制服の第二ボタンを閉めて、荷物を担いだ俺は振り返る。 部員のほとんどはもう帰っていたし、残っている奴らもすでに着替えを終えていた。あとは彼らを部室から追い出して、鍵を閉めればいいかな。 「ハラへったー、誰かハンバーガー食いにいこーぜ!」 なんて言いながら英二が暴れてる。しょうがないな、今日の練習は特に厳しかったし、付き合おうか。 俺は帰るために確認のために部室の中を見回して――そいて気付いた。 部室の片隅に置かれたままのテニスバッグ。下の方のロッカーに放り込まれたままの学生服。 ロッカーの上の方は背の高い二、三年がとってしまうから、この辺を使わされるのは一年。加えてあのバッグとくれば、間違いない。 越前だ。 「うぃっす! 俺行きますよ英二先輩!」 英二の誘いに桃が名乗りをあげる。 よかった。誰かひとりが付き合えば、英二も満足だろう。 「よっしゃ行こーぜ桃! 大石は〜?」 「ごめん。俺は少し残ってやる事があるから」 「そっか。じゃあまた明日な!」 「お疲れ様ッス!」 英二はそれで納得してくれたようで、桃を引き連れて部室を出て行った。ちょっと前なら理由も聞かずに納得してくれる事なんてほとんど無かったけどな。手塚が九州に行って俺が部長代理になったから、少しは気を使ってくれているのかもしれない。 さて。 俺は荷物を降ろして、部室を出た。 目指す場所は西門――おそらく今、越前が居る所。 西門に近付いた所で、俺はできる限り足音を殺した。 かすかに聞こえてくる風を切る音、ボールが跳ねる音。 「やってるな」 と俺はついつい呟いて、小さく笑う。 思った通り越前は、不規則に落ちてくる葉にサーブを当てようと、必死になってラケットを振り続けていた。 懐かしいなと、思う。 俺は部室へ戻りながら、一年の頃を思い出していた。 確かその日はコート整備に手間取って、俺は一年生の中で着替えが一番遅くなった。 「じゃあね、大石君」 「バイバイ、不二君」 ひとりひとりの、部室を出て行く背中を見つめながら。 いつも一緒に帰っていた手塚の姿が見あたらなくて、先にひとりで帰ってしまったのか、それは少し寂しいななんて思っていたなぁ。 けれど着替え終わった頃に、手塚の制服と荷物を見つけて。 当時鍵当番だった先輩に「はやく部室出ろ、大石! もう鍵を閉めるぞ」って言われたから、それらを抱いて校内中を駆けずり回って手塚を探した。 手塚が西門の近くで、未だ体操服姿で、ラケットを振るっていたのを発見した時はなんとなく嬉しかった。 すぐにでも声をかけようと思ったけれど、その瞬間、手塚が放ったサーブが落ち葉を捕らえたのを見て――驚いて、感動して、声が出なかった。 どのくらい手塚を見ていただろう。 十三発目に手塚がサーブを外し、少々落胆した背中を俺に見せた時、俺は荷物をその場において、無我夢中で拍手をしていた。 「……大石君?」 そう言えばあの頃君付けで呼び合っていたっけな。懐かしい……と言うより、こそばゆい感じがする。 「すごい! すごいや手塚君! なんでそんな事できるの!?」 俺は落とした荷物もそのままに、手塚に駆け寄って。 「練習すれば誰にでもできる」 今思えばかなりそっけない返事だと思うけれど、当時の俺はそんな事にも気付かないくらい興奮していた。 「そ、そうかなあ? だって十二回も連続だったよ」 「二十六」 「え?」 「二十六回だ。大石君が来る前に、十四回連続で当ててたんだろうな」 自慢するでもなく、ただ真実を淡々と、手塚は俺にそう告げたんだった。 いっそ清々しいくらいの敗北感を味あわされた俺。 もう悔しいと思う余裕も無く、肩をすくめ、目を細めながら笑うしかなった。 「ねえ手塚君。僕にも、できるようになるかな?」 僅かな希望を抱きながら俺が尋ねると、手塚は間髪入れずに肯いてくれたんだ。 「できるさ。大石君はコントロールがいいから」 とてもとても嬉しかった事を、今でも覚えてる。 「手塚君ほどの人が」自分を認めてくれた事か。 「手塚君ほどの人が」自分を見ていてくれた事か。 何にそんなに嬉しかったのかは、思い出せないのだけれど、とりあえず手塚国光と言うテニスプレイヤーを、雲の上の人のように思っていた事は間違いないと思う。 「あれ」 ガチャリと部室のドアが開いて、入ってきたのはもちろん越前。汗だくだけれどどこか、満足そうな顔をしている。 「まだ居たんスか?」 「そりゃ、鍵を持っているのは俺だからな。越前が帰ってくれないと俺も帰れないんだ」 「それはどーも」 ぺこりと頭を下げ、制服に近付く越前。タオルで汗を拭いて、急いで着替えはじめる。 「あ、大石部長代理」 「なんだ?」 「俺最近、サーブのコントロールつける練習してるんスよ」 ああ、知ってるよ。するように仕向けたのは、俺たちだからな。 「どんな練習をしているんだ?」 けれど越前の自尊心を傷付けないよう、あえて知らないふりをする。 「落ち葉にサーブを当てるんですよ」 「ああ、その練習してる奴、たまに居るよな」 「はじめのうちはけっこう難しかったんですけど、慣れれば結構簡単で。今日は二十八回も連続で当てられました」 ……もう、そこまで行ったのか。 さすがだな越前。やっぱりあなどれないルーキーだ。 けれど。 「すごいな越前。青春学園の歴代の記録を探し出しても、一年でそこまでできた奴はきっと居ないぞ。手塚でさえ二十六回だったからな」 俺はあらかじめ決めてあった台詞を、できる限り自然に言ってみた。 「……一年で?」 やっぱり予想通りだ。越前は食いついてきたぞ、手塚。 「ああ。俺もやってたんだ、それ。一年の時は七回までしかできなかったんだけどな、二年になってからは三十四回連続で当てた事がある」 「……!」 越前の少しだけ得意げな表情が、瞬時に悔しそうなものに変わった。 それ以降一言も発さずに着替え終えて。 「お先っス」 不機嫌そうな声で、部室を立ち去って行った。 さて、負けず嫌いな越前の事だ。明日からもきっと、いっそうコントロールを磨くために、同じ練習をするだろう。俺の二年の時の記録を越えるのも、そう遠い未来では無いだろうな。 また得意げに、「三十五回連続で当てましたよ」とか報告に来たら……その時は、「手塚は二年のとき四十三回連続で当てたなぁ」って、教えてやろう。 「そう簡単に先輩を捕まえられると思うなよ」 俺はそうひとりごちて、誰もいない部室のドアに鍵をかけた。 |