「あ、そうそう、ボクとサエさんは放課後、関東大会の抽選会に行ってくるから部活出ないけど、練習サボらずにやるんだよ!」 他の部員より一足遅れて着替えの動作に入った葵は、ジャージを脱いだところで突然思い出したらしく、そう宣言しながら振り返った。 俺は葵の隣で、何ごともなかったように着替えを続けたのだけれど――葵が振り返ったまま硬直していたから、何事かと思い、同じように振り返ってみる。 葵の視線の先には、制服のボタンを止める手を休め、真剣な顔で少しだけ俯いている、黒羽と天根の姿があった。 「バネさん」 「ああ」 「とうとう関東大会だ」 「ああ、関東大会だな」 ふたりはゆっくりと顔を上げて、何かを誓い合うように、強い眼差しで見つめあった。 「サエさん、なんだろうアレ。バネさんはともかく、天根がダジャレも言わず、あんな真剣な顔で……」 葵は心底心配そうな顔でふたりを見つめている。 心配する、優しい気持ちは大切だと思うけど、葵の中での天根の認識がロクなもんじゃないって言ってるようなものだよね、それ。まあいいけど。間違ってないし。 「葵は去年の秋の終わりの事、知らない……よな」 「当然だよ。去年の秋の終わりは、ボク、小学生だったんだから」 そりゃそうだ。 「そうだな、話すと長いから、放課後、立海大付属に行きがてら教えてあげるよ。去年の秋、俺たち六角中テニス部員が全員で、誓いあった事を……」 去年の十一月のある日、金曜日の放課後の練習のあと、天根はとてもはしゃいでいたんだ。 理由はとても単純な事さ。土日に、茨城から福島の方へ向けて、旅行に行くから。俺は予定が入っていたから遠慮したけれど、黒羽や、他のテニス部員も何人か一緒だった。 「お土産よろしく。でも納豆せんべいだけは勘弁」 って俺が笑いながら頼むと、『まかしとけ!』って、天根と黒羽は声を合わせて、元気に答えてくれたよ。 あの時のふたりの楽しそうな顔、今でも覚えてる。 そして、月曜日の朝練に来た時の顔も、はっきりとね。 丸一日眠る事ができなかったように疲れきった感じで……絶望にも近い、悲痛な表情を浮かべていた。 「サエさん、はい、おみやげ」 って渡された一枚のせんべいは、お願いした通り納豆せんべいではなかったけれど、福島土産のピーナッツが中に入ったやつ。 俺は正直、思ったよ。これ、千葉でも売ってるってね。ディズニーランドの近くのホテルのお土産売り場とかで見かけた事あって、そこではしっかり千葉土産って書いてあったのを覚えてる。 お祭り好きのふたりだから、旅行のお土産にもこだわりそうなのに、これはどう言う事だろうって思った。そして、まだ納豆せんべいの方がよかったともね。アレはアレでおいしいし。 「どうしたんだ? ふたりとも。旅行で嫌な事でもあったの?」 俺は勇気を出してそう聞いてみた。 案の定、ふたりは反応したよ。ビク、って体を震わせてね。そして黒羽は怒りを、天根は悲しみを、ありありと表情に浮かべたんだよ。 「俺たち、茨城に行ったんだ」 黒羽の言葉に、「そんな事知ってるよ」って俺は言い返そうとした。けれどそれよりも早く、天根が続けたんだ。 「あんまり、悔しくて、むかついて、俺もバネさんも眠れなかったよ!」 それはいくらなんでも大げさすぎないかなと思ったけど、ふたりの表情は本当にそんな感じだったから、俺も心配になってね。「何がそんなにむかついたの?」って聞いてみたんだ。 「茨城の、どこの駅だか忘れたけど、ポスターが貼ってあって……多分、どこの駅にも貼ってあったんだろうけど」 「ポスター?」 それまで葵は黙って俺の話に耳を傾けていたのに、よほど気になったのか、突然口を挟んだ。 「そう、ポスター」 「一体どんな……?」 そう、聞きたくなるよな。 今葵が口にした台詞と、一言一句、まったく違わない言葉で、俺はあの時ふたりに疑問を投げかけたんだったなあ。 そして知ったんだ。ふたりがなぜあんな顔をしていたのか。 「ディズニーランドが……」 「は? ディズニー?」 「茨城県民に感謝していたんだよ」 葵が息を飲む音が、聞こえた。 「おそらく茨城県民の日を含む一週間――茨城県民感謝週間として、茨城県内の駅のみどりの窓口に行けば、安くパスポートが買えたんだ」 葵は大きな目を、もっと大きくして、ぴたりと足を止めて。 きっと、あの時の俺も、こんな顔をしていたんだろうと思えるような。 「なんで? どうして!? 茨城県がディズニーランドのために何をしたって言うのさ! 何を感謝される事があるんだよ! 感謝期間は、千葉県民だけの特権じゃなかったの!?」 「違ったんだよ、葵」 「許せない! 許せないよ! そりゃ、千葉県は三週間くらい感謝してもらえるから、茨城県民と差はあるかもしれないけど――!」 俺はぐっと拳を握り締め、唇を軽く噛む事で、悔しさを何とかおさえようとしたけれど。 「しかもそれだけじゃなかった!」 おさまるわけもなく、声が荒れていくのを自覚した。 「茨城ならまだ、千葉と隣接している。東京なら、隣接している上に名前を借りている。でも、神奈川は何の関係もない……!」 「まさか……まさか、サエさん!?」 葵が俺の袖を力強く掴む。 「神奈川県でも、神奈川県民の日たった一日だけとは言え、安くなるらしいんだよ」 「――!」 ゆっくりと、葵の指が一本ずつ、俺から離れて。 よっぽどショックを受けたんだろう。蒼白な顔を隠すように顔を覆った葵の足は少しふらついていて、俺は肩に手を回して支えてあげた。 ああ、葵、俺は今、お前が部長である事を何より誇らしく思うよ。 お前はきっと、俺たちの気持ちを理解した上で、部長として俺たちを率いる事ができるだろう。 「むかついて、腹立って、眠れなくもなるよね」 「その日からしばらくは、俺もそうだったな。多分、皆も」 「だから、皆は誓ったんだね。打倒茨城、と」 「そう、そして」 「打倒神奈川――立海大付属」 「そうだ」 俺たちはずっと、待ち望んでいた。 地区大会、県大会を勝ち進み、関東大会にコマを進める日を。 茨城県と神奈川県に抱いた恨みを、テニスで返せるその日を。 「楽しみだね、関東大会」 「そうだね」 俺たちは、強い眼差しで見つめあう。今朝、黒羽と天根の瞳を輝かせていたものと同じ光を秘めて。 「あのさあサエさん、もし、もしもだよ。ディズニーランドが茨城県や神奈川県だけじゃなくて、東京とか、北海道とか、京都とか、長崎とかにも感謝してたら、どうする?」 葵が口にした、多分の不安を含まれた疑問は、俺たち六角中テニス部員の誰もが一度は抱いたものだろう。少なくとも俺は抱いた事がある。 けれど。 「きっとしてるだろうさ。でもそれなら、全ての都道府県代表を倒せばいいだけだよ。違うかな?」 すると葵は一瞬、とまどったのだけれど。 「そうだよね。楽しみだな、全国大会」 すぐに、顔中に明るい笑顔を浮かべて言った。 本当に楽しみだよ、全国大会が。 きっと俺たちは、その誓いをまっとうした時にこそ――ようやく本当に、心安らかに、眠りにつくことができるのだろうから。 |