誘蛾灯

 目が覚めると。
 ものすごく心配そうな顔をしたサエさんとバネさんが、ボクを覗き込んでいた。
「ああ、葵! 大丈夫!? 俺が判る!?」
「サエさん……?」
 どうやらボクは、テニスコートの端っこで、横たわっているらしい。
 なんでだろう。ぼんやりと体中が痛いけど、鼻の辺りだけ飛び抜けて痛いのもなんでだろう。
 とりあえずボクは、サエさんの手を借りて、上半身を起こす。
 すると鼻の奥に微妙な感覚があったので、ボクは慌てて鼻を押さえた。
「どうした?」
「なんか、鼻血が……」
「やっぱりか!」
 やっぱり? ボクが鼻血を出すのが、やっぱりなの?
「顔赤いし鼻つぶれてっから、ぶつけたんだろうとは思ったが……とりあえずコレで押さえろや。ちょっと汗臭いかもしれないけどな。あ、上向くなよ。血を飲むから」
 そう言ってバネさんは、首にかけていたタオルを、ボクの鼻に押しつけてくれた。本当に汗臭かったとしても、溢れ出る血の匂いでいっぱいで、全然気にならない。ありがたいよ、バネさん。
「でも悪いよバネさん、タオルに血がつく……」
「こんな時までそんな事を気にするなよ!」
 こんな時? どんな時なんだろう、今。ボクの体が痛い事とか、コートで横になっているのは、関係あるのかな?
「ほんの十秒くらいだと思うけど、お前、気を失っていたんだからな。まったく、何があったんだか」
 え!?
 サエさんのその言葉に、ボクはかなり驚いて、慌てて。
 そうしたらぼーっとしていた頭が突然活発に働きはじめて、霞んでいた記憶が呼び起こされた。
「ラケット……」
「ラケット? お前のラケットならここにあるぜ?」
 バネさんはボクのラケットを持って見せてくれたけど。
「そうじゃなくて、ボクがこの辺歩いていたら、突然ラケットが飛んできたんだ! それがボクの顔面に当たって――そこから記憶がないんだけど、だから気を失って倒れたんだよね、きっと」
「ラケットが、飛んできたぁ……?」
 バネさんの声が一オクターブ、低くなった感じ。
「誰だ、そんな事しやがった奴は。しかも謝りにも出てこねえし」
 どうやらものすごく怒ってくれてるみたいで。
 ちょっと不謹慎かもしれないけど、嬉しいな。優しくしてもらえるのって、いいよね。
「犯人はこの中には居ないようだ」
 気付くと、僕の周りには人だかりができていて、サエさんはひとりひとりの顔を眺めて、勝手に納得してしまった。
「どうして判るんだ?」
「だって、葵にぶつかったラケットってアレだろう?」
 ボクとバネさんは、サエさんが指差す先を同時に見た。
 そこにあったのは、常軌を逸した、規定限界の長さを持つ、ウッドラケットで。
 その持ち主が誰であるかは、その場に居る皆が判っていた。
「んにゃろアホダビデが! 人に怪我させて、脳震盪まで起こさせといて、逃げ隠れしやがったのか! とっ捕まえてぶん殴ってやる!」
「バ、バネさん、もうちょっと穏便に」
「それにがむしゃらに探しまわったって掴まえるのは至難の技だろう。誰か、職員室からティッシュと拡声器とビニールロープを持ってきてくれるかな? ビニールロープがなければガムテープか紐でもいい」
 ティッシュはまあ、ボクの鼻血のためだろうけど。
 拡声器とビニールロープって、何に使うのさ、サエさん。
 ボクは気になったけど、サエさんがいつもの優しそうな、爽やかな笑みじゃなくて、ちょっと企んでる感じの表情だったから、聞くのが怖くなってやめてしまった。代わりにバネさんをじっと見つめてみたんだけど、バネさんも判らないみたいで、首を傾げてる。
「何する気だ? 佐伯」
 我慢しきれなくなったみたいで、とうとうバネさんが訊ねた。
「……誘蛾灯って知ってる?」
「ゆうがとう?」
「蛾を誘い込んで始末する、灯りの事だけど」
 だから、何?
 と、思ったのはボクだけじゃなく、バネさんもみたいなんだけど、サエさんはそれ以上教えてくれなくて。
 しばらくしてティッシュと拡声器とビニールロープが届くと、子供みたいに楽しそうに笑った。
「葵、悪いけど、鼻血の方は自分で処理してくれるかな?」
「うん……」
 言われなくてもそのくらい自分でするつもりだったけどね。まあ、余計な事言うのもなんだし、とりあえず素直に頷いたボクは、サエさんからティッシュを受け取る。
「黒羽、ちょっとこっちに来て」
 サエさんはバネさんの手を引いて立ち上がると、ちょっと離れたベンチまで歩いて行って、そこにバネさんを座らせた。
「天根捕獲作戦、もちろん、協力してくれるよね?」
「当然!」
「ありがとう」
 そしてサエさんは、ビニールロープを手に取ると。
 それでバネさんはぐるぐる巻きにした。
