合法ドラッグ

「乾ぃー」
「……」
「いーぬーいー」
「……」
「ねえ、乾ってば!」
 幾度か名前を呼んでも返事が来ない事に苛立ったのか、英二は机に座って何か書き物(十中八九データ整理だろうけれど。そうでなければ、宿題)をしている乾のそばに歩み寄り、その広い背中にずしり、と体重をかけた。
 身軽な動きを売りにしている英二は、同じくらいの身長をしている桃や海堂に比べると、いくぶん体重が軽いはずなのだけれど、それでも作業の妨げには充分なるんだろうね。乾はふう、とひとつため息を吐くと、シャープペンを机の上に転がした。
「なんだ、菊丸。邪魔しないでくれないか」
「おっ、やっと答えてくれた。いやー、ちょっと聞きたい事があってさー」
「……俺にか?」
 乾は不思議そうにそう呟いて、英二がのしかかってきた衝撃で少しずれためがねをくいっと直す。
 そうだね、そこには少し、僕も驚いた。
 普段、英二が何か疑問を抱くと、質問は必ずといっていいほど大石か、教室とか大石が居ないところならば僕に投げかけられる。大抵英二の疑問は素朴だったり単純だったりで、誰でも答えられるようなものだから(質問が突拍子もなさすぎて、誰にも答えられない事があるのだけれど)、英二はその時その場に居る人間の中で一番聞きやすい人物を本能的に選んで、尋ねるんだろう。
 それなのに今回は、大石(ちなみに彼はこの場に居る。やっぱり気になるのか、視線を英二たちのほうに向けている)も僕も素通りして、乾。
 ……何を、聞く気なんだろう。
「うん、乾に。あのさあ、今日保体の授業で聞いてからずっと疑問だったんだけどさー、結局、合法ドラッグって合法なの? 違法なの?」
 数秒その場に流れた完璧な沈黙の中で僕は、その質問を大石に投げかけなかった英二は確信犯なのか、それとも天然なのだろうかと考えてしまった(いやだって……大石には聞くだけ無駄っぽいじゃない)。
 あ、大石、腕を組んで考えはじめてる。質問を受けたわけじゃないんだから(いや、質問を受けたとしても)、そんなに考え込まなくてもいいのに。
「合法ではないんだろう? 売り手が合法だと主張しているだけだと聞いたぞ」
「じゃあ違法なんだ!」
「違法とも違うように思えるが……」
「なんだよそれー、合法じゃなかったら、違法に決まってんじゃん!」
 うん、まあ、普通に考えれば、そうなってしまうのだろうけれど。
 大人の世界は、子供の世界とは違って、複雑かつ難解なものだ。
「いいや、菊丸。世の中には白と黒では割りきれない事がいくつもあるだろう」
「えー? そっかなー」
 乾は静かに頷いた。
「そうだ。たとえば――俺や大石や河村を、お前は天才だと思うか?」
 いきなり何聞いてるんだろう、乾ってば。
 そう思ったのは僕だけではないようで、大石は眉間にシワを寄せつつ、首を傾げながら、乾を見下ろしていた。
「うんにゃ、思わない」
 はっきり答えるよね、英二も。まあそこで「思う」って答えられても嘘くさいけれど。
「では俺や大石や河村は、凡人か?」
「あっはっは、ありえねー! 特に乾とタカさん!」
 間髪入れずに大笑いするのはどうかと思うよ、英二。
 僕はそろそろ口を挟もうと思ってみたのけれど、それよりも英二に名前を出されなかった事――つまり、三人の中で一番凡人に近いと暗に言われた事――にほっと胸を撫で下ろす大石が妙に印象的で、タイミングを逃してしまった。
「そうだろう。つまり、そう言う事だ」
 強引なまとめ方だね、乾。
「んー、判ったような、判らないような」
 ほらやっぱり。英二も納得していないじゃない。
 難しい顔で睨み合うふたりを黙って見ているのがいたたまれなくなって、僕はゆっくり乾に近付いた。厳密には、乾が足元においているバッグに近付いたのだけど。
「乾、バッグ漁るよ」
「あ……ああ」
 戸惑う乾の返事を待たず、僕は乾のバッグから、彼がいつも持ち歩いているドリンクを取り出した。
 間違えないようにしっかりと乾シールが貼りつけてあるそれは、僕と乾だけが普通に飲む事ができる野菜汁。
「げっ、不二、なにそんなもん取り出してるんだよー!」
「そんなもん……?」
 寂しげな乾の呟きは無視の方向で。
「英二、これは乾特性の野菜汁だよ。その辺のスーパーに売っている食材をミキシングして作った栄養ドリンクさ」
「うん」
「だから乾はこれを合法の飲み物と主張する事ができる」
 英二の表情が一瞬にして真っ青になった。
「嘘つけっ、そんなんほとんど兵器じゃんかっ」
「へ、兵器……?」
「兵器っつーか、凶器っつーか!」
 そこまで言わなくてもいいじゃない。これを飲んで平気な人間も居るんだから。
 それとも何だろう。英二は僕を人間じゃないとでも言いたいんだろうか。失礼しちゃうよね。
「きっと合法ドラッグって、そんな矛盾を含んだものなんだよ」
 我ながら、少々無理のある理論だっただろうかと思いつつも、英二は納得してくれたようで、
「そっか、あんがと不二! じゃ、また明日なー!」
 スッキリした顔で元気に笑って、両腕を振って、部室を飛び出していく。
「まったく、困るのは周りの方なんだから、答えにくい質問は投げかけないでほしいよね。あ、乾、これありがとう」
 僕はドリンクボトルを乾の傍らに置いた。
 乾はそれを両手で持ち上げて、彼の目の高さくらいまで掲げると、じっくりと眺める。
「……凶器……?」
 あんまり寂しそうに、乾がそう呟くから。
 僕は「あとは頼んだよ」とばかりににっこり大石に微笑みかけて、英二の後を追うように部室を後にした。


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