雨垂れ

 情緒なんてどこにもない、どぼどぼとこぼれ落ちる雨垂れを眺めながら、俺は昇降口でひとり途方にくれていた。
 天気予報ではしっかりと、「夕方六時までは大丈夫」なんつってたのになあ。それで橘さんも朝練の時、「放課後の練習は早めに切り上げよう」つってたんだ。
 現在時刻は午後三時半。
 つい十分くらい前から、雨は降りはじめてしまっている。
 どーゆー事だよオイ。
「あれ? 神尾君?」
 この声は!
 俺が慌てて振り返ると、そこに居るのはやっぱり、制服姿の杏ちゃん。真っ赤な折りたたみ傘を手にして、不思議そうな顔で俺を見てた。
「どうしたの神尾君、こんな所で。さすがに今日は、部活休みなんでしょ?」
「ああうん。さっき桜井から連絡貰った」
「じゃあ、待ち合わせ? 久々の休みだから、皆でどっかに遊びに行くとか!」
 俺たち、そんなに仲良さそうに見えるんだろーか? 別に悪くも無いけどさ。
「そんなんじゃないよ。単に傘が無いから、どーしようかと思ってさ。もう少し雨がおさまったら走って帰ろうかと」
「え……?」
 杏ちゃんは突然不安げな顔になって、覗き込むように空を仰いだ。
 どんよりと黒い雲。地面を叩きつけるような強い雨。
「おさまるどころか、酷くなる一方じゃない?」
「そうかも」
 うーん、と杏ちゃんは小さく唸って、それから赤い傘を俺に差し出した。
「これ、神尾君、使って?」
「え!? いや、いいよ。悪いよ。杏ちゃんが濡れちゃうじゃんか」
「私の方が家ずっと近いし。ちょっと濡れるだけですむから」
「駄目だって! 風邪ひいちゃうよ」
 杏ちゃんを雨の中傘なしに帰すくらいなら、俺が風邪引いた方がマシだって! しかもコレ、俺の傘じゃないんだぜ。杏ちゃんの傘なんだからさ!
「受け取ってよ神尾君!」
「杏ちゃんが使うんだ!」
 俺たちはお互いに遠慮しあって、軽い口論みたくなってしまった。どっちも傘を使おうとしないから、口論は延々と続いてしまって、お互い疲れたのかふう、と同時にため息を吐く。
 それが妙におかしくて、俺たちは小さく吹き出してしまった。
 へへ。なんかちょっと、イイ感じじゃん?
 なんて勝手に思ってみたりして。
「あれ?」
 酷い雨の中、一本の傘を譲り合うふたり?
 なんだ、簡単な、いい解決方法がひとつあるじゃんか! しかも俺にとってもムチャクチャ都合のいいヤツが!
「あ……杏ちゃん!」
 俺は杏ちゃんの持つ傘をしっかりと手に握りしめて。
「その、さ」
「ん?」
「だから、ほら」
「うん」
「どっちかだけ雨に濡れるってのも、アレだからさ。だから……」
「だから、何?」
 いや、だからさ!!
 うーん、そうだよな、言わずに判ってくれよつっても、無理だよなあ。
 よし……よし、言うぞ!
 俺はバクバク言ってる心臓を押さえつけるために、胸いっぱいに息を吸い込んで。
「杏ちゃん、俺といっしょ…」
「兄さん!」
 え!!?
 杏ちゃんが俺の後ろを見ているので、振り返ってみると、確かにそこには制服姿の橘さん。「どうしてお前たちはこんな所に居るんだ。早く帰れ」なんて言いたそうな顔してる。
 どうして。
 どうしてこんなタイミングで現れるんですか、橘さん……。
「ちょうどよかったー、兄さん、傘持ってるでしょ? 普通のやつ」
 杏ちゃんは、俺の一大決心を最後まで聞く事無く、俺の横をすり抜けて。
「ああ。帰る頃には降っていると思ったからな。部活後に使うつもりだったが」
「神尾君傘持ってないんだって。私の貸しちゃうから、入れてくれる?」
「そうか。仕方ないな」
「ありがと、兄さん」
 微笑みあいながら並んで歩く姿に、本当に仲のいい兄妹だなあ、なんてぼんやり思う俺。
 ふたりは赤い傘を持って立ちつくす俺の隣を通り過ぎる瞬間、同時に俺に振り返る。
「じゃあね、神尾君」
「神尾、気を付けて帰れよ」
 ひらひらと手を振る杏ちゃんに、俺は力無く手を振りかえした。
 去りゆく二人の背中なんか眺めちゃったりして。
「……ちくしょう」
 うん、判ってるんだけどさ。ここで恨むのは筋違いだって。
 だけどさ。
 そりゃあないよ、橘さん。杏ちゃん……。
「あ、神尾だ」
 うわー、こんな切ない瞬間には、一番聞きたくない声聞いちまったよ。
「似合わない可愛い傘持ってるね」
「そーだなお前には似合うかもな」
「まあ俺は神尾よりは可愛いからね」
 自分で言いやがったよ、このボヤキ野郎……。
「俺さあ傘持ってないんだよね。入れてくれない?」
「えっ」
 俺は思い切り顔を歪めて、深司を見た。
 ほんのちょっと前まではさ。
 この、一本の赤い傘でさ、杏ちゃんとふたりで帰れたらいいななんて、考えてたんだよ、俺は。
 それが、それが。
 ……深司とかよ……。
「早くしてくれないかな。さっさと帰りたいんだけど」
「はいはい」
 俺はため息混じりに傘を開く。
 どぼどぼどぼ、とこぼれ落ちる雨垂れが、俺の代わりに泣いてくれているように感じた。

 次の日。
 内村に「お前ら昨日あいあい傘で帰ってただろ」とからかわれたから、とりあえず一発なぐっといた。


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