「おっじゃまっしまーす!」
 元気な声で挨拶して、男子テニス部の部室のドアを開けると。
 まるで狙ったようなタイミングで、金色のボタンがコロコロコロ、と私の足元まで転がってきた。

 これはちょっと、惨めかもなあ。
 ううん、これはきっと、ちょっとどころじゃないんだわ。だいぶ惨めなのよ。
 だって、だってよ。
 男が七人しか居ない部室に、女の子がひとり入っていって。
 そしたらちょうど、その中でも一番大切な人の制服のボタンがはじけ飛んで、私の足元に転がってきたのよ。
 今時ソーイングセットを持ち歩いている女の子なんてものすごい希少価値で、残念ながら私はその希少な人材には入れないのだけれど、でも、たまたまお裁縫箱を持っていたのよ。ちょうど私のクラスは今日、家庭科の中でも被服の授業が終わって、次からは調理実習になるから、家に持って帰ろうと思ってたの。
 そうよね、きっと、普通、女の子が好きな男の子とこんな都合のいい状況に陥ったら。
 ボタンを相手に返さないで、「制服貸して。つけてあげる」なんて、笑いながら言うのよね。ボタンつけに自信がない子なら違うかもしれないけど、私はボタンつけくらいなら、それなりにできるし。
 でも、私の場合は相手が悪すぎた。
「あ、杏ちゃん裁縫箱持ってるんだ。借りていい?」
 石田さんは優しく笑って、私にそう言ってきたのよ。
 とてもじゃないけど「私がつけてあげる」なんて言えるわけがなくて、私はおとなしくお裁縫箱を石田さんに貸した。
 私、家庭科の先生に「手際いいわね」って誉められたくらいで、それなりに裁縫の腕に自信はあるんだけど、それでも石田さんには絶対にかなわない。
 だって石田さん、去年の被服の課題だったエプロン、家庭科室に飾られてたくらい上手だったのよ(自分に合わせたサイズでつくるから、大きすぎて、掲示板からはみ出てたのが印象的だったっけ)。
 今年の被服は自由課題で、石田さんはパジャマに挑戦してたんだけど、完成品を見せてもらった時は普通に売り物かと思ったくらい。
 そんな石田さんの制服に私がボタンをつけるなんて、できるわけがないわよ。できたとしても、石田さんの目の前でなんて、絶対やれない。
 ……ああ、私ってばやっぱり、すっごく惨めね。
 何が惨めって、この惨めな気持ち、つい最近別件で味わったって事。
 半月くらい前だったかなあ、お母さんが夜家に居ないからって話になった時、お母さんってば、「じゃあ夕飯つくるの、頼んだわね」って兄さんに言ったのよ!
 私だって、下手なわけじゃないのに。それどころか、家庭科の先生に手際がいいって誉められたし、味付けだって同じ班の皆に好評だったんだから。
 兄さんが上手すぎるだけなのよ。私の立場がなくなるくらいに。
 石田さんが器用すぎるだけなのよ。私の立場がなくなるくらいに。
 まあね、全部奥さんとか彼女任せの男の人より、ずっとずっといいとは思うんだけど。
「あれ? 杏ちゃん。黒い糸、どこにあるのかな?」
「あ、ごめんね。私、黒は授業で使わなかったから、二段目にしまってあると思う」
「ほんとだ。ありがとう」
 石田さんは、私が一年ちょっとの授業の中で一度も使わなかった(だって生地は好きな色でいいって先生に言われたから、華やかな色のしか使わなかったんだもの)黒い糸を取り出して、意識を集中させて、すんなりと針の穴に糸を通した。
 あ、なんか。
 たかがボタンつけって侮って見ていたけど、細かいところの動作が、すごく石田さんらしい。
 針に糸が上手く通らなくて、イライラしているクラスメイト(主に男子)を思い出すと、石田さんとのあまりの差におもしろくて、笑ってしまう私。
「えっ、何? なんか俺、笑われるようなおかしい事したかな?」
「ううん、そうじゃなくて」
「そんなでっかい図体で器用に裁縫しているって時点ですでに充分おかしいだろ」
 あらら、桜井くん。そんな……フォローの難しい事言っちゃって。
 でも、けっこうひどい事言われているのに、それでも石田さんは怒らないで、むしろ落ち込んだ感じで、背中を少しだけ丸めながらボタンつけをはじめた。
「そりゃまあこう言う作業が俺に似合ってない事は認めるけどさ。神尾みたいに逆の意味で芸術作品作るよりはマシだと思うぞ」
 ボソリ、と呟くように反論すると、部室の反対側に居た神尾くんが、リズムに乗って走ってきて。
「石田、お前今さりげなく俺をバカにしただろ」
 なんて、ムキになって反論してる。
「あ、ごめんな神尾。他にいい比較対象が見当たらなかったんだ」
 石田さんは心の底から真剣に、謝っているんだろうけど。
 さりげなくもっとひどい事を言っている気がするのは、私の気のせいかしら?