 ……は?
「何する気だ佐伯!」
「協力するって言ったんだからおとなしくするように!」
「どう言う作戦なんだ、一体!」
 バネさんはちょっと戸惑ってるけど、まあ長い付き合いだし、サエさんが冗談でそーゆー事やってるってのは判るみたいで、怒ってはいない。
 でも、もう少しくらい説明があってもいいと思うよ、サエさん。
「本当に縛ったりしないから。その代わり、端っこはちゃんとおさえていてくれるかな」
「だから何する気なんだお前は……」
「さっき話したろう? 誘蛾灯の話。つまり、天根が蛾で黒羽は誘蛾灯なんだ」
 判ったような判らないような事を言ったサエさんは、にっこり微笑んで、拡声器を手にとって。
『葵剣太郎にラケットをぶつけた犯人に告ぐ!』
 突然、演説をはじめた。
『お前の相方である黒羽春風の身柄は拘束した。速やかにテニスコートに出頭すれば、無傷で開放しよう!』
 うわぁ。
 どうしよう。サエさん、それいくらなんでもくだらなすぎ、とか思いつつ。
 すっごく、楽しそう!
 ボクと同じ事を思っている人は多いみたいで、コート中の皆が、ニヤニヤ笑ってる。
『繰り返す! お前のシャレにツッコミを入れてくれる唯一の男、黒羽はるか……』
「バネさん! 大丈夫か!?」
 うわあ、登場早すぎだよ、天根。
 ものすごく息を切らして、ごていねいに汗まで流しちゃって。よっぽど急いできたんだろうなあ。
 天根はそのままバネさんのそばまで走ってきて、ビニールロープでぐるぐる巻きになっている様子に息を飲んで、サエさんをキッと睨みつける。
「ひどすぎるぞサエさん! バネさんだって仲間なのに、こんな目に合わせて……!」
「確かに黒羽にはひどい事をしたと思うけど」
 サエさんは、拡声器を置いて。
 代わりに、放置されたままの天根のラケットを拾う。
「仲間の顔面にラケットをぶつけたまま謝りもせずに逃げるよりは、ましだと思うけど? ねえ、黒羽?」
「まったくだ!」
 バネさんは、ビニールロープを自分で解いて、立ち上がって、
「え?」
 まだ状況が判っていない天根の背後から腕を回して、思いっきり首を締めた。
 よっぽど苦しいみたいで、もがく天根の姿を見ていると、見ているこっちが怖くなる。本当に死んじゃうんじゃないかって。
「バ、バネさん、もうそれくらいでいいよっ! 天根死んじゃうって!」
「このアホはこれくらいじゃ死なないぞ?」
「でもまあ、やられた葵が言うんだから、そろそろ開放してあげれば?」
「そーだな」
 バネさんが腕から力を緩める。
 天根はその場にしゃがみ込んで、盛大に噎せ込んだ。
 だ、大丈夫かなあ、天根……。
「もしかして、バネさんもサエさんも……俺を騙したのか?」
 ……ようやく気付いたの? 天根ってば。ニブすぎだよ。
「ああ騙したさ。悪かったなダビデ」
「ごめんよ」
 あれ、ふたりとも、いやにあっさり認めちゃって、しかも謝るなんて。
 天根はビックリしたみたいで、ふたりの間で視線を泳がせる。
 それで、何かに気付いたように、はっとなって。
 最後にボクをじーっと見つめてきた。
 な、何、かな?
「ごめんな、葵」
 えっ?
「言い訳っぽくなるけどな、ラケットはわざとぶつけたわけじゃなくて、手が滑ってお前の方にとんでっちまったんだ。まあでも、悪かった。逃げたのもな」
 ああ、そっか。
 ちょっと冗談が過ぎるし、乱暴なトコロもあるけど、そこがおもしろくて優しい、いい先輩を持ったって、事だよね。ボクたちは。
「いいよ別に。大した事なかったし」
 ボクが笑って答えると、天根はすごく安心した顔になって。
 それから「よーし、よくできたな」ってバネさんが頭をぐりぐり撫でたら、嬉しそうに笑った。

 ……と。
 ここまでで終われば、心温まるいい話だったと思うんだけど。
「でもバネさんのタオル汚しちゃった。ごめんねバネさん」
 ってボクが言ったら、バネさんが豪快に笑いながら言ったんだ。
「だから気にすんなって。どうせそのタオルダビデのだからな」
 天根は慌てて血まみれになったタオルの柄を確かめて。
「はあ!? うわほんとだヒデーよバネさん! 人のお気に入りのタオル勝手に使った上に、こんなに汚して!」
「いーじゃねーか。葵が鼻血吹いたのは結局お前のせいだったんだからよ」
「因果応報ってやつだ」
「そうそう、それ!」
 サエさんとバネさんの、笑い声が響く。
 うなだれる天根の背中が、あんまり哀れで。
 敵わないよね、やっぱり、と、思わずにはいられなかったよ。


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