欠けた左手

 俺は放課後の練習前の賑やかな部室の中、ベンチに座りこんでデータノートを片手に、室内を見回してみる。
 やはりもっとも有効なデータがとれるのは試合中なんだが、こうした日常生活の片隅に、ごくまれに重要なデータが眠っている事もあるから油断できない。特にプレイスタイルに性格が滲み出ている青学ゴールデンペア、大石と菊丸は狙い目だ。
「すっげータカさん!」
 部室の奥側で、大石や不二、河村と共に着替えていた菊丸は、バッグからゴソゴソと何かを取り出すと、両手で大事そうに持って高く掲げた。
 ん? 俺のデータによると、そのバッグは菊丸のものではなく、河村のもののはずだが?
「うわっ、英二、何してるんだよ!」
 やはり俺のデータは間違っていなかったらしい。河村が焦って菊丸を止めようとしている。
「いいじゃんいいじゃん! 俺みたいにへたっぴーのならともかく、こんなに上手いんだからさ!」
「へー、ほんとだ。すごいねタカさん」
「上手いし、かっこいい」
 不二と大石の視線は、菊丸が手にしているモノに注がれていた。
 そのモノとは、つい最近まで美術の課題となっていた粘土細工だ(と、思われる)。自分の手をモデルにしながら、粘土をこねたりねったりまあ色々な過程を乗り越えて形にし、最後に乾かして薬品を塗り、固めて完成なのだが。
 三人が絶賛するだけあって、河村のそれは確かに上出来だった。技術的な事を語ると、洗練された美しさと言うには少々荒々しいが、不自然な所はどこにもない。感情論まで付け加えると、どことなく男らしい熱い魂を感じさせる傑作だ。
「タカさんのとこはもう、この授業終わったんだ? ウチはまだ乾かし中なんだよね」
「うん。今日提出が終わったんだ。だから持ちかえっていいって言われたんだけど、扱いに困るよね、こーゆーの」
「せっかく良くできたんだから、家に飾っておけばいいのに」
「そ、そんなの恥ずかしいよ!」
 河村は心なしか頬を染めながら、大石の案を却下した。
 ふむ。あまり誉められたものではない出来のものを飾れと言われれば恥ずかしいが、これほど上手く作れても恥ずかしいものなのか。とりあえずデータに取っておこう。
「おい、てめえ! 何しやがる!」
「あーはいはい、悪かったな」
「それで謝ってるつもりか!?」
 部室中心近くで、海堂と桃城の対決がはじまっているのは、とりあえず放っておこう。こいつらのケンカのデータならばいつでも好きなだけ取れるからな。
 それにしても、壁一枚どころかカーテン一枚すら挟んでいない至近距離で、片やほのぼの三年トーク、片や険悪二年勝負が行われているのだから、なかなかすごいなこの部室。
「こらこら、桃、海堂! 喧嘩はやめろよ!」
「ねえねえタカさん、これいっそ部室に飾っとくとかは?」
「うわ、やめてくれよー!」
「しつけーんだよマムシ!」
「んだとコラ!」
「僕も英二の案に賛成だな」
 こうも見事に三年は二年を、二年は三年を無視している(大石を除く)のは、はたしてすごいと言っていいものやら。
「コラ! 桃、かいどっ……」
 もみあう海堂と桃城を静止しようと大石がそちらに歩み寄った途端、桃城につき飛ばされた海堂を正面から受け止める形となり、大石はよろけた。
 よろけた大石は、その時二歩ばかり後ろに居た菊丸にぶつかる。
「うわっ」
 意表を突かれる形で背中に思いきりぶつかられた菊丸は、小さく悲鳴に似た声を上げ。
 菊丸の手の中にあった河村の左手(をモデルにした粘土細工)は宙に放たれた。
 河村や不二の反応は間に合わない。ひとり離れて座っている俺など、言語道断。
 重く鈍い大音。乾いた小音。その二種の音を立てて、粘土細工は床に落ちた。
『……!!!』
 三年は全員、息を飲んでその場に硬直した。
 河村が形にした熱い魂にはところどころに小さくヒビが入り、それだけでは済まず、欠けた親指の先がコロコロと転がっている。
 そんな惨状に気付かず、未だ争いを続けるのは二年のふたり。
『ご、ごめん、タカさん!』
 息の合ったゴールデンペアは、寸分狂いもなく、同時に謝った。
「いや別に、ふたりのせいってわけじゃないし。それに、どうせ持ちかえっても捨てちゃうから」
 実に河村らしい、寛大な態度。河村の和み系笑顔にも嘘はないから、本当に、心からふたりを許しているのだろうが。
 それでもまだふたりは申し訳なさそうな顔をしていた。「ホントに、気にしないでよふたりとも……」と繰り返している河村の声も聞こえていないようだ。
 しばらくして、ふと、大石は何かを思い出したように振り返る。
 当然そこに居るのは、低レベルな争いを繰り広げる海堂と桃城。
「桃城! 海堂!」
 すでに、いつもの穏やかに相手を諌める声ではなくなっていた。どうやらめずらしく、本気で怒ったようだ。
 そんな大石の異変を察知したか、動く事もがなる事も忘れた二年のふたりは、戸惑いを隠しきれずに大石を見上げる。
『大石、先輩……?』
 おや。ふたりもなかなか息が合うじゃないか。ゴールデンペア並だぞ。
「お前たちもタカさんに謝れ」
 ふたりはどうやら、自分たちが河村にどんな迷惑をかけたかまだ自覚していないようだが、大石の迫力に押されてか、とぼとぼと河村に頭を下げる。
「すんません、タカさん」
「すみませんっした」
「謝って済む事と済まない事が、この世にはあるんじゃないかな?」
 ようやく和やかなムードにまとまろうとしていた部室の中に、一筋の寒風を呼び込む声。
 声の主は優雅な笑みを浮かべてはいるが、いや、優雅な笑みを浮かべているからこそ、恐ろしいと俺は思った。
 不二はゆっくりと動き、壊れた粘土細工を拾い上げる。
「ふ、不二? 怒ってる?」
「うん。だってタカさんが怒らないから」
 ほほう、これはこれは。
 今日はおもしろいデータが手に入りそうだ。本気で怒った大石と不二。どちらもそうそう見られるものじゃない。
「ちょっと信じられないよね。人の努力をこんな風に、無神経に踏みにじるなんて」
「いや、それはっ、ですねっ不二先輩!」
「まず、手塚っぽくグラウンド百周ってところかな」
「……!」
 ふたりの顔がひきつった。
「ああその前に、僕と試合形式で練習しようか? 負けた方が乾汁ジョッキで」
「……!!」
 ふたりの顔が蒼ざめる。トリプルカウンターに得意技が無効化されてしまうふたりにとって、不二は最悪の相手だから、だろう。
「不二との勝負が嫌なら、ダブルス勝負でもいいよなっ! 大石!」
「うん……そうだな。むしろ一試合で済むから手っ取り早いかもしれない」
「……!!」
 ふたりの顔が「そんな、大石先輩まで俺たちを見捨てるのかよ!」と如実に語り出す。見捨てると言うか、最初に怒ったのは大石なんだがな。
「いや、皆、別に俺、ほんとにどうでもいいんだけど、こんなの……」
 海堂と桃城を哀れんだか、河村がそう言い出したんだが、
『タカさんは黙ってて!』
「は、はい……」
 三人の重なり合った声に制止され、すごすごと引き下がるしかないようだった。

 ふふふ。今日の練習はおもしろくなりそうだ。
 さて、皆の期待に応えて、乾汁の準備でもしようか。


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