気もするんだが。
 その場合の「子供」は、幼稚園児とか小学生の事だろうし、何より俺は太一の親じゃないからな。
「さあ、どうだろうな……」
 俺は別に生物が得意ではないし、魚類について詳しいわけでもない。んな事聞かれても、判るわけがない……よりによって、なんで俺に聞くんだ、太一。
「えー? 溺れるに決まってんじゃん!」
 ひょこっ、と横から顔を出してきたのは、千石だった。
 いつもはうるさいとかうざいとか思ってばかりの俺だけれど、今この時ばかりは千石が救世主に思える――多分、気のせい、あるいは一時の気の迷いだろうけどな。
「ん? 千石、知ってるのか?」
「うん、だってさ、河童だって川に流されるんだよ? 魚だって溺れるでしょ」
 俺が「それは単なるもののたとえって言うかつまりはことわざなんじゃないか」と思った矢先に、
「河童は空想上の生き物ですよ、千石さん」
 この場合もっとも正しいと思われるツッコミを入れたのは、室町だった。
 さすがだ、室町。
「え? じゃあ、河童は川流れしないの!?」
「『河童は泳ぎが得意だ』って人間が勝手に決めつけただけですからね。元々川に流される程度の能力しかないかもしれないって事です」
「は〜、そうか。じゃあ、河童が泳ぐ事は、魚が泳ぐとか、人間が歩くとかと同列に扱っていいか判らないって事だ。さすが室町くん、賢いなあ」
 いや、そもそも河童の存在そのものがないんだが。
 三人の雰囲気が妙に盛り上がっていたので、無粋なツッコミで口を挟むのを諦めた俺だった。
「じゃあ室町くんよ。結局、魚は溺れるのかな?」
 その疑問はもはや、太一だけのものではなく、千石も共通して抱くものになったようだ。
 ……ある意味一番厄介なふたり組だな。
「そんな事俺に判るわけがないでしょう。ではお先に失礼します」
 ふたりの視線を一身に浴びた室町がどう対応するかと見守っていた俺は、あまりに鮮やかな逃げ方に感心し、うっかり挨拶も返さず室町の背中を見送ってしまったのだ。
 そうなれば当然、俺がよっつの疑問に満ちた瞳に見上げられる事になってしまう。
 いや、だから、そんな目でみられても。
「判らないもんは、判らないんだから、諦めてくれふたりとも」
「いや、南が判らない事なんてあるわけないって!」
 沢山あるっつうの。
「おだてても判らんもんは判らん」
「ちぇっ」
 ちぇって。どんな答えを期待してたんだお前。
 そんな千石はまあ、どうでもいいとして。
「南部長でも判らないですか……」
 本当に疑問を抱いてた太一の悲しそうな表情を見ると、どうも可哀想だなあ、と思えてきてしまう。
 冷静に考えれば、そんな疑問はどうでもいいと思うんだけどな。でも人間誰しも、どうでもいい疑問をかかえて苦しむ事ってあるもんな。助け合いの精神が必要だ。
 俺は腕を組んで数秒考え込む。
 俺の真似をしているのか、千石も俺とまったく同じポーズを取った。
 そして突然、はっと何かに気付いたように顔を上げる。
「ねえ東方、東方なら魚が溺れるかどうか、知ってるんじゃない!?」
 千石に名前を呼ばれた、図体のでかさでは山吹一のその男は、
「え、俺?」
 なんとも地味に返事した(いや、これは俺、人の事言えないんだけどな)。
「どうして俺に聞くんだ?」
「だってなんか、東方って顔、魚類系じゃん。なんか知ってるかなーと思って」
「……じゃあ今度、猿の生態をお前に聞いていいのか?」
「んまっ、東方クン! このプリティーキヨスミを猿扱い!?」
「ああ、そうだ、猿と言えば」
 かわいこぶって怒りを表現する千石を、俺たちはさらっと無視した。
 多分そのうち、無視されている事に寂しくなって、何事もなかったように輪の中に戻ってくるだろう。千石は、そう言う奴だ。
「猿だって木から落ちるんだから、やっぱ魚も溺れるんじゃないか?」
 東方の発言に、その場の空気がしん、と静まり返る。
「いや、それも単なるもののたとえって言うか、ことわざだから」
 もう室町も居ないし、さすがにここは放置したらいけないだろう、と思ってツッコんでみた俺だった。
「えっ、そーなの南ぃ!?」
「猿って木から落ちる事ないですか!?」
「人生に一度や二度、落ちるんじゃないのか!?」
 三人からたたみかけるように質問されて、さすがに俺も、戸惑った。
 え? 猿って、本当に木から落ちる事あるのか……?
 心底うろたえつつも、それを表に出すのがものすごく癪だった(うろたえるのは基本的に、東方の領分だ)俺は、
「猿の一生は、人生じゃないだろ。猿生だ」
 なんてアホな事を言って、話をごまかすしかなかった。


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