 それにしても、石田さんがそこまで言っちゃうなんて、神尾くんの被服の作品のできは、いったいどんなものなのかしら。上手い人のは見る機会あるけど、下手な人だと本人も見せたがらないから、なかなか見れないのよね――って。
「あれ、神尾くん。三番目のボタン、どうしたの?」
 学ランに着替え済みの神尾くんの胸元(と言うか、お腹のあたりと言うか)が、少し寂しい事に気が付いて、私はそのあたりを指差す。
「ああ、これ? 部活の前に内村と取っ組み合った時に、はずれちゃってさ。俺石田みたいに器用じゃないから、家に持ち帰って直してもらおうかなと」
 あらあら。
 今日の不動峰男子テニス部は、よくよくボタンがはずれる日なのね。
「よかったら私、やろうか? ボタンつけ」
「え!?」
「私も石田さんほど器用じゃないけど、その位ならできるよ」
「い……いいの?」
「うん」
 別にそれくらい大した事じゃないし。
「その代わりどうなっても知らないからね」
 私が笑うと、神尾くんはなんだか緊張した感じで、「じゃ、じゃ、お願いしようかな!」なんて言いながら、上着を脱いだ。
 神尾くんがいそいそと手を伸ばして、私が制服を受け取ろうとしたその時。
「よし、終わり!」
 石田さんはボタンをつけ終えた自分の制服を机の上に放り投げて、神尾くんの制服に手を伸ばした。
「石田?」
「石田さん?」
 私と神尾くんは、行き場の無い手を引っ込める事もできないまま、石田さんを見つめる。
「こんなの、杏ちゃんの手を煩わせるほどの事じゃないだろ。俺がやってやるよ」
「えーーーー!」
「えーってなんだよ。俺じゃ不満か?」
 あら。石田さんたら、らしくないくらいに強引。
「別に不満じゃないけどよー」
 そんな事言って、ものすごく不満そうだし、神尾くんってば。男の友達にボタンつけてもらうのって、心理的にイヤなのかしら。
 でも。
 私は机の上に放置された石田さんの制服を手繰り寄せて、両手で広げて、掲げてみる。
 さすがだわ石田さん。鮮やかな手際で、完璧にボタンがつけなおされてる。
「神尾くん、石田さんにやってもらった方がいいよ。ほら、こんなに綺麗だもん。私じゃあこんなに上手くはできないと思う」
 私が石田さんを応援するように、そう言ってみたんだけど。
「あー……うん。じゃあ、頼むよ、石田……」
 それでも神尾くんはしょんぼりした感じで、石田さんの隣の椅子に座って、肩を落としてた。
 神尾くんてば。ボタンが綺麗につくのに、嬉しくないのかしらね?
 首を傾げながら視線をずらすと、ひとりだけ楽しそうに、でもそれを回りに悟られないように、声を押し殺して笑っている桜井くんが印象的だったかも。


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