「よお、黒い軍団! 準決勝進出だってな!」
 夏真っ盛りの関東大会に、黒いジャージの俺たちは、そうとう浮いているのだと思う。さもなければ、鬱陶しいとか、暑苦しいと思われていそうだ。
 爽やかさを絵にかいたような青学ジャージ着用の、桃城と河村さんが現れた時、俺は心底そう思った。
 こうしてみると本当に、青学のジャージは爽やかだな。
 俺たちのジャージ(やウェア)の方が、カッコいいとは思うけど。
「あ、桃城くん。いらっしゃい」
 手を振りながら近付いてくる桃城に、杏ちゃんが手を振り返すと、神尾はムッとなって桃城を睨みつける。
「なんだよ桃城、お前、何しに来やがった!」
「そんな睨むなって。お前が山吹中の千石さんに勝ったって聞いて、祝いに来てやったっんだからよ」
 桃城は、神尾の態度を気にもせず(彼は神尾よりずっと大人だと思う)、神尾の側に腰を降ろした。
「別にお前に祝われる必要はねーよっ! 楽勝だ!」
「辛勝を絵に描いたような勝ち方だったくせによく言うよね……あーあ、俺がシングルス2ならもっと早く片付いていたのに」
「うるせえ、深司、黙ってろ!」
 神尾が深司を一発殴りつけると。
 深司は持っていた箸と弁当箱を降ろし、いつも無気力な視線を急に鋭くして、神尾を睨みつけた。
 ヘビに睨まれたカエルって、きっとこんなだな。
 硬直した神尾を見て、内村と桃城が腹を抱えて笑っていた。ふたりに比べれば遥かに静かだったけれど、桜井も、森も、杏ちゃんも笑っていて、よく見ると橘さんも小さく吹き出していた。
 俺も声を抑えながら笑っていた内のひとりだったから、ゆっくりと近付いてくる足音に気付かず、
「石田くん」
 声をかけられてはじめて、河村さんが側に居た事を知った。
「あ、河村さん。こんにちは」
「こんにちは。不動峰、全国出場決定だね。おめでとう」
 そう言ってもらえた事が嬉しくて、けれどどうも居心地が悪くて、俺は頭を掻く。
「ありがとうございます。俺と桜井は山吹戦負けてしまったんで、役に立ってないんですけどね」
「あはは。そんな事言ったら、俺なんていっつも青学の足ひっぱってばっかりだよ」
 河村さんは優しく笑ったけれど、その中に少しだけ潜んでいる悔しさや寂しさが伝わってきて、それがちょうど今の俺の気持ちにシンクロしてしまった。
「本当は、この間の練習試合の時に言えればよかったんだけど」
 ふと、河村さんから笑顔が消える。
「石田くんの波動球、あるよね」
「あ、はい」
「それをね、今俺、使わせてもらってるんだ。勝手に借りてごめんね」
 俺はびっくりした。そんな事をわざわざ言いに来てくれるなんて、と。
 試合中の河村さんはすごかったけれど、普段の河村さんは、優しくて律儀な人なんだな。
「氷帝戦の話は聞きました。白熱した試合だったらしいですね」
「はは……ちょっと無茶しすぎたかな」
「俺が河村さんの立場だったら、そこまでやれたかなって……考えてしまいました」
 ついさっきまで行われていた山吹戦、ダブルス1で俺たちは負けた。
 けれど、河村さんのように腕を壊す覚悟で戦っていれば、勝てたんじゃないかと思う。
 あのふたりの(確か名前は、南さんと東方さん)サインプレーによるコンビネーションは素晴らしく、ダブルスの理想的な姿とも言えるほど隙がなくて、正直その点では絶対に勝てないと思ったけれど、パワーならば間違いなく俺の方が上だった。パワーで押しきれば、あのコンビネーションを崩せたかもしれない。
「そんな事やらなくていいんだよ、石田くんは」
「え……?」
 無意識に俯いていた俺は、少し驚いて顔を上げた。
「もしやろうとしても、きっと橘が止めるよ、俺たちが戦った時みたいにね。あの時ガットが切れてなかったら、橘は無理やりにでも君たちを棄権させていたと思うよ」
 確かに、橘さんはそう言う人だ――俺は横目で橘さんを覗き見る。口ゲンカが激しくなった神尾と桃城を、微笑ましそうに見守っていた。
「全力を尽くせなかった事を、負けた事を、君はあとで悔やむかもしれないけど……絶対に途中で終わっちゃいけないんだ。君はまだ中学二年生で、先が長いんだからね」
「それは、河村さんだって」
「俺のテニス人生は、この夏で終わりだからいいんだ」
 良くない。
 良くないですよ、そんなのは。
 咄嗟にそう思ったけれど、河村さんの柔らかい笑顔の奥に、俺の言葉なんて受け付けないほどの固い決意が隠れている事が判ったから、何も言えなかった。
「俺はこの夏で、青学テニス部員として、燃え尽きてしまいたいと思ってるんだ。燃え尽きて、煙と一緒に高く昇って空に溶けて――なんて言うのかな。恨んで悔やんで蘇って来ないよう、皆の笑顔の中で、成仏させたいんだよ。俺の中のテニスへの想いとか、テニスそのものをさ」
 胸が、痛んだ。
「まあだからって自分の腕を壊していいって事には繋がらないんだけど、でも、そのために、波動球を使わせてもらってる。すごく役に立ってるんだよ、本当にありがとう」
 覚悟とか、決意とか、そんな単純なものではなくて。
 この人は、自分の最後を見極めている、だからこそ強いひと。だからこそ、今に全てを捧げられるひと。
「お役に立てて、光栄です」
 俺にそれ以外のどんな言葉を、口にできたと言うのだろう。
「あー! ごめん、気、きかなくて。せめてもの使用料に何か持ってくればよかったなあ、飲み物とかでも。なんなら今度、ウチの店に来て寿司食べる?」
 突然河村さんは慌てはじめて、そんな事を言い出した。
 本当にこの人は、律儀で優しいひとだ。
「いいですよ、そんなの。使用料なら、もう充分もらいましたから」
「え? なんで? 俺何もしてないけど」
「いいんです。大切な事を教わったんで」
 俺が笑うと、河村さんはしばらく戸惑って、やがて「ありがとう」ともう一度だけ口にして、優しく笑った。
 いつか、そう、いつか。
 俺にも河村さんと同じように、テニスを止める日が必ずやってくるだろう。
 その時が近付いて、それでも心穏やかでいられなかったら、俺は今日この日の河村さんの事を、思い出そうと心に決めた。
 そうすればきっと、今に未練を残さないよう、想いを昇華させて戦えるような気がするんだ。


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