サイレン

 ガラリ、と乱暴に教室のドアが開く。
 その音に反応した三年二組のほとんどの生徒の例に漏れず、俺もドアの方に振り返り――視界に、映ったのは。
「……英二?」
「あ、大石ぃ!」
 めずらしく緊張した面持ちを和らげて、英二は笑う。いつも通りの、見ているこっちまで引きずられて笑いたくなるような、明るい表情で。
 二組まで慌てて走ってきたのだろうか? 軽くだけれど、息を切らしている。
「一体どうしたんだ?」
「どうしたって、えーっと」
 どもるなんて、いつも言いたい事を率直に言う英二らしくもない。
 本当にどうしたんだろう? 調子でも悪いのだろうか。朝練の時は元気だったし、体調的には問題なさそうから、気分的な問題か?
「そう! あのさ、俺、教科書忘れちゃったんだ、四時間目、国語なんだけど!」
 けれど英二が全てをごまかすように、笑いながら、元気な声でそう言うから。
「教科書だけでいいのか?」
「うん!」
「まったくしょうがないな、英二は。あんまり忘れ物ばっかりするなよ」
 俺は騙されたふりをして、微笑みながら、いつも英二が教科書を借りにくる時と同じように返す事しかできなかった。

「不二、ちょっといいか」
 放課後、他の部員より一足早く着替えを終えた俺は、部室から出てきた不二を掴まえる。
 英二は中で桃とじゃれているようで、一緒には出てこなかった。その様子はいつもと変わりがなく、さっきの休み時間に覚えた違和感は、どこにもなかったのだけれど。
 こんなだから心配性だって言われるのかな、俺は。
「どうしたの? そんな神妙な顔して」
「英二の事なんだが……今日、クラスではいつも通りだったか?」
 不二は口元に手をあてて、考え込む。
「うん、いつも通りだった。おかしいところは何も無かったよ。って言うと語弊があるかな。英二の言動はいつもおかしいからね。普段と比べれば、おかしいところは何も無かった」
「そうか……」
 本当にそうなら、いいんだけど。
「何か気になる事があるの?」
 俯いた俺の顔を覗き込むように、優雅な微笑みを浮かべる不二は訊ねてきた。
「ああ……実は、三時間目と四時間目の間の休み時間に、英二がうちのクラスに駆け込んで来て、国語の教科書を借りていったんだ」
「へえ。でも、おかしいところは特にないんじゃない? うちのクラスは四時間目本当に国語だったし、英二が忘れ物するなんてしょっちゅうだ。忘れたものを大石やタカさんに借りに行くのもね」
 そう、それだけなら、特におかしくない。あの休み時間に英二が見せた不信(?)な態度も、俺の気のせいだったと笑い飛ばしてもいいのかもしれない。
 ただ。
「返ってきた教科書が、俺のじゃなかったんだよ」
「え?」
「多分、英二のだと思うんだ」
 そう、つまり。
 英二は国語の教科書なんて、忘れていなかった。何か別の理由があって三年二組に来たのに、ごまかすために教科書を忘れたフリをしたんだ。
 どうして英二はそんな事をしたんだろう。
 俺に何か言いたい事があったんだろうか。でも、言えなかった?
「あれ? 三時間目と四時間目の間、だっけ?」
 唐突に、不二が呟く。
「ああ」
「そう言えば英二、慌てた様子で教室を出て行ったけど――ああ」
 不二は何かに気が付くと、笑った。はじめは柔らかく微笑む程度だったけれど、徐々にそれは強まり、終いには小さな笑い声を上げるほどに。
「不二?」
「いや、そうか。大石は気付いていないのかもしれないね。いつも忙しいし、自分の事にだけ鈍感だから」
 何の事だ?
 俺は不二の言っている意味が判らず、首を傾げた。
「二組でも聞こえたはずだけど? 三時間目の終わり頃、学校の前の道路を救急車が通って、すごい大きなサイレンの音が響いたじゃない」
「ああ、そう言えばそうだったな」
 確かに不二の言う通り、三時間目の終わり近く、サイレンが響いたっけ。先生の声が聞き取りにくいとは思ったけれどそれくらいで、あまり気にしていなかった。
「英二にはね、最近できた癖があるんだよ、大石」
「癖?」
「そう。救急車のサイレンを聞くと、君の存在を確かめるって癖」
 俺は。
 多分その時、とても間抜けな顔をしていたんだと思う。
 だからこそ不二は、笑みを強めたんだろう。
「その救急車に乗っているのが万が一にも大石だったらどうしようって、不安になったんだよ、英二は。だから君がちゃんと教室で授業を受けていたかどうか、確かめにいったんじゃないかな? けれど教室に行った理由なんて恥ずかしくて言えないから、教科書を忘れたフリをした、ってところだろうね」
「その、不二」
「ん?」
「それはやっぱり、関東大会以降か?」
「当然。他に何があるって言うのさ」
 俺は自分が恥ずかしくなって、左手で自分の頭を抱き込んだ。
 あの時の行動を、後悔するつもりはないのだけれど。
 天真爛漫を絵にかいたような英二に、そこまで心配させるなんて……心配してもらえるのは嬉しいけれど、それ以上の申し訳なさでいっぱいだ。
「不二、頼みがあるんだけど、聞いてもらえるか?」
 きっと、そんな英二のために俺ができる事はふたつ。
 ひとつはこれからの試合、五体満足で挑んで、勝ち続ける事。
 もうひとつは、英二が俺に気付かれたくないと思っている事を、気付かないでいる事だ。
「英二に気付かれないように国語の教科書をすりかえる程度の事なら、別に構わないけど?」
 ……さすが不二。全部お見通し、って事か。
 からかうように微笑む不二に、俺は苦笑で返すしかなかった。
「よろしく頼むよ、不二」
「了解」


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