「あー!」 部活のあとで突然叫んだのは、神尾だった。 あまりの大声に、神尾の隣で着替えていた深司は耳を抑え、あからさまに不満げな視線で神尾を睨みつける。そんなふたりの険悪なムードを和ませようと、咄嗟に間に入ったのは桜井だった。 「どうしたよアキラ。何かあったのか?」 「どーしよう俺! 明日までの英語の宿題、やってねえ!」 またか、と。 俺でさえ思ったのだから(スマン、神尾)、この時部室内に居た誰もが、思ったに違いない。 「またかよアキラ、お前ほんっとバカな」 正直に口に出したのは、内村だけだったが。 「なんだよ、皆やったのかよ!」 「英語の宿題って、訳詞のだろ?」 「ああ、そう」 「やったよ」 「とっくに」 「昨日出した」 「当然だろ」 「前日まで存在を忘れているバカなんてそう居ないよね……」 深司の言い方は少々辛らつすぎる気もしたが、言われた本人である神尾が今回ばかりは言われても仕方ないと思ったのか、反論する様子を見せない。 黙って荷物からバインダーを取り出し、そこに挟んであるわら半紙のプリントを取り出すと、すがるような目で他の五人を見回した。 「頼む、写させてくれ!」 『やだ』 お前ら、神尾を虐げる時は本当に息があってるな。 だが少なくとも今回は、その姿勢が正しいと言えるだろう。なんでもかんでも写していたら、神尾のためにならない。 まあ、こいつらは神尾のために拒否したわけではなく、苦労して解いた宿題をただ写されるのが嫌だから拒否したんだろうが……。 「大体、アキラの課題はなんだよ?」 「え? ええと、ビートルズのレット・イット・ビー、だな!」 神尾が答えると、桜井は肩をすくめた。 「ああ、じゃあどっちにしろ駄目だ。俺イエスタデイだったから」 「俺はカーペンターズのトップ・オブ・ザ・ワールドだった」 「あ、俺も俺も」 「あれー? サイモン&ガーファンクルだったのは俺だけ?」 学年の違う俺にはよく話が判らないのだが。 これまでの話から推測するに、どうやら二年全体には英語の歌の詞が印刷されたプリントが配布され、それを日本語に訳さなければならないらしい。しかも歌は数種類あるようだ。 「深司は!?」 最後の望みをかけて、神尾は深司の腕を引く。 深司はじっと神尾をにらみ、それからふいと顔を反らした。 そうか、深司。お前はレット・イット・ビーだったんだな。 「ちくしょー深司め! あー、もうどーすればいいんだー!」 「自業自得だろ、今日中に頑張るか、明日先生に怒られるか。ふたつにひとつ」 「やだよ!」 「やならもっと早くやっとけ!」 ごつん、と桜井は神尾の頭を拳骨で軽く殴る。 そうだな。まったく正論だ、桜井。 「今日中に頑張れ、神尾。レット・イット・ビーならそれほど難しい単語も文法も使われて無いはずだぞ」 「た、橘さん! でも俺、英語苦手で……!」 「英語だけじゃないだろ」 「うっせ!」 いつものパターンならばここから、神尾と内村の間に小学生のような口論がはじまるのだが。 今はそれを微笑ましく見守る余裕は無いので、俺は荷物から英語の辞書を取り出し、神尾の頭の上に置く。 「え……?」 神尾は両手で英語の辞書を受け取る。 「ほら、とっとと訳すぞ」 「って、た、橘さん、教えてくれるんですか!?」 「俺じゃ不満か?」 「とんでもない!」 今までどこか不安げな表情を浮かべていた神尾だったが、現金なもので、笑顔を浮かべて部室の隅に追いやられている机につく。 まったく、自力で訳す気あるんだろうな? 俺は手伝うだけだぞ。 「で、どこが判らないんだ?」 「全部です!」 おい、胸を張って言う事か、それが。 「いやー、俺だってはじめはちゃんとやろうとしてたんですけど、なんか飽きちゃったんですよ。曲はいいなーって思いますけど、あんまりリズムに乗れませんし、詞は英語だからワケ判らなくて興味ないし、興味の無いもん訳してもつまらないじゃないですか」 「……宿題は飽きたとかつまらないなんて理由でさぼっていい事ではないぞ」 「はあ、そうですよねー。すみません」 神尾はとりあえず辞書をケースから取り出し、じっとプリントを睨みつける。 ……ふむ。 基礎トレーニングと言うものは地味で単調でつまらないものだが、神尾は毎日、それを大人しくやっている。とくにランニングやダッシュなどは、水を得た魚のようにはりきってやっているはずだが。 文句を言わないのは、テニスに興味を持っているから、と言う事だろうか。 ならばこの歌に神尾が興味を持てばいい、と言う事だな? 「これってどんな歌なんですか? いきなり聖母マリアとか出てきますけど、宗教系?」 「作り手の意図を俺は知らないからなんとも言えんが、それは好きに取ればいいんじゃないか」 俺は答えながら、歌詞の一説を指差す。 「俺はこの歌が好きだぞ。特に、この辺り」 「……なんて書いてあるんですか?」 「『失意を抱いた者たちが』」 俺が訳詞を途中まで口にすると、神尾は黙って俺を見上げた。 背中の向こうから、五人分の視線が集まっているのも感じる。 「『心をひとつにすれば、答えは見つかる』」 神尾が感動している様子が、目に見える。 失意しかなかった時代を、皆で力を合わせてそこから抜け出した時代を、思い出しているのは明らかだ――そのためにわざわざ訳を教えてやったんだから、そうなってくれないと困るんだけどな。 「……いいですね」 「だろ?」 「俺、訳、頑張ります!」 それまでまったく無いと言ってよかった神尾のやる気は、突然溢れ出したようで、真剣な目でプリントを見つめる。 よし。この調子なら、一時間もあれば充分終わるだろう。神尾に必要なのは優秀なやつの手伝いよりも、本人のやる気だからな。 「でもさあ」 「どうしたのさ、深司」 ああ、そう言えば、深司の課題もレット・イット・ビーだったんだな。 「その続きって、『あるがままに』だったんだよね。俺たちぜんぜんあるがままじゃないよね……」 言うな、深司。まったくお前の言う通りなんだが。 俺はおそるおそる神尾の横顔を覗き見る。 どうやら深司の呟きは聞こえていなかったようで、俺はほっと胸を撫で下ろした。 |