髪結の亭主

 エスカレーター式の私立中学で、進路調査って言うのもどうかと俺は思うんだけどな。
 とりあえず当り障りなく、「高等部へ進学」にマルをつけて、将来希望の職業は会社員と書いて、提出しておいた。
 こんなもん、今の時点で真面目に考えているやつは、ウチの中学じゃそんなに居ないだろうに。
 ……他の奴ら、なんて書いたんだろう。東方はきっと俺とあんまり変わらないだろうけどな。千石とか、新渡米とかは、突拍子もない事書いてそうだ。
「おう、南」
「よう、東方」
 部室に向けて階段を降りていると、背後から相方の声がかかった。トトトトト、と東方は少し早歩きで階段を降りて、俺の隣に並ぶ。
「今日進路調査の提出日だったろ? ちゃんと出したか?」
「当然だろ。って胸を張るような立派な事書いたわけじゃないけどな」
「高等部へ進学?」
「そんでもって希望職種はサラリーマン」
 ああ、やっぱり同じだ。まあそんなもんだろうとは思ってたけどよ。
 呆れるんだか、嬉しいんだか、判らないまま俺はため息をひとつついた。
「なんだよ」
「いーや。この調子じゃ俺たち高等部行っても地味’sだなって思っただけだよ」
「あー、そうかもな」
 笑いあった俺たちは、今日の学校生活であった他愛もない事を話しながら、部室に向かい。
 部室に辿り着いてドアを開けると、信じられない光景を目にした。
 ふたり同時に、息を飲む。
 幻でも見てるんだろうかと、確認するように東方を見ると、東方もまったく同じ事を考えていたようで、同じタイミングで俺を見た。
 肯きあって、二人同時に、再び部室の中に目を向ける。
 目に映るものは、さっきと少しも変わらなかった。部室の中にある椅子に座り、うなだれ、重い空気をはびこらせているのは――間違いなく、千石だ。
「せ、千石……?」
 俺は勇気を出して、千石に声をかける。
 千石はかろうじてこっちが覗けるくらいに、顔を上げて。
「あ、地味’s、かあ……」
 いつもならここで俺たちふたりは、「地味’sって呼ぶな!」とツッコむんだが。
 千石があまりにも暗い雰囲気で、暗い表情をしているから、それもできずに。
 お、落ち込んでいる……のか? 千石は。
「どうか、したのか?」
 東方が声をかけると、千石は微かに笑う。
 なんだそりゃ。いつもバカみたいに笑って、バカみたいに騒いで、うるさくて、どうしようもないくらいで。
 そんで俺を困らせてばっかりのくせに……なんだよ、それ。
「ちょっとさ、センセーに怒られちゃって」
「いつもの事だろ」
「そう言わないでよ。いつもみたいな怒られ方じゃなかったんだ」
 千石は相当ヘコんでるみたいで。なんか、深刻なようにも見えて。俺は東方を部室の中に押し込め、自分も中に入ると、部室の鍵を閉めた。
「何があったんだ? 俺たちには言えないか?」
 俺は千石の正面に座った。
「俺たちじゃ力になれないかもしれないけど、話すだけで気が楽になるなら、聞くぞ」
 東方は俺の隣に座る。
 少しの沈黙。
「ありがと、ふたりとも」
 千石はそう言って、少しだけ明るく笑った。
 こいつ、本当にヘンだ。どうしちまったんだ、一体。
「進路調査を、今朝、センセーに出したんだよね、俺」
『ああ』
「そしたらスッゲー、怒られちゃって。俺は本気だったのに……ふざけるな、もっと真面目に考えろって」
『……』
 そりゃ、ひでえな。
 千石がなんて書いたか、俺は判らないけど、千石なりに一生懸命考えたんだろ?
 それはきっと大人の目から見れば、非現実的な事だったんだろうけど。でも……それでも、考える事からも逃げて、適当な事書いた俺らより、千石の方がずっと偉いはずだ。
「なんて、書いたんだ?」
 千石は口では答えず、一枚の紙切れを、俺たちに差し出した。進路調査表だ。
 進学先は俺たちと同じで、高等部へ進学にマルがついている。
 そして将来の希望職種欄には。
「髪結の亭主」と書かれていた。
『……?』
 俺と東方は、見つめ合う。
 よかった、東方も、判らないんだな、意味が。
「なんだ? 髪結の亭主って」
 って言うか髪結って?
 なんか、古風だよな? 美容師とかじゃなく、わざわざ髪結って言う所に意味があるのか? つうか亭主ってなんだ?
「こないだ、たまたま広辞苑開いたら、開いたページにそれが乗ってて。ピンときたんだ。天職だって。珍しく広辞苑開いてラッキーって」
「どんな、職業なんだ?」
 訊ねると、千石は嬉しそうに、いきいきと、目を輝かせた。
 きっと先生はそんな事も聞かずに、頭ごなしに千石を叱りつけたんだろうな。
「なんかね、昔、女の人って仕事に就けなかったじゃん?」
「ああ」
「でもね、髪結ってのは、女の人でもなれたんだって」
「うん」
「そんで、髪結の亭主は、仕事しないで奥さんに養ってもらえるんだって! すごくない!?」
『……』
 それって、つまり。
「ヒモって事か……?」
 俺の頭の中にあった台詞を、東方が音にする。
「うん、まあ、判りやすく言うとそうなるかもね!」
 無意識に。
 俺は立ち上がって千石の傍らに立つと、千石の頭をはたいていた。

「なあ、南」
「なんだ、東方」
 練習の合間に、東方と並んで休憩を取りながら。
 俺は一番奥のコートで楽しそうに室町と打ち合っている千石を眺めていた。
「ああ言う発想ができないから、俺らって地味’sなのかな」
 東方は、ちらっとだけ俺を見て、すぐに俺と同じように、千石の背中を見つめて。
「将来の夢がヒモなのが、派手な証だってなら」
「うん」
「俺は一生地味’sでありたいよ」
「……そうだな」
 東方は、嬉しそうに笑って。
「俺たち、高校行っても地味’sだよな」
「きっと大学行ってもだ」
「サラリーマンになっても、休みの日にときどき、地味’sしような」
「ああ、そうしよう」
 ちらりと時計を見ると、休憩時間は終わりを迎えようとしていた。
 俺たちはささやかな将来の夢を誓い合うように、握手を交わす。
 千石につけられた地味’sと言うコンビ名を、俺たちはずっと恥ずかしがっていたけれど――これからはきっと、一生の誇りにするだろう。


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