イトーヨーカドー

「二年の春から、聖ルドルフに通う事にしたよ」

 思い出すのは。
 まるで裏切り者を軽蔑するかのような目で俺を睨むバネの視線(事実、俺は彼らから見れば充分裏切り者だったのだろうけど)。
「そーかい。勝手に行っちまえ!」
 突き放すような冷たい言葉に聞こえて、その中にはバネの優しさが込められていた事は、判っていたよ。
 そして、それでも何も言わずに俺を送り出してくれた、サエの微笑み。
「東京でも頑張れよ、キサ」

「どこ行くだーね、淳」
 さりげなく離れようと思っていた俺を、さすがに一年以上もダブルスの相方としてやってきたからか、柳沢が気付いてしまった。
 俺は足を止めて振り返り、くすくすと笑う。
「ふたりは青学の応援に行くんだろ?」
「べ、別に応援じゃないですよ! ただ、青学対氷帝戦はレベルが高いだろうから、今後の参考に見に行こうと思っただけで……!」
 そんな言い訳なんかしなくてもいいのにね。
 顔を真っ赤にして、言葉だけでなく身振り手振りで訴えようとする裕太の様子がおかしくて、俺は更に笑ってみた。
「悪いけど、俺は別のコート見に行くから、ここから別行動で」
「他の試合、何か見所ありましたっけ? 勝ち上がってくるところ、大体予想が付きそうですけど」
「勝つ事は判ってるんだけどね」
 じゃ、と俺は手を振って、ふたりに背中を向ける。裕太はまだ納得いっていない様子だったけれど、多分柳沢は判ってくれているだろうから、適当に説明してくれるだろう。
「会うのは練習試合ぶり……かな」
 俺が目指すコートでは、懐かしい、かつての仲間たちが戦っている。第三シード、千葉代表六角中が。
 自分で選んだ道に後悔する事はみっともないから、できるだけしないようにしたいものだけど、それでも柳沢あたりにツッコまれた時には、俺も少々、思ったよ。
 あの時、スカウトに乗らずに六角中に残っていれば、俺は関東大会と言う舞台で戦う事ができた、と。
 だから、六角中の皆に会うつもりはない。ただ、遠くから見守り、応援するだけでいい。
 気のいいかつての仲間たちが、そんな事をするわけがないと判ってはいるけれど、都大会で俺の中学テニスが終わった事を、彼らに哀れまれるのも、笑われるのも、まっぴらだった。
「あいかわらずだな……くすくす」
 コートの周りには、赤いジャージ姿の中学生と小学生がわらわらと集まって、六角中を応援していた。俺がいた頃と変わらない、これからもきっと変わらないだろうその光景が、妙に眩しくて。
「ゲームセットウォンバイ、六角中、黒羽・天根ペア!」
 審判の声が、六角中の一勝を伝える。
 今日のこの試合、きっと彼らは一敗もしないだろう。もしかすると、一ゲームたりとも落とさないかもしれない。古豪六角中は、そう言う学校だ。
「やあキサ。わざわざ俺たちの応援に来てくれたの?」
「ぅわっ!」
 突然背後から声をかけられ、普段は冷静で通っている俺もうろたえてしまい、声を上げてしまう。慌てて口を抑えたけれど、何人かの耳には届いたようで、懐かしい奴らが俺の名前を呼んだ。
 けれど俺はそれらに答えず、振り返るだけ。
「サエ」
 サエは微笑む。そして、俺を頭から足先まで、ゆっくりと見て。
「思い出すな。一年と二年の間の、春休みの事」
 サエが言っているのは、俺がルドルフへの転校手続きで忙しかった春休みの事、だろう。
 その春、ただ転校するだけならばそれほどでもなかっただろうけれど、俺は寮に入る事になったから、荷造りに手間取ったりと色々と忙しかった。
 けれどどうにかして一日だけぽっかり予定を空けて、サエには部活をサボらせて、俺たちは。
「突然都内のヨーカドーに連れていかれた時は、何事かと思ったなぁ」
「だって、バネとかを連れていっても仕方ないしね……くすくす」
「まあそうだろうけどね」
 聖ルドルフから届いた書類の中には、手続きの書類の他にも、制服や指定ジャージ、体操服等の取扱店のリストも、もちろん入っていた。
 大手デパートの名前がいくつかある中、一番家から近かったのがイトーヨーカドーだったから、そこに行く事を決めて、俺はぜひ一緒に来てくれと頼んで、サエと一緒に向かったんだ。
 その時一度だけ、俺はサエに訊ねた。
「一緒にルドルフにくる気はない? 他の連中はともかく、サエは、六角よりルドルフの方が相応しいと俺は思う」
 けれどサエはにっこり微笑んで、「俺は六角中を離れるつもりはないよ」と言い切った。
 サエならば俺の気持ちを判ってくれるのではないかと、あの時俺は思ったんだけど……そうだな、サエは、六角中に残っていても何の問題もなかったんだろう――俺と違って。
「今度会えたら、『だから六角中に残ればよかったのに』って、言ってやろうと思ったんだけどね」
 サエはひとつ、深いため息を吐く。
「でも言ってもしょうがなさそうだ。見たところ、キサは聖ルドに転校した事を、後悔してなさそうだから」
「もちろんだよ……くすくす」
 俺とサエはほぼ同時に、視線をコート内に向ける。
 ダブルス1の選手がふたり、相手チームの選手と握手をかわしていた。
「都大会で終わってしまった事は、正直、悲しいけれど」
「うん」
「でも、やっぱり」
「うん」
「俺にはあの六角ウェア、似合わないからね……」
「お前そんな事のためにわざわざ転校したのかーーーーーー!!」
 げしっ、と。
 いつの間に近付いてきていた、田舎くさいジャージと自己主張の激しいウェアがお似合いの幼なじみに、久しぶりに後頭部を蹴り飛ばされてしまった。
「あれ? 知らなかったの? バネ」
「知らなかったのって……知ってて止めなかったのかよ、サエ!」
「うん。だってキサ、ウチのジャージや制服はともかく、ウェアはほんとに、笑えるくらい似合ってなかったから、かわいそうだなあと思って。『サエにはルドルフの制服やウェアの方が似合うよ』って俺もキサに誘われたんだけどね、俺は六角のもちゃんと似合うから、断わったよ」
 バネはしばらく放心したあと、頭を抱えてその場にしゃがみ込んだ。
「ごめんよバネ。バネがそんなにショックを受けるとは思わなかったよ」
 俺はかがみこみ、そっとバネの肩に触れる。
「ショックに決まってるだろ! そんな……」
「でもバネは逆にルドルフのウェアの方が似合わないから、誘わない方がいいと思って」
「そこにショック受けてるんじゃねえ!」
 バネは突然立ち上がり、俺の顎に強烈な頭突きを食らわせてきた。
 蹴りしかできない男だと思っていたけれど、けっこう成長したんだな、バネも。
「もう勝手にしろ!」
 ふてくされるように立ち去るバネの背中を眺めながら、俺とサエはしばらくの間、声を合せて笑い続けていた。
 それにしても……バネは一体、どこにショックを受けていたんだろう?


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